2020年3月27日金曜日

Uncharted Territory 未知の領域


一月に婚約してフロリダのペンサコーラへ引っ越した部下のブリトニーから、

「ちょっと話せる?」

とテキストが届きました。

「特に何もないんだけど、暫く話してないから近況報告したくって。」

「オッケー。じゃあ一時間後に。」

ドアを開けてキッチンに進み、紅茶を淹れようとポットの「再沸騰」スイッチを押します。

先週木曜にカリフォルニア州知事が「全州民外出禁止令」を出したことで、最後まで出勤組だった私も遂に自宅勤務をスタート。倉庫代わりに使っていた客間を片付け、折り畳みテーブルとキッチンデスクを持ち込んで簡易オフィスを設置。妻は職場から角度調整機能付きオフィスチェアと大画面モニターを運んで来て、ダイニングテーブルの隅に本格的な職務空間を作り上げました。コロラドから春休みで戻って来た息子は、次の学期一杯オンライン講座になることが正式に決定したため、期せずして一家三人の濃密なサンディエゴ暮らしが再開した格好になりました。

水泳部の厳しいトレーニングのおかげで全身筋肉になった18歳の息子は、まるである日突然座敷犬として飼われ始めた猟犬のように、膨大なエネルギーのやり場に困っています。仕事中に度々ノックしてはドアを開け、そっと入って来てiPhoneを差し出し、私の右耳にAirpodをはめ込んで面白動画を見せ、クスクス笑いながらこちらの反応を窺うティーンエイジャー。

「あのね、何度も言うけど一応仕事中なんだよ。」

「あ、ごめん。でも面白いでしょ、これ。」

社会に出てから三十余年、正式に自宅勤務を体験するのはこれが初めてです。通勤時間が無くなったのでその分余計に眠れるし、勤務体制はフレキシブルに調整出来る。その気になればシエスタなんかも挟み込める。そんなプラス面を数えていたのに、結局いつもより長時間働いていたりする私。

「ほら、私がリモートワークをしたいって申し出た時、いずれはそういうワークスタイルが標準になるだろうから、君がその先駆者としてノウハウを積み上げてチームメンバーと共有してくれって言ってたでしょ。」

電話の向こうでブリトニーが、過去の会話を再現します。あ、確かにそんな話したな、と薄っすら記憶が蘇ります。

「そんな未来が、意外に早く到来したなって考えてたの。」

私も含めて16名のチームが全員、自宅からテレワークをしている現実。これがあと数カ月続けば、今度は元に戻す時にストレスを感じるかもな、とふと思います。

前日に人事部のシャリーンがマネジャー達を集めて電話会議した際、

“This is an uncharted territory.”

という表現を使っていました。Uncharted は「海図の無い」という意味なので、

“This is an uncharted territory.”
「これは未知の領域よ。」

ということですね。コロナウィルスのために全世界が激震している現実を捉えてそう言ったのでしょうが、「無期限の総員自宅勤務」という事象ひとつとっても、未知の領域であるであることは間違いありません。ブリトニーの婚約者は空軍勤務なのですが、やはり自宅待機を命ぜられているとのこと。

「基本的には何もしてないの。なのに毎朝6時半に起きて、制服に着替えて7時の点呼に備えてるのよ。」

「え?でも出勤しないんでしょ。」

「そうなの。でもビデオ会議で全員顔を見せて、点呼を取るのよ。それが終わると制服脱いでまたパジャマになって、ベッドに戻るの。正直、馬鹿げてると私は思うんだけど。」

大笑いした私は、我慢できずにコメントします。

「そんなのさ、パジャマに上着羽織って前のボタンだけ締めときゃバレないでしょ。」

すると、待ってましたとばかりにブリトニーが応えます。

「もちろん私もそう言ったわよ。そしたら、いつ抜き打ちで立たされて全身チェックされるか分からないじゃないかって言うの。」

な~るほど~。ばっかばかしい~。軍人たちも、「未知の領域」でもがいてるんだなあ。


2020年3月15日日曜日

人間万事塞翁が馬


先日ランチルームで同僚ジョナサンと隣り合わせになった際、久しぶりに深い話になりました。会社の出世競争には全く縁が無かったけどそもそも興味も無いこと、それより自分が今ここで世の中の役に立つ仕事をしているという満足感は何物にも代えがたいこと、長いキャリアの中で様々な困難に遭遇したが、なんだかんだで結構素敵な人生が送れていること。

「確か中国のことわざだったと思うけど、こういう話知ってる?」

と、ジョナサン。

「じいさんが飼ってた馬が逃げて村人たちから気の毒がられたが、その馬が優れたパートナーを連れて戻って来た。今度はその馬に乗っていた息子が落馬して脚を折ったが、そのお蔭で兵役を免れた。」

あ、それは知ってるよ。と私。

「人間万事塞翁が馬、って日本語では言うんだ。」

耳慣れぬ日本語にキョトンとするジョナサンでしたが、彼の博識ぶりにはいつも感心させられます。

「人生で起こるひとつひとつの出来事がラッキーかアンラッキーかなんて、ずっと後になってみないと分からない。このことは、最近本当に実感してるよ。」

二人大きく頷き合ってから、午後の仕事に戻ったのでした。

さて金曜日の午後。ランチから戻ってオフィスのエレベーターホールからレセプション・スペースに進んだところ、女子トイレの前で佇む若い男性と目が合いました。

「おお、フランコ!」

握手の手を差し出す私に、

「ああシンスケ、久しぶり。手を握っても平気?」

と、上げかけた右手を中途半端な角度で止め躊躇う若者。フランコは、私の部下の一人カンチーの彼氏です。

「大丈夫だよ。心配ないって。」

と肘を伸ばし、強引に握手に持ち込む私。新型コロナウイルス感染者の爆発的な増加を受けて異例の全国封鎖措置に出たイタリアから、その数日前に出国した彼。しかもその震源地とも言うべきミラノに住んでいたため、それ以降極度に人との接触を避けていると聞きました。過去二週間というもの毎日頻繁に体温をチェックしているというし、感染者である可能性はかなり低いのは知っていたので、心配すんな、というジェスチャーも含めて彼の手を握ったのですね。その時トイレの扉が開き、カンチーが現れました。これから二人でランチに行くんです、という若者たちと、その場で暫く立ち話に耽ります。

「今振り返ってみると、エンジェルが僕たちに幸運を運んでくれた気もするんだ。」

とフランコ。

「最初の計画通りだったら、今頃どんなことになってたか…。」

とカンチー。

さかのぼること数か月前。カンチーから相談があったのです。三月後半辺りから、彼氏の暮らすミラノに二、三カ月滞在したい。しかし有給休暇だけでは全期間を賄えないので、ミラノ支社でのリモートワークを許可してもらえないだろうか、と。というのも、去年一年で彼は二回か三回サンディエゴに長期滞在していて、アメリカの入管が訝しみ出したというのです。そんなにしょっちゅう入国する外国人は怪しい、と。で、暫く彼の方からの訪問は控えざるを得ない。なら自分があっちに行くしかない。彼女としては、結婚するかどうかも含めて色々考えないといけない段階に来ていて、このまま遠距離恋愛を続けていても埒が明かない、やはり同棲してみないことには、という判断に至ったのですね。

さっそく私は事案を上層部に上げ、人事部も含めて色々検討してもらったのですが、結果的に答えはノーだったのです。イタリアという国は外国人労働者に対する敷居が高く、支払わなければならない税金が法外な額だとのこと。それでも喜んでサポートしましょう、と言ってくれるほど甘い会社ではないので、この件はお流れとなったのですね。それを聞いたカンチーは涙を浮かべ、「私のわがままのためにこんなに色々手を尽くしてくれて有難うございます」と感激していましたが、結局彼との同棲計画は潰えてしまいました。これで一巻の終わり、と思っていたところ、二月になって、カンチーの妹が突然結婚の発表をします。月末にベトナムで式を挙げるからお姉ちゃんも絶対来てよね、という話になり、フランコと二人で出席する運びになったのです。

「アジアはコロナウイルス感染者が多いから危険だ」という家族一同の慰留を振り切ってミラノを出たフランコですが、故郷ロンバルディア州全面封鎖のニュースが彼の耳に入ったのは、ダナン空港に着陸してからのことでした。「お前はラッキーだ。封鎖前に脱出出来て良かった。」という家族からのメッセージに、心中複雑なフランコ。おまけにカンチーの親戚一同から、「あんた感染してないだろうな。」という疑いの目を向けられ、肩身の狭い思いをさせられたそうです。式が終わり、さていよいよ帰国となった時、若い二人は難しい選択を迫られます。さてフランコはどこへ帰ればいいのか。本来ならバンコク、アブダビ、と経由してミラノへ戻るはずだったのですが、国境封鎖がいつ解除されるか誰にも分からない。さらにバンコク入りした途端、14日間の隔離対象になる可能性も高い。こうなったら勝負に出よう、とアメリカ入国に切り替えたのです。

「ロサンゼルスの入管が、拍子抜けするほどあっさりと彼を通してくれたんです。」

とカンチー。最悪のケースを想定し、僕が止められたらそのまま構わず行ってくれとカンチーに言い聞かせていたフランコも、安堵の歓びに浸ります。

「そんなわけで、サンディエゴで一緒に暮らす機会が転がり込んで来たんですよ。当初の計画通りミラノに渡っていたら、アメリカに戻って来られなくなってたかもしれない。それを考えたら、何か目に見えない力が私達を守ってくれたような気にさせられるんです。」

喜びと不審と驚きが入り混じった表情で、語り終えるカンチー。フランコは我々のオフィスの近くのレンタルオフィススペースを使って仕事を続けているので、毎日ほぼ一緒に行動出来ている、とのこと。今回の件は、まったくもって「人間万事塞翁が馬」だな、と感慨に浸る私でした。数か月前に断念した二人の同棲生活が、こうしてサンディエゴで実現している。息子のアジア行きを心配していたフランコの両親が、今では隔離状態にある。禍福は糾える縄の如し、という言葉もあるな…。

ここでふと気になって、フランコにこう尋ねてみました。

「ところでさ、ずっと気になってることがあるんだ。ヨーロッパの中で、どうしてイタリアだけがあんなに大胆な対策を取らなきゃならないほど事態の悪化を見てるんだろうってね。」

ああ、そのことね、と即座に溜息をつき、首を振るフランコ。

「国民性が大きく影響していると思うんだ。恥ずべきことだけど、極度に楽観的で、大抵の事態を深刻に捉えない習性があるんだ。まだ感染がおさまってもいないのに、大丈夫だよってどんどん集会や飲み屋に出かけていって、握手やハグやキスをしまくるからさ。」

「なるほどね。僕のイタリア人像もまさにそれだな。確かに国民が皆そんな行動続けてたら、感染がおさまるわけないよね。」

「そうなんだ。この手のリスク管理には、規律遵守を得意とするイギリス人的国民性の方が有効でしょ。残念ながら、我々イタリア人にとって最も苦手な分野なんだよね。」

さらに大きく首を振って嘆くフランコに、私がかけられる言葉はあまりなく、

「ランチ楽しんでね!」

と二人を送り出したのでした。

席について暫く、考えこんでしまった私。

もしかしたら、事態を深刻に考え過ぎないイタリア人の方が消費者行動の変化も少なく、経済的な打撃も軽いかもしれない。だとすれば、流行終焉後は逆に立ち直りが早いかも。長い目で見たら、イタリア人の明るい国民性に軍配、という話になるかもな…。

とにもかくにも、人間万事塞翁が馬、ですね。

2020年3月1日日曜日

予測不能な展開


我が家では、金曜日の夕食当番は私です。仕事を早めに片付けて会社をあとにし、Sproutsというオーガニック系食料品店に寄りました。今回のメインは、「カチャトーラ風カッペリーニ」。味の決め手となるトマトソースを選ぼうと缶詰エリアに進んだところ、高齢の白人カップルが棚の真ん前にショッピングカートをどかっと停め、話に花を咲かせています。私のお目当ては、イタリアの雰囲気びんびんの黄色い太缶。五十年前から変わっていないじゃないかと思われる古めかしいフォントの商品名が、血液のようにどぎつい赤で大きく印字されています。これが陳列されていたのが最下段の棚だったので、老夫婦のカートに身体がぶつからぬよう腰をかがめて腕を伸ばし、なんとかひとつ掴みます。その時でした。頭上から白人男性が、

「チェント~!」

と大声で叫んだのです。まるで老空手家が唐突に瓦割りを決めたように。びくっとして顔を上げる私。男性は私の目を真っ直ぐに見つめ、

「そいつは最高だ!」

とニコニコしています。私の手におさまった缶詰のタイトルがCENTOで、これをイタリア語で発音すると「チェント」になるのだということに気付き、ようやく合点がいきます。奥さんの方も微笑みながら、

「それすっごく美味しいのよね。」

と割り込んで来て、イタリア語訛りの英語で賑やかに称賛し始めました。僕も前に食べたことがあり、とても気に入っているんですと答え、二人を離れてレジに進みます。駐車場に戻りながら、自分の顔が笑っていることに気付きました。あの二人は長年イタリアに住んでいたに違いない。この界隈で小さなイタリアン・レストランをやっていて、今日は材料の買い出しに来ていた、なんてね。そんな目利きたちのお墨付きを頂けたんだから、今夜の料理の大成功は間違いない…。勝手に想像を発展させ、ほんわかシアワセな気分で家路につくのでした。

話変わってその前日、久しぶりにランチルームで同僚ジョナサンと会った際、どういう流れからか映画の話題になりました。そして二人ともデイヴィッド・リンチが大好きだということが発覚し、オタクな会話で盛り上がります。この時我々が意気投合することになったテーマが、リンチ十八番の「予測不能な展開」でした。

「たとえばさ、ブルーベルベットでフランクがジェフリーを殴りまくる夜のシーンがあるじゃん。ロイ・オービソンの歌がカーステレオから流れ出したら、ぶくぶくに太った女が車のボンネット伝いに屋根へ上って、身体をくねらせて踊り出すでしょ。あれには脳みそぶっ飛んだよ。」

と私。

「あと、マルホランド・ドライブに出て来る深夜の劇場シーンな。」

とジョナサン。個々の人間が次の瞬間どんな行動に出るかなんて無限の可能性があるんだけど、我々は狭い常識の枠で考えてしまいがち。その枠をいとも簡単に打ち破られると、衝撃と共に高揚感まで味わえるのですね。デイヴィッド・リンチの映画は、予測不能な展開が満載。だからこそぐんぐん引き込まれるんだよねえ…。そんな話題でひとしきり盛り上がった後、私が最近経験した話を持ち出します。

「月曜日、サーフライナーでロスまで行ったんだ。」

火曜の朝にロス支社でミーティングを予定していた私は、月曜の午後電車に乗り込みます。ロスのユニオン・ステイションに到着した頃にはすっかり陽も落ちていました。ホテルへは、リフト(ウーバーと競合する白タク)をスマホアプリで呼んで向かいます。この日はプレジデンツ・デイという国民の休日だったこともあり交通量は少なめで、快適に夜のダウンタウンを進みます。その時突然運転手が、片側三車線の広大な交差点のど真ん中で急ブレーキを踏みました。

“What the hell? Is this guy for real?”
「なんてこった、まじかよこの男?」

見ると、電動車椅子に座った中年の黒人男性が、ゆっくりと車道を横切っています。若い白人男性運転手は窓を開け、

「ヘイヘイ!危ないぞ!」

と声をかけるのですが、車椅子の男は虚ろな目で前を向いたまま、のろのろと一定のスピードで進み続けます。交差点の真ん中で立ち往生することになった私はこの男性の安全を心配する一方で、我々自身も後続車に追突されるんじゃないかと段々不安になって来て、何度も振り返っていました。するとこの運転手、大きくハンドルを右に切って車椅子と平行になるよう車体を移動させ、こう叫んだのです。

“Don’t kill yourself, man! God loves you!”
「命を粗末にするなよ、神様はあんたを愛してるぜ!」

こんな場面で「ラブ」などというワードが出て来るんだ…。彼の行動は、私の予測範囲を遥かに超えていました。ジョナサンはこのエピソードに大きく頷いた後、

「若い頃、バックパックひとつで世界をふらふら旅してた。」

と自分の思い出話を始めます。

「ロスの空港(LAX)から割と近いところに仲の良い友達が住んでたから、到着時間が遅い時はそいつのところに一泊してからサンディエゴに戻るようにしてた。その日も夕方暗くなりかけてからの到着だったから、歩いて友達の家に向かったんだ。そしたらさ、客待ちしてたタクシーの一台がす~っと近寄って来て、俺に乗れって言うんだよ。無料でどこでも連れてってやるって。」

そりゃ絶対ヤバいでしょ、と眉をひそめる私を見てニヤリとしたジョナサンが、

「で、俺、そのタクシーに乗り込んだんだ。」

と続けます。行き先を告げるとその運転手、どこへ行って来たのか聞かせてくれ、とせがんで来た。ヨーロッパをあちこち回って来たんだ、と言うと満足そうに頷いて、今日はバックパックの人が現れたら絶対に無料で乗せると決めていたんだ、と言う。自分は毎日この狭い車の中で生活しているだろう、気楽に世界中を旅することが出来たらどんなに楽しいだろう、そういうことを実行している人間は本当にエライ、是非応援したい、そう思ってた。だからバックパック姿のあんたを見た時は興奮した…。

「あんたの旅の話を聞くことでバックパッカーの疑似体験が出来たよ、有難う、そう感謝されたんだぜ。」

う~ん、それもなかなかの話だねえ…。

「予測不能な展開」のもたらす高揚感を、何度も味わえた一週間でした。