2010年5月29日土曜日

アメリカで武者修行 第7話 使い物にならないわね。

二日目の朝、ケヴィンの部屋に机が運び込まれました。やっと自分専用の机がもらえるのかと思いきや、シンスケのじゃないよと言われました。
「PBから契約担当の人間が来るそうだ。」
とケヴィン。私は少し離れた場所に用意されたキュービクルに移ることになりました。キュービクルというのは、周囲の三辺を薄い壁で仕切っただけの簡易オフィスです。
「契約担当って、それは僕の仕事じゃなかったの?」
「シンスケは下請けの担当。今日来る人は、元請けと我々との間の契約を担当するんだよ。」
「元請けとの契約って、もう成立してたんじゃないの?」
「ああ、契約締結はもう済んでるから、これからは契約変更が主な仕事になると思うよ。」

午後になって現れたのは、白人の中年女性。エンジ色の細縁眼鏡をかけ、肩にかかる金髪はあまりまとまりがなく、顔に覆いかぶさろうとする前髪を眼鏡で押さえている、といった格好。
「リンダよ。よろしく。」
ソフトな握手をすると彼女はすぐにマイクの部屋に消えました。
「彼女、弁護士資格を持っているんだって。それに、これは確かな情報じゃないんだけど、マイクの奥さんらしいぞ。」
とケヴィンが言いました。

三日目の朝、私はケヴィンの助けを借りて、最初の下請け契約書の原案と、先方のサインを促す手紙を完成させました。
「で、これをどうすればいいの?」
「マイクにサインしてもらうんだよ。」
「え?それで終わり?誰か他にチェックしないの?」
「いや、マイクだけだ。俺達はマイクの直属の部下だからな。」
確かに組織上はそうだし、経験豊富なケヴィンが手伝ってくれたとはいえ、こんな素人が作った契約書にプロジェクトマネジャーがサインして一丁上がり、なんてことでいいのかな、と不安になりました。しかし私の心配をよそに、マイクはざっと全体を見渡しただけで躊躇なくサインしました。
「早く奴等にもサインさせて、さっさと仕事を始めさせろよ。」
と吐き捨てるように言いながら。

翌週月曜の朝、私が二本目の下請け契約書原案を持っていくと、ざっと目を通して頷いた後、マイクが、
「これからは俺がサインする前に、リンダに内容をチェックしてもらってくれ。」
との指示。リンダは法律の専門家。彼女の目を通っていれば何の懸念もなく外に出せるだろう、と内心ほっとしていました。

「使い物にならないわね。」
私の原案は、満身創痍ともいうべき態で突き返されました。赤ペンの刀傷が縦横に走っていて、見るも無残な姿です。
「耳障りのいいフレーズを使ってみたかったのかもしれないけど、絶対にこんな甘いことを書いちゃ駄目よ。」
一応ケヴィンもマイクも目を通した文書なんですけど、と言いたい気持ちを抑え、そのまま指導を仰ぎます。
「いい?これだけは覚えておいて。契約というのは、我が身を守る戦いに他ならないの。CYAという言葉を知ってる?」
「CIAですか?」
「シー・ワイ・エイよ。Cover Your Ass(自分のケツを守れ)ってこと。契約はCYAそのものなの。何を伝えるにしても、細心の注意を払いなさい。少しでも曖昧さを残しちゃ駄目。一語一語、どう書くかをしっかり考えるのよ。これは契約書に限ったことじゃないの。Eメールもファックスも同じこと。通信内容はすべて契約の一部と見なされるんだから。口頭だったら多少ソフトなことを言ってもいいの。でも文書にする時は隙を作らないよう気をつけなさい。」

午後一番で、マイクが私のキュービクルにぶらりとやって来て言いました。
「おいシンスケ、今からミーティングがあるんだ。会議室まで来てくれ。」
私が着席するのを待って、会議が始まりました。出席者は10人ほど。そのほとんどが、今日初めて会うか初日に自己紹介しあっただけの人です。今週すべきことについて話し始めたようなのですが、具体的に何を喋っているのかさっぱり分かりません。専門用語の洪水に呑みこまれ、メモを取ることもままならない。あまりにもチンプンカンプンで、そのうち猛烈な睡魔が襲ってきました。太ももをつねって懸命にこらえていたところ、
「で、その件は今どうなってるの、シンスケ?」
という声が聞こえた気がしました。

ハッと顔を上げると、全員が私を凝視しています。完全に虚をつかれました。何を尋ねられたのか分からないのだから、どう答えれば良いかなど分かるわけがない。頭が真っ白になり、自分の顔がみるみる紅潮していくのを感じました。しかしこれは、ビジネススクール時代に何度も経験したこと。腹をくくって開き直るしかない。
「ごめんなさい。聞いてなかった。もう一度質問を繰り返してくれる?」
「土質調査の結果が出なければ仕事が先に進まないのよ。スケジュールはどうなってるの?」
埋設管調査担当のニキータでした。
「先週末、下請け業者に契約書を送ったばかりだから、実際の調査計画はまだ分からないよ。まだ彼らのサインももらってないし。」
「分からないじゃ困るのよ。調査スケジュールが決まらないと、私達の仕事の計画が立たないんだから。」

この時初めて、自分の仕事が既にプロジェクト全体の遅れの原因になっていることを悟ったのでした。会議出席者全員の挑むような視線を浴び、背筋が凍る思いでした。土質調査や測量の結果は設計の前提条件になるため、それを実施する下請け業者との契約締結が遅れれば当然全体のスケジュールがズレこむ訳です。考えてみれば当たり前の話なのですが、まったくそこに思いが至りませんでした。そもそも、契約書に出てくる単語をいちいち辞書で引いているような状態では、仕事が順調に進むはずがありません。こんな立場に長いこと置かれたら、マイクに実力を見せ付けるどころか、首が危ない…。

その晩から、契約書のファイルをモーテルに持ち帰って猛勉強する日々がスタートしたのでした。

3 件のコメント:

  1. ハッと顔を上げると、全員が私を凝視しています。完全に虚をつかれました。何を尋ねられたのか分からないのだから、どう答えれば良いかなど分かるわけがない。

    というのは、日本での英会話スクールのコマーシャルそのものですね。そこで、CMの中では、苦笑いするビジネスマンが、『イ、イエス』と答えるのです、汗ふきながら。

    でも、偉いなーと思ったのは、シンスケがちゃんと聞いてなかったからもう一度説明してくれ、と言えたことかな。

    返信削除
  2. CYA、この社会でやっていくには大事な言葉ですね。クールな英語表現に入れても良いのではないですか。
    辛辣な意見や率直な感想は得てして女性から出るようですが、しっかり物を言ってくれる人の存在ってありがたいですよね。

    返信削除
  3. 新橋さん、

    明らかに質問を理解していないのに、分かったフリをしたためにどんどん悪循環に落ちていく人を、ビジネススクール時代に見ました。目の前で。あれはこわ~い体験だった。あんなことにだけはなりたくない、という恐怖感があったのですね。

    YSさん、

    そうなんです。女性の辛辣な一言ってのは胸にぐっさり刺さります。そのキズはいつまでも癒えない…。なんであんなに自信もって他人に物が言えるのだろう、と羨ましくも恨めくも思います。

    返信削除