2010年6月5日土曜日

アメリカで武者修行 第8話 いったい何を保全しろっていうんだ?


南カリフォルニアには、アリゾナとの州境にモハビ砂漠という広大な荒地が広がっていて、時速百キロで走っても抜けるのに一時間ほどかかります。私が携わることになった高速道路建設プロジェクトは、そんな砂漠の西端で、大規模なニュータウン計画とセットでスタートしました。あちらこちらで住宅建設が盛んに行われ、五年も経たないうちに数万人規模のニュータウンが出来上がるというシナリオで。私のオフィスがあるエリアは既に数年前から入居が進んでいて、朝夕は一般道が激しく渋滞します。この高速道路は間もなく完成予定の巨大ニュータウンを支える交通網の背骨であり、計画が遅れれば遅れるほど一般道に負担がかかり、プロジェクトチームに激しいプレッシャーがかかってくるという寸法。

交通網の背骨とは言うものの、この道路は最も太い区間で六車線(片側三車線)しか計画されていません。南カリフォルニアの高速道路としては極めて控え目な印象です。私が通勤に使っているハイウェイも十車線ありますし、前に住んでいたアーバイン付近を抜ける路線は上り下り合わせ、太いところで十四車線。しかもこれがラッシュ時になるとすし詰めの大渋滞になるのです。それだけに、往復六車線の高速道路計画というのはあまりにも見通しが甘いような気がしていました。

ここで働き始めてから二週間後のこと。ケヴィンが私のキュービクルにやってきました。
「シンスケ、これから何人かで現場視察に出かけるらしいぞ。俺はもう何度も行ってるけど、君はまだだろう。このチャンスに同乗させてもらったら?」
「それはいいな。デスクワークばかりじゃプロジェクトの内容がうまくイメージ出来なくて、弱ってたんだ。」
「うん、まずティルゾに紹介するよ。彼が現場視察のリーダーなんだ。」

にこやかに振り返って握手の手を差し出したこのティルゾという人は、ゆたかな胡麻塩の口髭を蓄えた眼鏡顔の中年男性。考古学者を思わせる風貌で、映画監督のフランシス・フォード・コッポラにもちょっと似ています。ソフトなバリトンボイスとレンズの奥の優しそうな眼から、その穏やかな人柄が伝わって来ます。
「水をたっぷり飲んでおいてくれよ。現場は驚くほど乾燥してるから。それから、ペットボトルの水も二本持って行くといい。」

同行したのは、環境保全コンサルタントの女性と、上下水道設計担当の若い男性メンバー。全員を乗せた後、車を走らせながらティルゾが解説します。
「今日の視察は、これから保全すべきエリアを確認するのが一番の目的なんだ。カリフォルニア州は、全米でも特に環境保全に厳しい州でね。このプロジェクトの開発事業者の母体となっている投資銀行は、開発権を買い取った時、そのことをあまり重く見ていなかったようなんだな。カナダで同じような仕事をした経験があったから、それと同じレベルの保全対策費を見積もっていたらしい。カリフォルニアと較べるとカナダの環境規制はかなり甘いってことを知らなかったんだな。それで彼ら、今になって事の重大さに気付き、大騒ぎしているらしいぞ。」

冷房の効いた車を降りて、四人で現地を歩きます。太陽がジリジリと首の後ろや腕を焦がすのを感じます。若きクリント・イーストウッドがカウボーイ姿でふっと現れそうな、どこまでも荒れた砂と岩の丘陵地。目にする植物といえば、ほとんど葉のない潅木とかサボテンくらい。かいた汗はみるみる乾いて行き、持参したペットボトルの水も最初の15分くらいで飲み干してしまいました。ティルゾの助言通り二本持ってくるべきだった、と悔やみました。こんなところで一人置いていかれたら確実に野垂れ死ぬな、と良からぬ想像が頭に浮かびます。

二時間に及ぶ徒歩視察を終えた私の正直な印象は、「この環境の、いったい何を保全しろっていうんだ?」でした。もちろん、標準から見れば細いとは言え、いきなり六車線の高架道路が建設されるのだから、どんな地域であれ環境への影響は少なからずあるはず。しかし喉の渇きに耐えつつ歩いた私の目には、特別保全の必要がありそうな生き物など何ひとつ映りませんでした。

その一週間後のこと。元請けORG主催の環境保全講習があったので、仲間数人と参加することになりました。専門家のティルゾは、講師陣の一員としてこちら向きに座っています。
「まず初めに言っておくが、工事担当者に限らず、この講習を受けるまでは誰も現場に入ることは許されない、ということを憶えておいて欲しい。」
ORGの環境保全担当者のこの前置きには、ギョッとしました。そんなこととは露知らず、既に先週現場入りしてしまったじゃないか!

「ここカリフォルニアじゃ、絶滅危機種や保護種を捕獲したり傷つけたりしたら即刻逮捕されるんだ。書類送検なんて甘いもんじゃない。このオフィスに警官が乗り込んで来て、皆の前で手錠をかけられるんだよ。そんなことがあったらたまらんだろう。知らずに踏んじまったなんて言い分けは通用しない。この環境保全講習を受けるのは義務であると同時に、あんたらの身を守るための大事な手続きなんだ。」

思わずティルゾの顔をうかがうと、澄ました顔で前を見ています。まあエキスパートの彼が同行したんだ、きっと申し開きは立つだろう、と自分に言い聞かせました。

講習はわずか一時間でしたが、その内容は目から鱗の連続でした。この砂漠には、連邦政府が指定する「絶滅の危機にある生物」や「保護すべき動植物」が20種ほどいると言うんです。砂漠の潅木に巣を作るカリフォルニア・ナットキャッチャーという小鳥、砂漠に自生する花に依存するキノ・チェッカースポットという蝶、サンディエゴ付近にだけ生息するトカゲやヘビ、それからミントなどのハーブ類。ある種のサボテンやそれに依存する鳥、などなど。

中でも意表をつかれたのは、Vernal Pool (春の水溜り)と呼ばれる乾燥地帯。一年の大半はカラカラに乾いて醜くひび割れた土地ですが、春になってまとまった雨が降った時にだけ少し潤います。すると、土の中で休眠状態だったサンディエゴ・フェアリー・シュリンプという海老がおもむろに活動を始めるのです。海老と言っても実体はプランクトン。何億年も進化せずにいるそうで、今では南カリフォルニアでしか確認されていません。これを保全するためにはVernal Pool を手付かずのまま残すしかなく、ただの干からびた土地と思っていたものが実はプロジェクトの行方を左右する大きな要素になっていたのです。

講習後、ティルゾのキュービクルへ行って恐る恐る尋ねました。
「僕ら、大丈夫だよね。講習受ける前に現場へ行っちゃったけど。」
彼はニッコリ笑って答えました。
「僕も時々講師をやってるんだ。誰かに聞かれたら、現場に向かう車の中で僕から講習を受けたって言えばいいよ。」
「それでちょっと安心したよ。ところで、Vernal Pool がプロジェクトの行方を左右するって話があったけど、具体的にはどういうこと?」
と尋ねると、彼は付箋が何百枚も貼られた環境影響調査報告書をパラパラとめくってからどさっと机に置き、指差しました。そこには、「この高速道路が最大六車線で計画されているのは、現地に広く分布するVernal Pool への影響を抑えるためである。」と書いてあったのでした。

自分の中の常識を疑ってかかる習慣がないと、違う国や地域で仕事をする際に思わぬ痛手を被ることがある、という貴重な教訓でした。

2 件のコメント:

  1. 正に生物多様性というところでしょうか。
    今年名古屋でそのCOP10が開かれるとあって、いまや新聞で生物多様性の話が日々踊っています。でも、正直ピンと来ない。これじゃ、僕など、すぐに手錠をかけられてしまいそうだね。絶滅危惧種を守るのも必要だが、生態系を壊す「唯一?」はやはり人間かな。。それとも、もう少ししたら、その頂点に人間でない何かがいて、「ちょっと人間増えすぎたから『調査捕獲』でもして食うか」ってなことになるんでしょうか。それまでには間違いなく老衰していることでしょうが。

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  2. わっはっは。それは面白いなあ。「お願いだから生態系を壊さないで!」とか叫びながら人間が食われていくシーンを思い描いちゃったよ。

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