2010年5月7日金曜日

アメリカで武者修行 第1話 あなた、何が出来るの?

2002年6月、晴れてカリフォルニア大学アーバインのビジネススクールを卒業しました。これでようやくMBA取得です。受験勉強に明け暮れた日々を含め約四年間の苦労が、この日ようやく報われたのです。房のついた黒い角帽とガウンを纏って講堂の壇上へ進み、学長から修了証書を渡されると、級友達が一斉に口笛と拍手、それから怒号のような足踏みで祝福してくれました。壇から降り、冗談を飛ばしながら仲間の一人一人と握手を交わしていると、教授の英語が一言も聞き取れないことに気付き愕然とした初日の記憶が蘇ってきました。そして、我ながら二年でよくここまで成長したもんだと誇らしい気分になりました。会場には、受験生時代から私を支え続けた妻が生後七ヶ月の息子を胸に抱き、彼女の両親とビデオカメラを回したりカメラのシャッターを切ったりしています。講堂を出ると、抜けるような青空に目がくらみました。今度は私が息子を抱いて妻と三人、記念撮影です。

しかしそんな晴れがましい日にあってさえ鉛のように私の心を曇らせていたのは、就職先が未だに見つからないという現実でした。14年勤めた会社を辞して日本を飛び出した私は、間もなく40歳の声を聞こうとしていました。たとえ帰国したとしても再就職が容易でないことは分かっています。留学生活スタート時点では太平洋を挟んでの別居生活だった妻にも結局仕事を辞めてもらい、東京のアパートを引き払って生活拠点を米国に移しました。二年目の秋には息子も生まれ、家族三人の南カリフォルニア生活が始まったばかり。年間を通して温暖で海が近く、子供を遊ばせるスペースには事欠かないこの生活環境を捨てるのは何とも忍びがたい思いでした。そんな時、運良く永住権を取得し、米国で就職するための最大の障害は取り除かれました。しかし何と言っても、日本にいた頃から抱いていた「組織に依存して生きるのではなく、組織から求められる存在にならなければ」という強い意思が、この挑戦を後押ししたのです。

しかし現実は甘くありませんでした。折からの不況で米国は未曾有の就職難。級友達も、卒業時点で就職が決まっていたのは三割程度でした。前年の秋に就職活動を始動した私は、卒業に至るまで来る日も来る日も履歴書を書き直し、送りつけた先は百箇所を超えました。土木工学科出身、都市開発事業に十四年間従事、という経歴は誰の目にも魅力的には映らないようで、たまに届く返事は「コンピュータで図面が描けますか。描けるなら連絡下さい。」という質問ばかり。製図をするためにMBAを取ったわけじゃない、と妻にぼやくことしきり。履歴書発送以外にも、ネットワーキングのため初対面の人だらけのランチパーティーに飛び込んだり、日系企業の交流会に乗り込んだり、いくつもの人材派遣会社に登録したり、ヘッドハンティングのプロに売り込みの極意についてご教示を仰いだり、地元市役所におしかけて仕事がないか尋ねたり、とあらゆる手段を試しました。しかし正式な面接まで漕ぎ付けたのはわずか二件。ひとつ目は地元オレンジ郡の交通局。三人の面接官から次々と質問を浴びせられ、十問目くらいまでは無難に進んだのですが、
「高速道路設計の経験はありますか?」
という問いに
「ありません。一般道路の設計になら関わったことがありますが。」
と答えると、彼らは互いに目配せを交わしました。誰がこんな奴を面接に呼んだんだ?とでも言いたげな表情で。

二件目は、環境保全技術に力点を置いた設計コンサルティング会社。
「あなた、何が出来るの?」
という問に対し、
「利害の異なる様々な人々の意見を調整し、プロジェクトを進めることです。」
と答えると、面接官は、この男は質問を聞いていなかったのかな?という面持ちで、
「で、何が出来るんですか?」
と同じ質問を繰り返しました。

せっかく電話をもらっても、面接まで至らず破談になったケースは無数にありました。受話器の向こうから飛んでくる「何が出来るんですか?」の質問に、説得力ある返答ができず、そのまま電話を切られるというパターンです。日本で14年間やってきた仕事を一言で表現するとすれば、「コーディネート業務」。大規模な都市開発プロジェクトをいくつか担当し、地元の自治体や代議士、進出企業、地域住民や新しく住む人、環境保護団体のメンバー、その他大勢の関係者と意見のすり合わせをしながら仕事を進めました。組織を辞めるその日まで、自分の仕事に誇りを持っていたし、この経験はきっと自分の強みになると信じていました。ところがアメリカでの職探しの過程で思い知らされたのは、「自分には得意技がない」ということでした。企業がコーディネート業務の経験を強みと思っていないのは明らかで、それを評価してくれる可能性のあった唯一の候補、地元市役所からは、
「アメリカの役所で働いた経験のない外国人をぽんと雇うわけにはいかないよ。アルバイトから始めるというのなら別だがね。」
というコメント。言われてみれば彼らの言う通りです。しかし私も妻子ある身。二束三文のアルバイトからスタートするなんて出来るわけがありません。

卒業から三ヶ月過ぎた時点で何のあてもなく、これ以上無職のまま家賃を払い続けるわけにはいかない、と夫婦で話し合った結果、ミシガンにある妻の実家で居候をさせてもらうことになりました。彼女の父親はもともと駐在員としてデトロイトで勤務していた商社マン。退社後も地元でコンサルティングをやっている人です。英語の達人で、私はビジネススクール受験時代から論文の添削等でお世話になっていました。まさか働き口がなくて居候させて頂くことになるとは予想もしていませんでした。

2 件のコメント:

  1. 行きずりの者です。同じくアメリカで英語に四苦八苦しながらアメリカンドリームを追って生きています。。勇気をもって道を切り開いて行かれた体験談に感動しました。非常に参考になります。

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  2. コメント有難うございます!行動を起こす前に考え過ぎない性格だからこそできたことだと思います。とにかくひたすら前を向いて進む。これしかない。頑張りましょう!

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