2002年11月1日、初雪舞う朝。義母に持たされたおにぎりを助手席に置き、厚手のコートに身を包んでトヨタ4ランナーのエンジンをかけました。合計約五千キロに及ぶ大陸横断の旅です。激安モーテルで宿泊しながら、雪のちらつくインディアナを抜け、紅葉のオクラホマを越え、土砂降りのテキサスを抜け、アリゾナの灼熱砂漠をまっすぐ貫くハイウェイをひたすら走り続け、椰子の木揺れる緑のサンディエゴに到着したのは11月5日の午後でした。晩秋のミシガンを出発した私は、Tシャツ短パン姿で歩く人たちを見て、とうとう南カリフォルニアに戻ってきたぞ、という実感を噛み締めました。午後三時、予約していた職場近くの安モーテルにチェックインすると、翌日から働き始めることになるオフィスを見に行くことにしました。
メキシコとの国境近くにあるその事務所は、荒涼とした空地にぽつりぽつりと建っている凡庸な平屋建てオフィスビルの一つでした。宅地造成が終わったばかりで建物のない光景は日本で見慣れていましたが、東に向かって三十分も走ればすぐ砂漠、という乾燥地帯だけに、土の白さがやけに眩しく映りました。オフィスに入るつもりはなかったのですが、せっかくだからと受付に行ってケヴィンを呼び出しました。驚いた顔で登場した彼は、右手を差し出して握手を求めました。
「一日早い到着だな。ようこそ。少し待っててくれないか?もうすぐ仕事終わるから、夕飯一緒にどうだ?」
「いいね、これから食べに行こうと思ってたところだから。」
「そうだ、せっかくだからマイクに挨拶して行けよ。明日の朝いきなり会うより気が楽だろ。」
「あ、でも、こんな格好で大丈夫かな。」
オレンジ色のポロシャツとジーンズ姿の私は、第一印象を悪くすることに少し不安を感じていました。
「何言ってるんだ。全然構わないよ。」
「俺がマイクだ。よろしくな。」
デスクの向こうから手を差し出したボスのマイクは、山のような大男でした。厚ぼったいブロンドの口髭をたくわえる一方、頭頂部は少しまばら。50代前半でしょうか。こんな巨体になる遺伝子を受け継いだことを始終呪っているとでもいうような不機嫌面。グレーの特大ポロシャツと綿のスラックスに身を包んだ彼は、どことなく横浜の水族館で見たセイウチを連想させました。彼はまるでしかめ面を続けるゲームの最中なのだというように、一瞬だけぎこちない笑顔を作ってからすぐまた椅子に腰を下ろしました。
「あんたの名前だけど。」
「は、名前、ですか?」
「名前、どう発音すりゃいいんだ?」
「あ、シンスケ、です。」
「ふん、シンスケ、か。綴りからは想像がつかんな。」
「そうですか。よく言われます。」
私の返答から会話を広げようという素振りは微塵も見せず、彼は目の前の書類に目を落としました。何か考えているような表情を浮かべ、それから暫くして私がまだ自分のオフィスの真ん中に突っ立っていることにようやく気付いたとでもいうように、
「それじゃ、明日から頼むぞ。」
と再びぎこちない笑顔を作りました。
「そうか、そういう挨拶だったか。マイクらしいな。」
海に面したレストランバー。ケヴィンが苦笑いを浮かべて言いました。水平線の向こうに夕日が沈みかけています。
「彼は人と話すのがあまり得意じゃないみたいなんだ。」
私は不審に思って尋ねました。
「でも、彼がプロジェクトマネジャーなんだろ。話すのが苦手じゃ済まされないんじゃないのか。」
「その通り。でも、経緯はともかく、彼がプロジェクトマネジャーなんだ。橋の設計を長くやってた経歴を買われたんだろうな。このプロジェクトを始める前は州政府の交通局で役人やってたんだって。橋梁部門の大物だったそうで、これから俺達の設計審査をする人たちに顔が利くからって理由で引き抜かれたと俺は踏んでるんだ。」
ビールを一口すすった後、ケヴィンが真顔になってこう言いました。
「実はな、シンスケの給料の話だけど、俺、悪いけど額を知ってるんだよ。馬鹿げた給料で申し訳ないと思ってる。マイクにかなり強く掛け合ったんだけど、結局押し切られた。」
みるみる顔が赤くなるのを感じました。まさか彼に給与額を知られているとは思ってもみませんでした。
「実力を見極めてからまともな給料を払うっていうんだよ。俺がこの男は優秀だから大丈夫だって言ってるのにさ。」
「有難う。気苦労かけて悪いな。」
「だって俺が紹介した男が安月給だなんて、情けないじゃないか。」
「いや、マイクの言う通りだよ。働きで実力を見せ付けなきゃ。頑張るよ。君に恥をかかせないためにもな。」
「そんな心配は全然してないよ。シンスケならすぐに能力を認められるって。とにかく、給料アップの交渉をする時には俺が絶対力になるから。」
心強い笑顔。彼はどうしてここまで良くしてくれるんだろう?胸が熱くなりました。
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