感謝祭明けの一週間は、下請け業者との契約締結ラッシュとなりました。測量業者、造園業者、環境調査業者、と相次いでサイン。そして土質調査業者も激しい舌戦の末、ようやく契約書にサインしたのです。
そして12月。気がつくと、街のいたるところに赤や緑の飾りつけが施され、車のラジオからはクリスマスソングがひっきりなしに流れるようになりました。それでも日中は30度近くまで気温が上がり、オフィスには毎日冷房が入っています。朝夕は冷えこみますが、「今日は寒いね」と挨拶する人が半袖ポロシャツ一枚だったりするので、冬の実感が湧きません。
この月最初の土曜日、オレンジ郡にあるヒルトンホテルで、会社主催のホリデーパーティーがありました。午後6時スタートということ、南カリフォルニアにある全支社の社員及びその配偶者(または恋人)が招待されていること、そしてドレスコードが「ハワイアン」であること以外はほとんど情報がなかったので、ケヴィンから借りたアロハシャツに紺のブレザーを羽織り、コットンパンツを履いて出かけました。会場入りする前に想定していた状況は、アロハを着た人が数十人、手に飲み物と食べ物を持って適当に相手を替えながら談笑する、というもの。現場事務所勤めの私は、知り合いを広げるまたとないチャンス、と意気込んで乗り込みました。
ところが会場に着いてみてびっくり。10人掛けの円形テーブルが20個以上ひしめく大宴会場に、生バンド用のステージ付き。着席式のオーソドックスなパーティーだったのです。会場の入り口付近に設けられた簡易バーでまず飲み物をもらい、そばにいる参加者をつかまえて談笑し、7時半になったら宴会場に入る。好きな席に座ってバンドの演奏をバックにフルコースのディナーを楽しむ。そういう段取りなのでした。出席者の大半はパートナーを連れての参加で、私のような単身出席者はごく少数派。何故かアロハシャツよりもダークスーツやイブニングドレスといったフォーマルないでたちが多く、到着時は何とも居心地が悪かったのですが、遅れてやってきた同じ事務所の連中が全員アロハ姿だったので救われました。
私は、ケヴィンとその婚約者のエリザベス、それからティルゾとイーヴァと一緒に丸テーブルに着席しました。バンドのクオリティは高く、本物顔負けの歌唱力でヴォーカリスト3人が時には一人で、時にはハモりつつ「素顔のままで」や「愛と青春の旅立ち」といったスタンダードなソフトロックを次々に歌い上げました。分厚いステーキにナイフを入れながら、「金かかってるなあ」と唸りました。見渡すと9割くらいが白人。年齢層は高く、白髪の人がたくさんいます。アジア人はほとんど見当たらず、日本人は明らかに私一人でした。自分はアメリカの会社で働いているんだなあ、とあらためて実感しました。
南カリフォルニアでこれだけの社員がいるんだったら、全体では一体何人いるんだろう、とふと思いました。ティルゾが、
「さあ、大体五千人くらいじゃないかな。」
と言うとケヴィンが、
「このところ買収が続いてるから、今は六千人近いかもな。」
この時まで、自分はごくごく小さな会社に入ったのだとばかり思っていたので、心底驚きました。
パーティが始まって間もなく、当初思っていたほど知り合いを増やすチャンスはないのだということをさとりました。着席形式のパーティーでは、会話する範囲に限度があるのです。特に大音響のバンド演奏中に、何か食べながら1メートル以上離れた人と話をするのは困難を極めます。そんな時誰かが、
「隣のテーブルでこちらに背を向けて座ってるスパンコールのブラックドレスは、われらがCEOのダイアンだぜ。」
と囁きました。ケヴィンにこれを伝えると、
「いい機会だ。挨拶しに行こうぜ。」
と席を立ちました。一瞬冗談かと思いましたが、真顔で私に同行を促す彼の目を見て、そうではないことが分かりました。
ダイアンは見たところ60歳前後の白人。ショートカットの銀髪を一糸の乱れもなくセットし、墨のように黒いドレスにスパンコールを光らせ、首に白いレイをかけています。
「シンスケと言います。先月入社し、サンディエゴの高速道路プロジェクトチームに参加しました。」
と自己紹介すると、ベット・ミドラーに似た険しい顔立ちを一瞬で満面の笑みに変え、右手で固い握手、左手で私の右腕をポンポン叩きながら、
「ようこそ。期待してるわ。」
と歓迎の意を表してくれました。ケヴィンが、彼女のためのプレゼン資料を三年前に作ったことがあると言うと、
「ええ、あなたのことは覚えているわ。」
と微笑みました。
「ほんとに覚えてたかどうかはちょっと疑わしいな。」
と席に戻りながら彼は笑っていましたが。
食事がほぼ終わりデザートに移る頃、バンドは休憩に入り、どこから駆り出されたのか、小学生みたいなのから大学生くらいまでの女の子がぞろぞろ現れ、フラダンスを披露しました。ここへ来てようやく、ハワイアンという今回のパーティのテーマが確認された格好になりました。ケヴィンによれば、こうした会社のパーティはいつも同じパターンなのだそうです。食事が終わると何かアトラクションがあり、続いて出席者がダンスを楽しみ、その後主催者のスピーチでお開き。残りたい人だけ残って夜中まで飲む、というもの。
フラダンスの一団がパフォーマンスを終えると、バンドマスターがステージに戻ってきて、
「それでは皆さんお待ちかね、ダンスの時間です。思い切り楽しんで下さいね。」
と歌うような弾む調子で告げた後、ドラマチックにトーンを落としてこう続けたのです。
「その前にひとつだけよろしいでしょうか。今日は12月7日、真珠湾攻撃の日です。亡くなられた方々の霊に祈りを捧げたいと思います。皆様、黙祷願います。」
ざわついていた会場が魔法をかけられたように静まり返り、立っていた人も座っていた人も、みなその場で俯いて十秒ほど祈りました。そしてまた、何事もなかったかのように華やかなバンドの演奏が始まり、人々がステージの前に流れ込んで楽しげに踊り始めたのです。
私はそのわずか十秒の間、人知れず激しく動揺していました。冷静に考えてみれば、それがどんな戦争だったにせよ、戦没者を悼むことには何の抵抗もありません。しかしその時は周りのアメリカ人と一緒になって祈るということを、まるで母国に対する裏切りであるかのように感じていました。そして同時に、出席者全員がいきなり一致団結し、目を瞑ったまま無言の非難を日本人である私にぶつけ始めたかのような幻覚すら覚えたのです。ほんの刹那、実際には口にされていない非難への抗弁と、自分にチャンスを与えてくれたアメリカという国への感謝の気持ちとが、頭の中で激しく交錯しました。
渡米しておよそ2年半、自分が日本人であることをこれほど強く意識させられた瞬間はありませんでした。
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しびれるねぇ。
返信削除パーティの場面では、back to the future のオトーサンとオカーさんが知りあう場面でのバンドの入る場面(古いが)でのバンマスのセリフ、「nobody go nowhere」(だっけ?)を思い出し、パールハーバーでは、妻の実家を思い出したよ。
結婚する時、妻の父は古い日本語の教科書を出してきた。だからといって、俺が謝る筋合いではない。が、「結婚する前に731部隊跡地だけは見てきなさい」と言われ、路線バスに揺られること一時間。行ってきました。歴史、という名の現代史。現在史といってもいいね、とくにアジアの場合。
実に今でも複雑な思いをするわけです。
そうなんだよね。「謝る筋合いではない」人を責めたところで何も生まれない。正しい戦争などない。死者を悼むことは正しい。それしかないな、公の場で口に出来ることは。
返信削除バンマスのセリフ、確か
Don't nobody go nowhere.
だったんじゃないかな。響きが面白くて耳に残るよね。