2019年3月25日月曜日

Kobayashi Maru Scenario コバヤシマル・シナリオ

水曜の昼、ランチルームで一人弁当を広げていたら、同僚ジョナサンが通りかかって立ち止まりました。

「宿題やった?」

そう声を掛けられ、固まる私。え?何か課題を与えられてたんだっけ?慌てて記憶を辿るも、引っ掛かる気配すら無い。

「ほら、Kobayashi Maru(コバヤシマル)のことだよ。」

「ああ、金曜日に話してたやつ!」

先週彼と話していた際、会話の中で彼の口から飛び出した「コバヤシマル」という単語の意味が分からず尋ねたところ、ニヤニヤ笑いながら「自分で調べてみて」と言ったのでした。

「ああ、あの後ネットで調査したんだけど、ピンと来なかった。そもそも何の脈絡でそんなフレーズが出て来たんだっけ?」

ジョナサンに言われて思い出したのですが、先日我々が話していたのは、うちのチームが新人を採用する際に使っている特殊な面接手法でした。送られて来た履歴書のスクリーニング、そして電話面接による第二審査を潜り抜けた候補者は、オフィスの会議室に来てもらって三十分ほど直接面談します。この時、壁の大画面テレビに正対してもらい、斜向かいに私とシャノンが向き合って座ります。候補者の目の前にはラップトップ・コンピュータが用意してあり、正面の大モニターと連動。

「これからちょっとロールプレイをしてもらいます。あなたは晴れてこのポジションにおさまり、今日が仕事の初日です。僕が上司、シャノンはあなたが担当することになったPMです。彼女が色々依頼をしますので、それに何とか応えて下さい。エクセルを使ったデータ処理が中心ですが、分からないことがあったらボスの僕に何でも聞いて下さい。こんな初歩的なこと知らなくて大丈夫かな、なんて恥ずかしくなるような内容でも、どんどん質問して下さいね。念のため言っておきますが、これはエクセルの技能試験ではありません。クライアントが何を求めているかを理解するため集中して話が聞けるか、そして解答に辿り着くまで粘り強く質問し続けられるかどうかを見たいのです。では始めます。」

大抵の候補者は、見ていて気の毒になるくらい動揺します。こんなテストを受けさせられるとは予想もしていなかっただろうし、自分はエクセルの上級ユーザーですなんて履歴書で宣言してしまっている場合、初歩的なミスでボロを出すわけにはいかないぞ、と身構えてしまうのですね。

「ここに過去のコスト・データがあるんだけど、どのタスクに誰が今まで何時間チャージしたか、表にしてくれる?」

「月別のトータルコストを見たいんだけど。」

シャノンが質問を繰り出し、これに候補者が応えて行きます。この間、私は繰り返し「何でもどんどん質問してね」と助け船を出すのですが、彼等の大半は自力で切り抜けようともがいた挙句に自滅して行きます。たまに本物のエクセル上級者が現れたりもするのですが、そういう人に限って基礎的な質問をしたがらないので、クライアントの要求をきちんと理解せぬまま暴走し、見当違いの解答を出して首を傾げられてしまうのです。能力をアピールしようと焦っても不合格、正直に振る舞った結果履歴書に嘘を書いたことがバレても不合格。握手の直後にヨーイドンで始まるので、対策を練る時間も無い。候補者はほぼパニック状態でこのテストに突入して行くのですね。

「まるでKobayashi Maru Scenario(コバヤシマル・シナリオ)だな。」

と、ここでジョナサンが例の一言を呟いたのです。あ、そうだった、あの時使った言葉だね。で、どういう意味なの?と私。

「スタートレックって映画知ってるだろ?宇宙艦隊アカデミーで幹部候補生が受けるシミュレーション・テストなんだ。民間の貨物船コバヤシマルが故障して漂流している。SOSを受けて救助に行くんだが、敵から総攻撃を受ける地域で、行かなければコバヤシマルの乗り組み員は全員殺されるが、救助に向かえば包囲されてこっちも全滅する、という想定。さてどうする?ってね。」

「え~?そんなの絶対無理じゃん。」

「そうなんだ。どう転んでも勝ち目は無いんだよ。このテストの本当の目的は、そういう絶望的な状況で候補生がどんな反応をするかを見極めることなんだ。」

「う~ん、僕らのやってるテストとはちょっと違うな。どれだけ質問してもいいよ、って逃げ道を与えてるからね。」

「でもその質問ですら罠にもとれるわけだろ、候補者から見れば。」
確かに、この採用試験を見事パスしたカンチーもテイラーも、後で聞いてみると密かに敗北感を味わっていたと言っていました。

「絶対落ちたなぁって思いましたよ。だって分からないことだらけだったから。」

彼女達のポジティブで誠実な態度は、図抜けていました。私に対する質問からは、PMからの依頼に出来るだけ的確に応えようという真摯な姿勢が窺えました。そう、解答のクオリティや処理スピードは、後々トレーニングで幾らでも改善出来ます。でもその人の人間性ばかりは他人がどうこう出来るものじゃない。私もシャノンも、まるでダイヤの原石を見つけたように喜んだのでした。

さて金曜のランチタイムには、カンチーと連れ立ってリトルイタリーにあるNA Pizzaまで歩きました。

「昨日の朝、クリスティがいきなり涙目でハグして来たからビックリして、どうしたの、大丈夫?って言ったら、あなたこそ大丈夫なの?って聞き返されちゃって。」

シンスケから話は聞いた、大変な目に遭ったみたいだけど無事で本当に良かった、と涙ぐむクリスティに、あ、そのことか、とようやく気付いて「大丈夫よ。心配してくれて有難う!」と答えたカンチー。

「大変な目に遭った」というのは、先週末に彼女の身に起こった大事件のこと。イタリアから訪ねて来ているという男友達(彼氏ではないとのこと)と二人、最近新車で買った黒いスバルSUVで西海岸を三日間ドライブ旅行していた彼女。日曜の夕方までにサンディエゴへ戻る予定だったのだが、すっかり夜中になってしまい、あと6時間という地点で強烈な睡魔に襲われた。このまま運転し続ければ事故になりかねない、と判断。海沿いのキャンプ場に車を停めて仮眠することにした。夜明け前にふと目覚めたのだが、なんだか車が不自然なほど揺れている気がして身を起こすと、フロントガラスに波しぶきがかかっている。そして、自分の車が海の真っ只中にあることを悟るまでに数秒かかった。キャンプ場なら安心と思っていたら、寝ている間に潮が満ちていたのです。幸いにも車内までは浸水していないが、このまま手をこまねいていれば車ごと沖まで運ばれてしまうかもしれない!

気が動転し、手の震えが止まらない。しかしとにかくこの状況を脱しなければ、とイグニッション・キーを回したところ、うんともすんとも言いません。エンジン回りは既に海水をしたたかに被っており、機能停止状態だったのですね。かくなる上は自力で車を岸まで戻さなければ!ドアを開けて男友達と靴のまま飛び降り、ジャブジャブ音を立てて前方に回ると二人で力一杯押してみます。ビクともしない。タイヤの下半分はガッチリ砂に捕まっており、既に手遅れだったのです。暗闇から迫り来る波を背中に浴びつつ、震えながらビショビショの車に抱き付いている自分達が段々可笑しくなって来て、二人で笑い始めた、とカンチー。

とりあえず一旦岸に上がり、警察に電話します。ここ、しょっちゅう同じことが起こるんだよね、というリアクションに「だったら注意書きの立て札でも置いとけばいいのに」と呆れますが、色々手配してもらった結果、15分ほどでレッカー会社のトラックが到着することになりました。そうこうしているうちにも徐々に潮が満ちて来て、愛車はみるみる波に呑まれて行きます。その瞬間、自分の心が意外にも平静であることに気付き、軽く驚くカンチー。

「何故か分からないけど、まあ仕方ないかって思えたんです。」

このドライブ旅行の前半、長く続いた春の雨を吸い込んで萌え出た緑の山々、そして広大な海とに挟まれたフリーウェイをのんびり走るうち、自分の人生を静かに見つめ直すことが出来た。プライオリティも整理した。身の回りで起こる様々な出来事にいちいち振り回されるのはやめようと決めた。そんなタイミングで起きた今回の事件。

「何かの啓示のような気さえしたんです。」

冷めていくピザを前に、感に堪えない面持ちで語るカンチー。

ローンを組んで買ったばかりの「コバヤシマル」を懸命に救おうとした彼女。健闘虚しく退散を余儀なくされたものの、その際に悲憤慷慨するのではなく、たちまちのうちに静かな諦観に至った。まだ二十代だというのにこの成熟度は何だ?私が宇宙艦隊アカデミーの学長だったら、文句なく合格証書を授与していたことでしょう。

夜が白々と明けて来て、ようやく到着したレッカー会社の男がケーブルを彼女の愛車の後部に引っ掛け、ゆっくり浜へと引き上げて行きます。その時、遠くから三匹の犬を連れた妙齢の女性がやって来ました。カンチーと男友達の傍に立ち止まると、二人が見つめる方角を振り返り、ああまたか、という風に溜息をつきます。

「ここはキャンプ場が波打ち際にあるんだけど、そうと知らず夜のうちに車を停めて寝ちゃう人が結構いるのよね。」

どうやらカンチーの落ち着いた表情を見て、沖で波をバシャバシャ被っている車が彼女のものだとは思ってもいない様子。

「私、毎朝ここを散歩するんだけど、そういう車を発見する度に、窓を叩いて起こしてあげてるのよ。満ち潮になったらここまで海が来ますよ、早いとこ動かした方がいいですよってね。」

それを聞いたカンチーと男友達は、思わず笑いながら声を揃えて突っ込んだそうです。

“You were too late this morning!”
「今朝は遅すぎたじゃん!」

2019年3月16日土曜日

If the shoe fits, wear it. 思い当たる節があるなら素直に認めよう。


金曜の午後、久しぶりに同僚ジョナサンの席へ行って英語の質問をしてみました。

「あのさ、Muddy the waters(水を濁らせる)って表現あるでしょ。あれ、どういう意味?」

先日のウェブ・トレーニングで安全講習があったのですが、参加者のひとりからテキストで寄せられた質問を読み上げた後、講師のデヴォンが慎重に言葉を選びながら答えを返し、それから

“I guess I’m muddying the waters.”
「水を濁らせちゃってるみたいだね。」

と付け加えたのです。

「それは彼が、長々と丁寧に説明し過ぎたためにかえってこんがらがらせちゃったかも、と言いたかったんじゃないかな。正確を期すため聞かれてない情報まで盛り込んだりしてるうちに、どんどん全体像が拡大しちゃうことってあるだろ。当初の質問が思い出せなくなるほどに。」

Muddyというのは濁らせる、という意味。これは分かります。でも、Watersが複数形なのはどうしてだ?これに引っかかって先に進めなかった私(後で調べたら、「複雑だったり危険だったりする難しい状況」を表現する時、象徴的に使われる単語とのことでした)。つまりデヴォンが言いたかったのは、こういうことですね。

“I guess I’m muddying the waters.”
「余計混乱させちゃったかもね。」

更にジョナサンに質問。

Square peg in a round holeって表現があるでしょ。あれさ、どうもしっくり来ないんだよね。何か用例を教えてくれる?」

これは、四角い杭(Square Peg)を丸い穴(round hole)に入れようとする、つまり無理を通そうとする行為のことですね。

「どこで聞いたの?」

とジョナサン。いや、これはしょっちゅうあちこちで聞くよ、と私。

「会社の立派なPMツールは俺のちっぽけなプロジェクトを管理するには不向きなんだ、あれは建設工事みたいにスケールのでかいプロジェクトに合わせて作られたアプリだからな、って不満を言う人達の口からよく飛び出すね。」

「うん、まさにその通り。そもそも合わせることに無理がある二つの対象を何とか組み合わせようとしてる時に使うんだよ。」

「でもさ、何だかこのイディオム、素直に使えないんだよ。だって納得行かないじゃん。」

穴の口径が杭断面の対角線より長ければ問題無く納まるでしょ。もちろん緩くはなるけどさ、と私。

「分かる。俺もそれ、ずっと思ってた。非常に良い疑問だ。そんなフレーズ憶えなくてもいいよ。大体イディオムなんか、使わないに越したこと無いんだ。」

とジョナサン。

「またまたそんなこと言う。僕はね、イディオムを上手に使って彩り良く会話を組み立てたいんだよ。君だって結構、効果的にイディオム使ってる方じゃない。すごい話上手だし。」

「だけど下手にイディオムを持ち出せば、聞く人が首を傾げるようなことになりかねないだろ、今の例みたいに。俺はとにかくイディオム反対派だね。」

「あ、それで思い出した。」

先週、北米西部のトップ・エグゼクティブP氏がサンディエゴ支社にやって来てPMの心構えについてスピーチした際、こんなことを言ったのです。

“If the shoe fits, wear it.”
「靴がしっくり来るなら履きなさい。」

はあ?何だって?

後で調べたところ、これは「自分に対する指摘や批判に少しでも思い当たるところがあるのなら、素直に受け入れなさい。」という意味であることが分かりました。

「シンデレラのお話あるだろ。お姉さんたちは足がデカすぎて、落とし物の靴を履けないってくだり。サイズが合うってことはあなたの靴なんでしょ、認めなさいよ、ってな感じかな。」

「う~ん、でもさ、優秀なPMとはどういう人物か、みたいな文脈でいきなりあんなイディオム出されたら、面喰うよ。」

「それが狙いなんだよ、きっと。俺、P氏のミーティングには出なかったけど、おおかたカッコいい顔でキメ台詞的にこのフレーズを使ったんだろ。」

「そうそう、よく分かったね。とてもじゃないけど、それどういう意味っすかぁ?なんて質問できる雰囲気じゃなかったよ。」

“That’s his Get Out of Jail Free Card.”
「それが彼の刑務所脱出万能カードなんだよ。」

とジョナサン。え?何それ?と私。

「モノポリーってすごろくゲーム知ってるだろ。何かで捕まって刑務所送りになっても、それさえ出せば免除してもらえるっていう切り札があるんだ。P氏も鋭い質問を浴びて詰まったりしないよう、時々曖昧なイディオムぶち込んで聴衆がポカンとしている間に先へ進む、そういう戦法なんだよ、きっと。」

「え~?そうなのかな。だとしたらそれはそれでスゴイね。」

「ま、何度も言うけど、イディオムの多用は禁物だよ。何かを正確に伝えたかったら、きちんと的確なワードを使って平易に喋るべし。」

「本当にいつもご教授有難う。君と話す度に、たくさん学ばせてもらってるよ。」

そうお礼を言って立ち去ろうとする私に、いやいやとんでもない、と少し照れた顔でジョナサンがこう答えました。

“I may turn the tables next time.”
「次回は逆の立場になるかもしれないし。」

そして慌てて、

「あ、今のは意味分かるよね。テーブルを回転させる(turn the tables)、ということから、今度は俺が教わる立場になるかもしれないって言いたかったんだよ。」

と言い訳しました。それからちょっと顔を赤らめ、

「イディオムで締めくくっちゃってゴメン。」


2019年3月2日土曜日

Hangover 二日酔い


先週の火曜日、ランチルームでひとり弁当をむさぼっていたところ、同僚マリアが現れました。オフィスで顔を見るのは数カ月ぶりです。

「やっと会えた!ずっと探してたのよ。」

私の隣に座り込むや否や、まだリチャードとエドにしか話してないんだけどね、と前置きをしてから急に小声になる彼女。

「三月一杯でサンディエゴを引き払うことに決めたの。」

80歳超えの母親をはじめとした親戚一同の住むシカゴに戻ることにした。そもそもサンディエゴには何の身寄りも無かったし、長く身を置いて来た組織が解体され、今の上司は遠くフェニックスにいる。どのみち南米担当だし、どこにいようが仕事のクオリティに差は出ない。良き相談相手である元ボスのエドも去年から完全自宅勤務になり、この支社に出勤し続ける意味が希薄になっている。去年の夏シカゴに出張した際、支社の人たちに状況を話してみたら、是非移っておいでよと気持ちよく引き受け態勢を敷いてくれた。だから四月一日に引っ越すことに決めたのよ、と。

「それは良かったじゃん。さっそく壮行会を企画しなくちゃね。」

と私。その午後、エド、リチャード、そしてマリアに宛て、三月末のお別れランチ会招待メールを発送しました。三人から即出席の返信が届き、マリアは

「企画してくれてありがと!」

と喜んでくれました。

その翌朝、二年半ぶりのハワイ出張へ向けて旅立った私。今回の主目的は、「エクセルを使ったコスト管理法」をホノルル支社の皆さんにプレゼンする、というもの。過去一年半ほどサポートして来た劇場設計プロジェクトが間もなく終結を迎えるのですが、その成功に私の開発した方法論が一役買ったということで、他の社員達にも是非教授して欲しいとPMチームから直々にお招き頂いたのです。

オアフ島に到着したのは夕方四時半。レンタカーでワイキキのコートヤードホテルへ。一旦チェックインしてシャワーを浴びてからウーバーを呼び、オフィス街の外れにあるパシフィックリム料理レストラン「シェフ・チャイ」で開かれる歓迎ディナーへと向かいます。これが、PMのクリステン、それからディレクターのマーティンとの初顔合わせでした。二人とも日本名の苗字なので、バリバリの日本人顔をイメージしていたのですが、見事に予想を裏切られます。マーティンは「グレート義太夫」を彷彿とさせる髭と体格のサモア系、クリステンは十二ひとえが似合いそうな色白垂れ目のロングヘア―で、韓国系(旦那が日系アメリカ人)。過去一年以上、電話やメールでほぼ毎週会話して来たので、勝手に頭の中で見た目の想像が膨らんでいたのですね。食事の間中、イメージの微調整を続けざるを得ませんでした。この二人に加え、カッコよく日焼けしたローカルサーファーのランディ、十数年前から何度も出張先で会っているイギリス出身で財務のプロ、テリー、そして前回の出張で知り合った引退間近のベテランPM、アン。この五人と絶品料理に舌鼓を打ちつつ、プロジェクトの裏話などで盛り上がります。暫くして私は、ふとあることに気付きました。

「あのさ、皆それぞれ所属部門が違うでしょ。部門の垣根を超えてプロジェクトに取り組むことってよくあるの?」

マーティンは交通部、ランディとクリステンは建築部。テリーは環境部。アンは上下水道部の社員です。私の質問を受け、五人とも一瞬、戸惑いを見せます。そして顔を見合わせると、ほぼ全員で「しょっちゅうだよ」と答えました。

ホノルル支社には百名ちょっとしか社員がいない上、プロジェクト・サイトはハワイ四島全部に拡がっています。どの部門に所属していようが、使える人材はどんどん使わないと仕事は回らない。部門や肩書なんてものに囚われてる人はいないよ、とマーティン。これを聞いて急に、我が社がまだ数千人規模だった時代の記憶が蘇って来ました。あの頃は、事務所ひとつひとつがまるで田舎の集落のようなまとまりを見せていたなあ、と。会社が吸収合併による膨張を続け、全社規模での部門採算性を追求するようになった結果、横の付き合いは軽んじられるようになりました。更には極端な人員削減やランチタイムにセットされる会議やトレーニングなどによって、社員は恒常的なオーバーワーク状態。職場の仲間との飲み会はおろか、ランチも、更には世間話に費やす時間すら激減しています。そういえば、同僚達との「日本食の夕べ」を最後に企画したのはいつだったかも思い出せません。ハワイの社員達はその小さな所帯ゆえに、緊密な連帯感を維持出来てるんだなあ、とホンワカした気分になりました。

夜9時を過ぎ、ウェルカム・ディナーはお開きになりました。店を出ると、2月の夜だというのに半袖でもいられる暖かさ。アンはテリーの運転するSUVで走り去り、私はウーバーを呼んで残りの三人にさよならを言ってからホテルへ戻りました。

翌朝ホノルル支社に到着すると、一緒にプレゼン準備をする約束だったクリステンの姿が見当たりません。テキストを打ったのですが、返事もありません。不審に思っていたところ、間もなく彼女から「ちょっと遅れる」というテキストが入ります。仕方ないので無人キュービクルでラップトップを開き、暫く別の仕事に集中していたところ、後ろからトントンと肩を突かれました。振り返ると、そこに魂の抜けがらのようなクリステンが突っ立っていました。肌が荒れて化粧は剥がれ落ち、目はどんよりとし、口が開いて下顎がだらしなく落ちています。

「一体どうしちゃったの?」

女性の顔を見た途端にこんな不躾な質問をすることなど普段は絶対ないのだけれど、思わず口を突いて出てしまいました。

“It’s really a bad hangover.”
「ひどい二日酔いなのよ。」

浅く息を吸って慎重にゆっくり吐き出しながら、やっと答える低音のクリステン。僅かな身体の揺れにも反応して作動する爆弾を胴に括りつけられた人のように、微動だにせずそこに立ち尽くしています。昨夜は私が去った後、ランディやマーティンと連れ立って別の店で飲み直した、と彼女。だいぶ遅くなったので、もう一軒行くと言い張るマーティンを残し、ランディと一緒に最初のレストランに戻ります。彼女は自家用車をこの店の立体駐車場に停めていたのですね。ところが既に閉店作業が始まっていて、車庫係の従業員たちはゲート前でわいわいマリファナを吸っていた。車の鍵はどこにあるのか、駐車場には入れないのかと尋ねたのだが、一向に埒が明かない。あきらめて別の場所に停めてあったランディの車に乗せてもらい自宅に戻るが、途中でスペアキーの存在に気付く。家の前にランディを待たせ、鍵をひっつかんでもう一度ダウンタウンに引き返してもらった彼女。すると従業員が店の照明を落としドアに施錠しているところに出くわす。「車の鍵ならカウンターの上にあるよ」と言うので、ドアを開けてもらって店に入り、遂に自分のメインキーをゲット。そして立体駐車場でマイカーに乗り込み、深夜に帰宅してようやく眠りにつく。

「猛烈な頭痛で目が覚めたんだけど」

とクリステン。旦那がバタバタと出かけて行くのを見送ると、起きて来た三人の子供(五歳、三歳、一歳)に朝食を与え、幼稚園と保育園にそれぞれ送ってから出社した。

「私は何も食べてないし、とても食べられない。」

気の毒さよりも面白さの方が勝ってしまい、ゲラゲラ笑いだす私。これほどベタな二日酔いの人を職場で見るのって、何年ぶりだろう?そもそも夕食後に「飲み直す」という行為自体、すっかりご無沙汰だぞ。日本にいた頃は当たり前に皆やってたのに…。よく考えてみると、他部門の人達と集まって深酔いするほど飲むなんて、少なくとも今の私の職場では想像もつかないことです。自分は会社でどれだけ親密な人間関係を築けているんだろう?と自問せざるを得ませんでした。

口を半開きにしたまま苦し気に息を吐きつつ話し続けるクリステンの顔を眺めながら、なんだかちょっと羨ましく思っている自分がいたのでした。

さて、プレゼンの方は大好評を頂き、出席者たちからの「私のプロジェクトもサポートして欲しい」という依頼も数件頂きました。帰宅日の土曜はフライトまでに数時間あったので、ホノルル支社の人々やウーバー運転手たちからのおすすめ情報をもとに、オアフ島の東海岸をレンタカーでのんびり北上する旅に使いました。

途中、日の出を見たり、有名なシュリンプ・トラックやかき氷店に立ち寄ったり、秘境の滝を訪れたりしました。異常に低い制限速度の道路、高く広い青空、ぬるい風、澄んだ海、深く豊かな緑、鮮やかな赤やピンクやオレンジの花、賑やかな鳥のさえずり、そして地元の人々の穏やかな笑顔。「ハワイ大好き!」という人の多い理由が、とてもよく理解出来た気のする半日でした。

帰宅翌日の日曜日、この「のんびりハワイ」の記憶は、まるで二日酔いのように私の脳に沈殿し続けました。そして何度も、口を半開きにしてぼんやりしている自分に気付くのでした。

ところがその日の夕方、突如とんでもなく激しい後悔に襲われます。慌てて同僚リチャードにテキストを送る私。

「マリアの壮行会だけど、ランチじゃなくてディナーの方がいいと思わない?」

15年近い付き合いのマリアが遠く離れてしまうというのに、たった一時間のランチ会で壮行会を済ませようとしていた私。まるで仕事の打ち合わせみたいに、予定を機械的にカレンダーに組み込む「作業」としてこの件を扱っていた。おい、一体何を考えてたんだ?あのマリアがいなくなっちゃうんだぞ!もうこれで一生会えなくなるかもしれないんだぞ!

「そうだね、きっと彼女もその方が喜ぶと思うよ。」

リチャードから返信が届きます。彼も内心は、なんでランチなんかであっさり済ませようとしてるんだろうって不審に思ってたのかもな、という疑いが初めて頭をもたげます。忙しさにかまけ、友達との人間関係をずっと疎かにしていた私。図らずも、今回の一件でそのことが露呈してしまったのです。すぐにマリアにもテキストを送ります。

「壮行会はやっぱりディナーにしたいんだけど、大丈夫?」

すると彼女からすぐに返信が届きます。

“I would love to do dinner.”
「ディナーいいわね。」

日本食レストランに行きたいな、とマリア。シカゴに行ったら良いところが見つかるかどうか分からないし、そもそもシンスケみたいなベスト・ガイドがもうそばにいないじゃない。あ、そうだ、奥さんや息子さんとも最後にもう一度会いたいな。来れるようだったら連れて来てね!

クリステンのひどい二日酔い顔のお蔭で、人生で本当に大事なことをひとつ思い出せたのでした。