2018年9月30日日曜日

人間の真価


良く晴れた金曜の昼。同僚ディックと二人、お馴染みのニュージーランド料理店クイーンズタウン・パブリック・ハウスへ歩きます。着席早々、直球の質問をぶつけてみました。

「テリーの後任ポストには立候補したの?」

十月から新年度を迎える我が社。カナダを含めた北米全域を五つの大区画に再分割する、大幅な組織改変が発表されました。これまで南カリフォルニアの環境部門を所掌していたボスのテリーは昇格し、西海岸全てを統括するポジションにおさまります。彼女の異動に伴い、その後釜を内部で選ぶことになったのですが、まずは立候補者を募ってから面接で決定するという段取りに。「シンスケだって手を挙げていいのよ」と微笑むテリーですが、部門や地域を超えてプロジェクトのサポートをしている私にとって、これはあまり魅力的に映らないポジション。第一、誰が見てもこの役割と私はシンクロしないでしょう。

「俺もちょっとは考えたけど、自分の将来を考えると二の足を踏むんだよね。今回は見送ることにした。」

とディック。それから少し笑って、

「給料倍払うって言うなら引き受けるけどな。」

環境保護とランドスケープデザインの専門家、という二足の草鞋を履くディック。環境分野の部門長を引き受けてしまえば、建築部門が所掌するランドスケープデザインの仕事は諦めざるを得なくなる。更にはエグゼクティブ達との距離が近くなることによって、たとえ自分の意思に反することでも唯々諾々と遂行せざるを得なくなる。ストレスレベルは跳ね上がり、心身共に疲弊していくだろう。「報酬をドカンと増やすことで引退時期を早める」のを目標にするなら話は別だけどね、というのです。

テリーはきっとどこかの時点で、上からの理不尽な要求に抗うことを止めたに違いない。所詮現場に決定権は無いのだから、与えられた指示の範囲でベストを尽くすしかないのだ。そんな諦観を得て初めて、巨大企業で出世の階段を踏み進むことが出来る。この冷え冷えとした結論を確認し、静かに頷くディックと私。

「それにしても、この立候補制ってのはどうなのかね。」

とディック。「自分が自分が」という我の強いキャラばかりを集めて戦わせれば、誰に決まろうがTurf War(縄張り争い)の火種は残る。環境部門と一口に言っても実際は細かな専門分野に枝分かれしており、群雄割拠の戦国絵図。各派トップの誰がテリーの後任におさまったところで、将来の摩擦は避けられないでしょう。

「実は俺、マイクが一番の適任だと思うんだ。」

というディックに、

「おいおい何だよ。僕も全く同じこと考えてたんだぜ。」

と驚く私。マイクというのは、一時期私の上司だった人物です。驚くほど頭が切れるが物静か。気分の変動幅が小さく常に朗らかモードで、彼が口を開くのは含蓄ある発言をする時のみ。私と話す際はいつも、しっかり目を見てこちらの意図を百パーセント理解しようとする真摯さが伝わって来ました。専門はビジネス・デベロップメント(営業開発)で、広く部門全体を見渡す立場にいるのですが、逆に本流実務の経験は無く、プロジェクトチームを率いた実績も無い。ほぼ一匹狼でやって来ただけに、今回のポストにマイクを推す人なんて僕くらいしかいないだろうと思っていたのです。

「こないだ出馬の意思を打診してみたんだ。考えたことも無いってさ。社員のマネジメント経験だってほとんど無いし、適任じゃないって言うんだよ。」

とディック。スゴイものを持っているのに周囲は気づかない。こんな勿体無いことはないじゃないか。実力があるのに控え目な人間は立候補しないから、チャンスも無い。これはおかしい。推薦枠も設けるべきだ、と。

その午後、自宅で仕事をしていたマイクに電話をかける私。単刀直入に立候補を勧め、彼がこの職にいかに相応しいかを説明します。人柄、仕事ぶり、偏りのないキャリア、視野の広さ、エゴの無さ…。

「社員のマネジメント経験が無いのが心配なら、私の上司だったことを使えばいいじゃないですか。全力でサポートしますよ。」

「そんな風に言ってもらえて本当に嬉しいよ、シンスケ。実はディックからも後押しを受けててね。本当に考えてもみなかったことだけど、立候補することに決めたよ。」

漫画「課長島耕作」で、突然の社長就任依頼に躊躇する中沢部長を島がこつこつと説得する、おでん屋の一幕を思い出しました。そしてなんだか、じわっと来ました。

その日の午後、ランチからオフィスへ戻る道中、ディックがこんなことを言いました。

「よく考えてみると、面接ってのは厄介な代物だよな。自己アピールに長けている人物が本当に優秀とは限らないだろ。寧ろその逆パターンの方が多い気もする。」

たとえ嘘八百でも、入念に練習して来た売り口上にこちらが感服させられてしまうこともある。服装だって化粧だって、それが巧みであれば面接官の心証に大きく影響する。しかしその人の真価というのは、実際暫く一緒に過ごしてみないと分からないものなのだ、と。

「極論だけどさ。」

と私。

「候補者を全員丸裸にしてから面接してみたいよね。隠すものなんか何も無いって状態にしてさ。」

するとすかさずディックが、

“Some may do more than others.”

とニヤリ。え?何て言ったの?暫く残響を手繰りながら考えてみて、ようやく脳に伝わりました。きっとこういう意味でしょう。

“Some may do more than others.”
「(モノが凄すぎて)隠しきれない奴はいるかもな。」

冴えてるな、ディック…。


2018年9月23日日曜日

Stir up a hornets’ nest 大騒動を巻き起こす


オフィスのエレベーターでバッタリ18年ぶりの再会を果たして以来、級友フィルとの月一ランチが恒例になっています。今週木曜日も、ビル一階のロビーで待ち合わせ、駅前のタイ料理屋Aaharnまで歩きます。近況報告を交わすうち、社員解雇についての話題になりました。

フィルの直属の部下に一人問題児がいて、やることなすこといちいち他の社員を苛立たせている。職場の士気低下は深刻で、たまりかねたフィルの上司がある日、

「即刻あの女をクビにしなさい!」

と迫って来たのだそうです。カリフォルニア州法は被雇用者擁護の色合いが強く、どんなに勤務態度が悪くてもなかなかクビには出来ないし、するとなれば法廷で楽々勝てるくらい強力な証拠を積み上げる必要がある。フィルは上司に再考を促したのですが、頑として聞きません。仕方なくクビを言い渡したところ、この部下がぶち切れたというのです。フィルがこの時、

「ストゥードゥアップ・ア・ホーネッツネスト」

と言ったように聞こえました。え?何て言ったの?と聞き返すと、彼がゆっくり言い直してくれました。

“She stired up a hornets’ nest.”
「彼女がホーネットの巣をStirしたんだ。」

ミルクティーなどをスプーンで混ぜる行為をStirと言うので、Stir Upで「かき回す」となりますね。ホーネットとは、攻撃性でも毒性でも昆虫界のトップクラスに君臨する「スズメバチ」のこと。彼等の巣なんて近づくだけでも危険なのに、これをかき回す、というのです。

“She stired up a hornets’ nest.”
「彼女がスズメバチの巣を引っ掻き回したんだ。」

つまり、大騒動を巻き起こしたってことだよ、と笑うフィル。

「あれから二週間経ってるのに、まだ毎日出勤してるんだ。そしたら遂に僕の上司の方が、辞めるって言い出しちゃってさ。もう何が何やらって感じだよ。」

日本語にも「蜂の巣をつついたような大騒ぎ」という言い回しがあるけど、これまでずっと、外からの刺激に反応したハチの大群がパニック状態で飛び回っている状況を頭に描いていました。イメージはミツバチ。ブンブン羽音を立ててはいるけど、特に脅威は感じない。だって大騒ぎになってるのはハチたちの方なので。しかしこれをスズメバチと置き換えると、状況が一変します。巣をつついた途端、パニックに陥るのは人間。大勢の人達が命の危険を感じ、大慌てで逃げ惑う図になるのですね。

ランチ後、フィルと握手して職場に戻り、向かいの席のシャノンにさっそくこのフレーズの使い方を尋ねてみました。

「イメージは湧くんだけど、一体どんな場面で使える慣用句なのか分からないんだよね。だって普通、誰もスズメバチの巣を引っ掻き回そうとは思わないでしょ。」

「確かにそうね、騒動を起こした本人も刺されるんだしね。」

首を傾げるシャノン。

「でしょでしょ。自分も痛い思いをするのが分かっててそんな愚かな行動に出る人なんているかな?そう考えるとこのイディオム、イマイチピンと来ないんだよね。成立する状況が思いつかないよ。」

「そうねえ。う~ん…。」

シャノンが考え込んでしまったので、ここで追及を諦めた私。

金曜の昼、同僚ディックとバーガーラウンジへ。またも社員解雇の話題になりました。そしてフィルとの会話を再現し、「スズメバチの巣を引っ掻き回す」イディオムも持ち出しました。

「デイヴィッドって憶えてるかな。」

苦笑いしながら回顧を始めるディック。デイヴィッドというのは、かつて彼の下で働いていたデザイナー。

「当時の若いチームメンバーが、大学の同期でスゴイ奴がいるから、と紹介して来たんだ。うちのグループはちょうど人手が足りなくてアップアップだったから、大急ぎで面接をセットしたんだな。」

競合他社で活躍していた、若きホープ。年齢の割に実績を重ねていて、能力的には申し分なかったそうです。

「ところが、いざインタビューを始めてみて度肝を抜かれたんだ。」

デイヴィッドは片脚を直角に曲げてもう一方の腿に乗せ、のけぞるように深く腰かけます。更に腕組みをして顎を突き出し、まるで上から見下ろすような姿勢を終始崩さなかったのだそうです。

「最後に何か質問があるかと聞いたら、自分をトレーニング出来る人材はいるか、と来た。まるで、お前じゃあ上司として役不足だと言わんばかりにね。」

今となれば、どうしてそんな男を採用したのか自分でも分からない、とディック。

「言うまでも無く、奴は来る日も来る日もスズメバチの巣を引っ掻き回したよ。誰も奴と一緒に働きたがらないし、俺んとこには毎日苦情が殺到だ。誰かを採用する時は能力よりまず人柄だという、至極当然な教訓をあらためて学ばせてもらったよ。」

ここで私は、引っかかっていたイディオム絡みの質問をします。

「スズメバチの巣をつついたりすれば自分も痛い思いをするのが分かっててそんな行動に出る人なんているかなあって不思議だったんだよね。このイディオム、今のケースで成立するの?」

するとディックが、ケラケラと笑います。

「いやいや、苦情を言いに来た中にはデイヴィッドも入ってたんだよ。自分がスズメバチの巣を突っついているという自覚が、奴には全く無いんだ。刺された刺された、痛い痛いって文句言いに来るんだな。まるで一番の被害者みたいにね。」

なるほど。これで合点が行きました。騒ぎを起こしている張本人は、いわば手足をブンブン振り回しながら自己流のダンスに没頭するナルシスト。隣のダンサーの顔に拳が当たろうが、スズメバチの巣を思い切り蹴り飛ばそうが、気付きもしない。自分が毒針に刺されてようやく異変を感じるものの、俺がなんでこんな目にあうんだよ!とキレるだけなのですね。こういう人材には、いくらチームプレーの大切さを説いたところで治らない。とにかく一刻も早く排除するしか無いのだ、ということで話がまとまりました。

そんなわけでこのイディオム、立派に成立します。

2018年9月15日土曜日

Go to hell in a handbasket 事態が急速に悪化する


20歳の大坂なおみがテニス全米オープンで日本人初優勝!というニュースをネットで読んでいたら、どうやらこれは手放しで喜べないタイプの勝利だったことが分かりました。準優勝のセリーナ・ウィリアムスは、第二セット第二ゲームで客席のコーチからハンド・ジェスチャーのサインを受け取ったという理由で主審ラモス氏から警告を受けます。「そんなずるを私がするわけないでしょ」と抗議した後のゲームで、ラケットをコートに叩きつけ破壊し、罰として一ポイントを失います。これに対し「どろぼう」「男子の試合だったらこのくらい良くあることじゃない」「女だから差別してるんでしょ」「謝りなさいよ」と激しく抗議を続けた結果、さらにペナルティで一ゲームをまるまる奪われたのです。このドタバタで大坂なおみのグランドスラム初制覇にケチがつき、後味の悪い表彰式になりました。

テニスの試合に限らず、レフリーの判断を不服として抗議し、それに対する応答で更に感情が高ぶって、どんどん修羅場へ転じて行く場面に時々出くわします。それまでスムーズに事が進んでいたにもかかわらず、ちょっとしたきっかけで全てが急坂を転げ落ちるように悪化して行く…。セリーナ・ウィリアムスもこういうことは過去に何度も経験しており、積もり積もった不満が遂に爆発した、という話だったようです。

世界のトップ・プレーヤーとはいえ感情を持つ人間だし、大舞台に臨むため限界ギリギリまで身を削って来ているのだから、不当な扱いに対してカッとなるのは仕方ない。しかし、怒りをぶちまけることが結果的に自分の首を絞めることになる可能性を頭に置いておけば、こんな残念な結末は避けられたかもしれない、と思う私でした。「試合を観に来てくれた皆さんに感謝します」とインタビューに応えた大坂なおみの控え目な態度は、極めて日本的で好感が持てました。それまで調子良くブーイングを続けていた観客が、まるでセリーナと一緒に理性を失ってしまったことに気付き恥じ入るかのように、大きな拍手で祝福したのも頷けます。

それにしても主審のラモス氏、あの緊迫した場面でよく淡々と仕事を続けたなあ、としばらく感心していたのですが、よくよく考えればそもそも審判というのは最終決定権を持たされているわけで、そんな相手にいくら盾突いたところで都合の良い展開になんかなるわけがない。余計重いペナルティーを与えられるのが関の山なのですね。文句があるなら試合にきっちり勝った後、あらためて正式に抗議するべきだったな、と思いました。

さて先週水曜日、元ボスのエドの誕生日を祝うバースデー・ランチ会がありました。リトル・イタリーに最近開店したフード・コートのオープン・テラス。マリア、リチャード、エドと四人、パラソルの下のテーブルを陣取ります。お互いの近況報告を交わすうち、マリアが南米のあるプロジェクトで起きた一件を持ち出しました。その中で、彼女が使った「変バスケ」と聞こえるフレーズが耳に残ります。これ、過去に何度も聞いた表現。今何て言ったの?もう一回お願い、と頼むと、彼女がゆっくりとこう繰り返しました。

“It went to hell in a handbasket”
「ハンド・バスケットの中の地獄へ行ったの。」

変バスケと聞こえたのは、ハンド・バスケット(手提げ籠)だったのですね。でも、これってどういう意味だ?

「急速に事態が悪化して行った、ということよ。」

とマリア。

「ヘル(地獄)は分かるけど、何でここで手提げバスケットが出て来るの?」

と私。三人とも顔を見合わせ、首を横に振って「知らない」と言います。

「ヘルとハンドの最初のHで韻を踏みたかったんじゃないかな。」

というエドのあてずっぽうな説明で、この会話は急速に締めくくられたのでした。後日、物知りの同僚ビルに会った際にも尋ねてみたのですが、語源は知らないなあ、とのこと。

「とにかく何もかもがぐっちゃぐちゃになることだよ。」

そこで私は、

「実はちょっとネットを調べてみたんだけど、割と信憑性の高そうな解説を発見したんだ。」

と調査結果をひもときます。

かつてフランスでは犯罪者への極刑としてギロチンを使用していた。断頭台の足元には手提げバスケットが備えられており、切断された頭部がこの中へ転がり落ちる仕組みになっていた。「手提げバスケットの中の地獄へ行く」というのは文字通り、事態が急速に悪化して手の施しようも無くなることを意味する、と。

「なるほど。それは納得出来る説だなあ。」

と感心するビル。そこで私は、これをチャンスと見て追加質問に移ります。

「あのさ、こないだ実際あった事件にこのフレーズが使えるかどうか、教えてくれる?」

先週土曜日、息子の高校の水球チームが、二週間前に一度僅差で敗れている高校と再び対戦しました。スタートから相手チームが一点をリードし、追いつくとすぐ離される、という緊迫したゲーム展開。選手だけでなく客席の親たちもじわじわヒートアップし、相手チームのラフプレーを見ると一斉に野次り倒す、という理性を失った集団に変貌して行きます。やや敵チームに甘く感じられる主審の度々の誤診(?)に、立ち上がってブーイングする親たち。最終クオーター後半でようやく一点リードし、あと43秒間逃げ切れば勝利、という場面。ここで息子のチームのコーチ、ジョーダンが主審と口論になり、イエローカードを食らいます。それまでにも何度か小競り合いがあり、既に我慢の限界に達していた様子のジョーダン。とうとうこの警告にブチ切れ、何かいけないことを口走ります。これに対し、主審が躊躇なくレッドカードを差し出し、退場を命じます。コーチ不在では試合が続行できません。絶体絶命です。するとあろうことか、

“We forfeit!”
「没収試合だ!」

とジョーダンが叫んだのです。勝利を目前にしていた選手たちは一斉に激昂し、プールの中から猛然と抗議しますが、主審はこの申請を受け入れ、全選手にプールから引き上げるよう命じます。相手チームは降って湧いた勝利に歓び、何人かは笑顔でガッツポーズを取りました。

「ああ、それはまさしくIt went to hell in a handbasketな場面だよ。」

とビル。

「有難う。これでこのイディオムの使用法が会得出来たよ。」

と私。

ちなみにこのドタバタの後、キャプテンの二コラが機転を利かせ、選手の一人のお父さん(ライフガードの仕事をしている)に新任コーチとして客席から選手席へ移動してもらいます。そして相手チームのコーチから試合続行の同意を取り付け、無事ゲームが再開。そして終了のホイッスルまで何とか一点差をキープし、首の皮一枚で勝利をもぎとったのでした。両手で水面を叩き大きな水しぶきを上げ、歓喜に湧くチーム一同。プールサイドで円陣を組み、おきまりの掛け声で勝利を祝います。この間、何十メートルも離れたところで、コーチ・ジョーダンはぽつんと一人で立っていたのでした。

このケースでも振り返ってみれば、審判は終始冷静でした。頭に血が上ったコーチが、勝手に事態をどんどん悪化させていっただけ。たとえ下された裁定に不満があっても激することなく慎重に対処していれば、こんな面目丸つぶれな展開にはならなかったことでしょう。

さて話は変わり、今週月曜の夕方四時半。部下のアンドリューを会議室に呼び出し、大机の向かい側に座らせます。私はボスのテリーと横並び。机上のスピーカーフォンの赤いライトが灯っていることに気付いたアンドリューが、何かを察知して不審な表情を浮かべます。あら散髪行ったのね、いいじゃない、と笑顔で前置きした後、

「残念ながら、今日をもって貴方のポジションは消失します。」

と切り出すテリー。瞬時に顔を紅潮させ、その場に固まるアンドリュー。人事のシャリーンが電話の向こうから、早口に事務手続きの説明をします。唇をきつく引き結んだまま、微動だにせず机の一点を見つめるアンドリュー。

ここに至るまで、本当に色々ありました。発端は、恐らく彼が良かれと思って取った独断行動。しかしこれを私に指摘され、逆上した彼の選んだ道は、チームにとって受け入れ難いものでした。事態は思わぬ勢いで悪化して行き、何とか修復の道を探ろうとした私ですが、手遅れでした。自分で採用した部下の首を切るのは初めての経験で、毎日胃の痛くなるほどのストレスを抱えて来ました。人事と話した結果、引導を渡す役目はボスのテリーが担い、私は解雇宣告の後アンドリューからノートパソコンとオフィス入出用電子鍵(フォブ)を没収し、エレベーターまで付き添う役割を任されました。

当日は始業からずっと、隣で黙々と働く若者の身にあと数時間で訪れる悲劇を知りながら、それをおくびにも出さない自分を保ちました。まるで息を止めて海中深くからゆっくり浮上して行くような気分。海面に顔を出した時、どんな陰惨な光景が広がっているのかも分からずに…。

すべてが終わった後、嫌な役を買って出てくれたテリーにお礼を言いました。こんなことはもう何度も経験して来たであろう彼女、逆に私に労いの言葉をかけ微笑みます。この人ほんとすげえなあ、と感心しつつ、たった今起きたことを振り返ってみました。

アンドリューを部屋に迎え入れる15分前、会議室に入って来た彼女。急にきょろきょろし始め、コーナーの棚にあったティッシュの箱をつかんでテーブルの真ん中に置きます(彼が泣いた時のためですね)。それから人事のシャリーンと電話で話した後、あ、そうだ!と言って部屋を出て行き、間もなく戻って来たその手には、買い物に使う布製の赤い手提げバッグが握られていました。

「彼が私物を持って帰るのに使えるでしょ。」

う~ん、どこまで冷静なんだ、この人…。

2018年9月2日日曜日

賢者の一言


先日、息子の高校最終学年がスタートしました。夏休み中はクラブチームで水球に勤しみつつ、バルボア公園にある博物館のインターンシップ(職業体験)にも通った彼。朝から晩まで顕微鏡を覗き込み、生物学チームがフィールドから持ち帰りアルコール漬けにした、体長一ミリ程の虫の大群を種別に選り分ける、という地味な仕事でした。

「作業自体は滅茶苦茶退屈だし疲れるんだけど、その間に色んなことを教えてもらえるんだよ。」

と息子。この博物館の長老でジムという「生ける伝説」的なリーダーが、生物や環境に関する薀蓄を沢山聞かせてくれるのだ、と。

「ハエはね、ハチみたいに左右二枚ずつ羽がある普通の昆虫と違うんだよ。小さい二枚目の羽が退化して短い棍棒みたいになってて、これが飛行中バランスを取るのに使われてるんだって。」

将来は環境科学方面に進みたいという彼にとって、このサマー・インターンはまたとない経験になったようです。

さて、金曜日。同僚ディックと久々にランチへ向かいます。調子どう?という投げかけに、やや食い気味で

「良くないね。」

と仏頂面。おやおや、これはちゃんと話を聞いてあげなくちゃ、と即座にセラピスト・モードへ切り替えます。そして、彼が「ただ安いから」と選んだピザの店、Landini’s Pizzeriaに腰を落ち着けました。ここのピザは生地が極端に薄い上に、作り置きを温めてからぺらぺらの紙皿に載せて出すタイプ。私の好みからは程遠いし、ピザならもっとお勧めの店が近くにあるのですが、今回は折れることにしました。

「クライアントがさ、逆切れしやがったんだよ。」

歩き始めるやいなや、現在最も頭を悩ませているというホテル・プロジェクトについて語り始めます。ピザや飲み物の注文をする間も、集中力を切らさず話し続けるディック。パティオの日陰でチープなパイプ椅子に腰かけ、前の客の食べかすが散らかったテーブルにピザを載せた紙皿を置くと、みるみる冷めていくのも気にせず語り続けます。

まだ契約書にサインもしていないのに、どんどん前倒しで仕事の指示をして来るクライアント。非現実的なまでに短い工期。オープン日に間に合わせるため、最初は何とか我慢してサービス残業で対応していたけど、我慢にも限度がある。プロジェクト・ディレクターという立場でクライアント対応に当たっていたディックは、若手PMのマイクに契約書の締結を早める方法を探れ、と指示。この後間もなくして、怒り狂ったクライアントが電話して来た、というわけ。

「これまで何ミリオンという仕事をお前らに出してやってるのに、ちょっとばかり契約手続きが遅れてるだけで文句言うのか!」

法的に言えば、契約書にサインもせず業務指示を出す方が間違っています。しかし現実の世界では、こんな横暴な発注者も珍しくないのです。ディックは落ち着いて、我々はただこのプロジェクトを成功させる一番良い方法を探っているだけで、とにかくあなた方クライアントを助けたい一心なのだ、と説明します。契約書が無ければ下請け契約も結べない。仕事を前に進める一番良い方策は、一刻も早く契約書にサインをしてもらうことなのだ、と。

「なのにFワード満載で罵って来るんだよ。お前らには感謝の気持ちが無い、こんな仕事、他にいくらでも出来る奴等はいるんだってな。」

「よくそんなことが言えるねえ。社会人としての常識が無いのかね。」

「いや、あれははったりだと思ってたんだ。今回の仕事でうちほどノウハウを持ってる会社は無いからね。同じチームでこれまで何年も計画業務を請け負って来たから、プロジェクトの基礎情報はたっぷり蓄積してあるんだよ。」

「そっか、じゃあ圧倒的に弱い立場ってわけじゃないんだね。」

「ところが、だ。」

今朝になってある同業者から、実際にこのクライアントから仕事の打診があったという情報が洩れて来たのだそうです。

「しかも、俺たちにプレッシャーをかけまくって契約前に無理やり提出させた業務計画書を、競合他社にバラ撒いてるっていうんだよ!」

「うわっ、いくら何でもそれはひどいな。」

立場を利用し悪行三昧を極めるクライアント。時代劇なら、桃太郎侍がお馴染みの見得を切りつつ登場する場面でしょう。こんなクライアントとの関係はさっさと清算してしまった方が楽だけど、うちの上層部が黙ってないだろう。だったら上のレベルでとっとと話をつけてくれ、と言いたい。毎日こんなことを続けてたら他の仕事にも差し支えるんだよ、とディック。

私はすっかり同情してしまいました。そりゃいくら忍耐強いディックでも腐るよな…。かける言葉も見つからず、こんな風に慰めることにしました。

「今朝テイラーとも話してたんだけど、プロジェクトの前線にいるPM達は、想像もつかないようなストレスを抱えているんだよね。僕らはそんなPM達が少しでも楽になるよう、きっちり後方支援を固めなければいけない、って思うんだ。」

「シンスケ達にだってストレスはあるだろ。」

「僕らのクライアントはPM達で、一応仲間だからね。全然レベルが違うよ。」

クライアントから日々いたぶられ、会社の上層部からは財務成績を上げろとプレッシャーをかけられるPM達。チームのマネジメントにも驚くほど時間を取られるため、専門分野で技術を磨く余裕はほとんど残らない。

「採用面接でさ、将来はPMになりたいですって目を輝かせる若者が結構いるんだ。その度に、PMの日常がどんなものなのか、きっと何も知らないんだなあって笑っちゃうんだよね。」

それからちょっと遠くを見るような目になったディックが、こう言ったのでした。

「高校でさ、世の中の職業が一体どんなものなのかを教える授業を必須科目にすべきだと思うんだ。」

たとえば、役所と民間のゴールの違い。時間を切り売りするサービス業と商品を作って売る仕事の違い、などなど。よく高校生に、大学を選ぶ際にはまず「将来どんな仕事がしたいか」を考えるべし、なんて説く人がいるけど、社会に出た経験も無く具体的なイメージも無いのに、そんなの分かるわけないだろ、と。

「俺の行った高校では一年生の時、学生ひとりに社会人一名を紹介するメンター・プログラムがあったんだ。」

とディック。彼が引き合わされたのは、地元で活躍するベテラン建築家でした。デザインの世界に興味を持ち始めていたディック少年は、期待に胸を膨らませ会合に臨みます。ところがその男性、いきなり耳を疑うような話を始めたのです。

「建築家と聞いてイメージするのは、きっとクールでセクシーな建物デザインが描かれた大きな紙や完成予想模型の前ですまし顔をしてる人物だろ。でも、僕らの毎日はそんなカッコイイものじゃない。建築基準と長時間にらめっこしたり、クライアントにペコペコしてご機嫌をうかがったり。そんなパッとしない作業の連続で、一日の大半を費やすんだ。」

著名な建築家から直接聞かされた、冷え冷えとした現実。若いディックの胸に、深く突き刺さったそうです。

「結局は、ランドスケープ・デザイナーという建築家に似た職業を選ぶことになったんだけど、若い頃進路を考える時には必ず彼の言葉が蘇って来て、過大な期待で視界を曇らせることを避けられたよ。」

「なるほど。どんな職業にも当てはまりそうな、深い言葉だね。」

どんぴしゃのタイミングで聞く、知恵と経験を蓄えた年長者の一言。私も日本で大学に入ってすぐオリエンテーションに参加したのですが、ここに登場した土木工学科N教授の一言が、まさにこれでした。最初の一年間は一般教養に費やし、二年目に学科を選択するシステムだったのですが、私は入学当初から建築学科一本に的を絞っていました。他のオプションには全く見向きもしていなかったのですが、この時N教授がインフラ整備の魅力とそれがもたらす効果の大きさを説き、こう締めくくったのです。

「土木技術者というのは、いわば地球のお医者さんです。これほどスケールの大きい仕事はどこを探しても無いでしょう。是非皆さん、うちの学科に来てください。」

しびれました。これが決め手となって私は土木工学科へ進むことになったのです。人の一生というのは、まるで鉄道の分岐器のように「賢者の一言」が節目節目で待っていて、その方向を変えてくれているのかもしれないな、とディックの話を聞いてあらためて思うのでした。

さて、先日5時過ぎに放課後の息子を迎えに行った際、同じ水球部の二コラと下級生のパーカーもうちまで乗せて帰るよう妻から頼まれました。まだ15歳のパーカーは、女の子だったら超売れっ子モデルになりそうな奇跡的美形です。水球の試合終わりにプールサイドを歩いていると、お母さんたちが大きく息を呑み、まあなんて可愛い子なの!と囁き合うほど。私も三人を車に乗せる時、この美少年が毒舌家の二コラ先輩から悪い影響を受けてなければいいが、と案じていました。するとあろうことか、後部座席で悪童二コラが隣のパーカーに、

「あの女さあ、一日に五人の男子をとっかえひっかえしてるんだぜ。とんでもない尻軽女だろ。」

などと話しています。同級生を一刀両断、単なるあばずれ扱いです。こんなアホな話題に食いつかないでくれよ、と祈りながら沈黙を続ける運転手の私。するとパーカーが、

「逆に五人の女子をとっかえひっかえしてる男子がいたら、これはもうレジェンドだよね。」

となかなかまともな返しをします。ここで二コラが、待ってましたとばかりにジョークをぶち込んで来ました。

「ある尻軽女が、村一番の賢者を訪ねて質問するんだ。沢山の女性と交わる男性は皆から英雄扱いされるのに、女性の私が男性相手に同じことをすると蔑まれます。これは納得いかないんです。どうしてこんな扱いを受けなきゃならないんですか?ってね。すると賢者がこう答える。」

"'A key that can open many locks is called a master key, but a lock that can be opened by many keys is a shitty lock.'”
「どんなロックをも解除出来る鍵はマスター・キーと呼ばれるが、どんな鍵でも開けられてしまうような錠は役立たずだ。」

思わず吹き出す私。するとパーカーが、さも感心したように大きな溜息をつきながら、高い声で小さく叫びました。

“That’s so true! I’ve never thought that way!”
「言い得て妙だね!そんな風に考えたことなかったよ!」

賢者の一言は、果たしてこの可憐な若者の人生を良い方向に導いてくれるのでしょうか…。