2010年8月1日日曜日

アメリカで武者修行 第18話 目を光らせておくべきだったわ。

マイクの不在をカバーするため、サクラメント支社から彼の上司であるラスがやってきました。銀縁眼鏡、身長180センチ強。年齢は私と同じくらいでしょうか。見るからに聡明ですが、物腰の柔らかさはマイクと対照的。彼はディレクターのクレイグと出会ってわずか数秒で意気投合したようで、まるで長年の友人のようににこやかに話しこんでいました。

一方私の方は、激しい緊張状態にありました。土質調査会社がいよいよストライキ状態に突入したのです。先方の社長と副社長が直々に乗り込んできて、クレイグとラスに怒りをぶつけます。
「プロジェクト開始時は、ここまで仕事が長引くとは考えていなかった。本来なら去年のうちに終わっているはずだったのに、これまで3箇所しか掘らせてもらっていない。現場に入ろうとするたびに、環境条件をクリアしていないとか何とか言ってJVから待ったがかかる。スケジュールが長引いた分の人件費を払うという承認を貰うまでは、一切仕事しないのでそのつもりでいてくれ。」

前回の衝突では手紙のやり取りで事が済んだのですが、今回は一歩も退かない覚悟が明白です。我々は四月までに基本設計を提出しなければならず、それには土質調査の結果が絶対に必要で、ここでグズグズとストライキに付き合っている訳にはいきません。クレイグとラスから交渉戦略の策定を任された私は、老フィルとも相談した上で、彼らにこう確認しました。
「交渉の着地点は、何とか仕事を続けて貰い、期限までに調査結果を得ることですよね。」
「その通りだ。」
とクレイグ。さっそく、土質調査会社との契約書や過去の通信録を丹念に見直した結果、以下の点が整理されました。

1.昨年12月に締結した下請け契約書には、「設計施工一体型プロジェクトの性格ゆえ、スケジュールは未定。JVと調整しつつ進めること。」とあり、彼らの「これほど長引くとは思っていなかった」という言い分は、法的には通らない。
2.同契約書には環境条件などを記した文書をよく読んでおくよう書いてあり、「これほど環境条件が厳しいとは知らなかった」という言い訳も通らない。
3.下請け契約の元となった彼等のプロポーザルは五年前に提出されており、この時点ではそうした制約条件を彼等が知る由もなかったのは確か。しかも見積もりには「3ヶ月程度で仕事が終了する前提」と明記されている。しかし結局は契約書にサインしたのだから、やはりこれも言い訳には使えない。

「調べれば調べるほど、我々の側に分があることが分かって来ました。妥協せずに強く出るという手もありますが、それではこの状況を打破出来ないでしょう。」
と私。クレイグとラスが顔を見合わせます。
「その通りだ。それに、もしも彼らが法廷に持ち込んだらどうなる。一般大衆の目には、下請けを泣かせるムゴいJVという風に映るだろうな。」
とクレイグ。ラスも同意します。議論を尽くした末、ようやく結論に辿り着きました。
「先方の言い分を文書化してもらい、それを我々がORGに突きつけて交渉する約束をしよう。金を出すか出さないかはORGが決めることだが、彼等にとっても土質データは生命線だ。勝機はあるだろう。」
翌週水曜日、再び土質調査会社と会議を開きました。我々の戦略を受け入れた彼らは、仕事を再開する約束をしてくれました。

金曜の夕方、それまで不在がちだったリンダが久しぶりにオフィスに現れたので、今回の顛末をさらりと報告しました。話を聞きながらみるみる般若の形相に変貌して行った彼女は、手にしていたボールペンを振り上げて机に叩きつけ、
「何でそういうことになったのよ?!」
と叫びました。ボールペンは彼女の足元に転げ落ちました。リンダはそれを拾おうともせず、今にも何か恐ろしい魔物に変身しそうな勢いで身を震わせました。
「彼等の仕事が遅いせいで被害を被っているのは私たちなのよ。こっちが賠償請求をするべきでしょう。どうして会議なんか開いたのよ?彼らに交渉の糸口を与えちゃ駄目じゃない!」
「ちょっと待って下さい。これはクレイグやラスの判断でもあるんですよ。」
と慌てて反論したのですが、
「彼らはプロジェクトに参加してから日が浅いのよ。この件を任せられると本気で思ってるの?」
と取りあいません。契約に関しては誰よりも知識が豊富だし、いつも師と仰いでいる彼女ですが、今回ばかりは意見が合いません。法的に分があるからと言って仕事のパートナーを徹底して窮地に追い込むことが、正しい判断とは思えないからです。隣のキュービクルで我々の会話を聞いていた老フィルも立ち上がり、
「下請けにひどい仕打ちをすれば、後で必ず自分たちに返って来るんだよ。彼等とは仲良くやっていかなきゃならんよ。」
と加勢してくれましたが、彼女は全く持論を曲げようとしません。

言おうか言うまいかずっと迷っていたのですが、私はとうとう切り札を出しました。
「そうやって追い詰めた結果、彼等がプロジェクトを下りると言ったらどうするんです?スケジュールは何ヶ月も遅れるでしょうね。そんな事態を受け入れる覚悟が我々にありますか?」
「我々」という複数人称を使うことで衝撃を和らげたつもりだったのですが、それでもこのセリフはぐさりと刺さったようでした。リンダはしばらく無言で私をにらみ付けていましたが、片手でさっとハンドバッグを鷲づかみにすると、
「この件にはもっと目を光らせておくべきだったわ。」
という捨て台詞を残して去って行きました。

リンダの後姿を見送った後、クレイグのオフィスを訪ねて彼女の意見を伝えました。彼は無表情で話を聞いていましたが、最後に私の目を見てきっぱりと、
「気にするな。これまで話し合って来た通りのやり方で行く。」
と言いました。気にするなと言われても、当然気になります。月曜にはマイクが戻ってくるのです。リンダが彼に一部始終を話すことは火を見るより明らか。私はマイクに雇われている身で、彼の逆鱗に触れれば解雇だって有り得ます。「気にするな」と言ったクレイグは、所詮別会社の人間。私を守ってくれるとは到底思えません。その夜は蒸し返し繰り返し、「リンダに刃向かったのは迂闊だったかもしれない」とか、「いや、あそこで黙っているなんてあまりに情けないじゃないか」と煩悶しました。

実は他にもうひとつ、心に重くのしかかっていた事件がありました。造園設計会社と打ち合わせしている過程で、彼らの設計費用がプロジェクトの予算から漏れていたことが明るみに出たのです。どうしてそんなことが起こりえるのか理解に苦しみましたが、フィルによれば、「契約交渉時に上層部の誰かが、元請けからのプレッシャーに負けて削ったんじゃないのかな。」とのこと。しかしだからと言って造園設計会社に無料で設計してくれと言う訳にもいかず、フィルが新たに彼らから見積もりを取りました。そして何度か交渉した後、クレイグの了解も得てようやく契約に漕ぎ付けたのです。実際、額の交渉に当たったのはフィルで、私は書類手続きをしただけだったのですが、問題はこれがマイクの留守中、しかもリンダの知らぬ間に起こったということ。あの二人に知れた時のことを想像すると、胃酸がじわりと噴き出して来るのでした。

そんな陰気な夜が明け、翌土曜日には遂に妻子がサンディエゴに到着しました。四ヵ月半ぶりにファミリーライフの再開です。両手を挙げずに歩くようになった息子を見て、その成長ぶりに驚嘆すると同時に、ようやく家族を呼び寄せたこのタイミングで職を失ったら最悪だな、と自虐的な笑いがこみ上げるのでした。

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