2010年8月8日日曜日

アメリカで武者修行 第19話 ただのランチよ。

2003年3月17日月曜日。アメリカ軍がイラク空爆を開始し、いよいよ本格的に戦争が始まりました。この軍事行動の準備にどこまで深く関わっていたのかは知るべくもありませんが、この日の朝、マイクが二週間の予備役任務から戻って来ました。予想通り、土質調査会社との一件について週末にリンダから報告を受けていたようで、朝から彼の怒りが炸裂です。
「お前がいながら、どうしてそうやすやすと交渉の糸口を与える羽目になったんだ?」
私が率先して進めた話なので、「お前がいながら」という前置きは的外れです。
「クレイグも了承した上でのことなんですが…。」
「あの男はこの仕事を始めたばかりでまだ状況を把握していないんだぞ!お前が食い止めないでどうする?!」

さらにその週の木曜日、フィルのキュービクルで打ち合わせをしていたところへ、マイクが飛び込んできました。今にも私を張り倒さんばかりの勢いで、
「これは一体どういうことだ?!」
と、クレイグのサインがついた契約書のコピーを私の鼻先に突きつけます。造園設計会社と追加契約した件が、ついにバレたのです。
「なんでこんな高額の契約書を作ったんだ?お前正気なのか?何でクレイグにサインさせたんだ?」
老フィルが、のんびりした口調で説明を始めました。
「造園設計費はプロジェクトの予算に含まれていなかったんじゃよ。まさか無料で働けとは言えんだろう。」
フィルが言い終わるのを待たず、マイクは踵を返して自分のオフィスに帰って行きました。

その後数分して、リンダが怒りに唇を震わせながら私のキュービクルに現れました。どうやら今度はマイクが彼女に告げ口したようです。
「食堂に行きましょう。」
リンダの後をついて食堂まで無言で歩き、大テーブルの隅に向かい合って座りました。
「私は今、なんとか冷静さを保って話しているのよ。あなたのやったことは、途轍もなくインパクトの大きい話だってことを分かって欲しいの。下請け業者に対して公正に振舞おうとしているのは分かるわ。でも、可能な限りお金を絞りつつ彼等に仕事をさせるのがあなたの役割なのよ。一瞬たりともつけこませては駄目。これはタフなビジネスなの。あなたもタフにならなきゃいけないわ。」
私の頭にも血が上っていたのでしょう。「タフになる」というのは具体的にどういうことなのかが、全くイメージ出来ません。すると、彼女の方から答えを提供してくれました。
「今すぐ下請けに手紙を書きなさい。この契約は間違いだった、再度話し合いたいって。」

これは断じて間違いなんかじゃありません。組織のトップがサインした契約なのです。一枚下の層にいる人間が手紙を送ったところで、要らぬ混乱を招くだけです。そんな反論をぐっと吞み込んで自分のキュービクルに戻り、手紙を仕上げてリンダに渡しました。彼女は無表情でそれを読み終わった後、
「マイクのサインは私がもらうわ。」
と消えて行きました。そんな訳で、マイクとリンダの怒りの表情が頭の隅に貼り付いたまま、どうにも気の晴れぬ週末を迎えました。

明けて月曜日。午前も終わりに近づいた頃、リンダが不意に私のところへやって来ました。
「マイクとランチに行くんだけど、一緒に行かない?」
これには椅子から身体が飛び上がるくらい驚きました。ここで仕事を始めて約五ヶ月、食事はおろかコーヒーにさえ誘われたことがなかったのに、どうしてこのタイミングで誘ってくるんだ?
「ランチミーティングってことですか?」
と尋ねると、
「いいえ、ただのランチよ。」
と微笑むリンダ。実は家から弁当を持って来ていたのですが、これはきっと断れない種類の誘いなんだろうなと思い、
「ええ、喜んで」
と答えました。
「マイクは今現場に行ってるの。彼が戻って来たら出かけましょう。」

それからマイクが事務所に到着するまでの間、仕事が全く手につきませんでした。
「この週末にリンダと良く話し合った結果、お前はこの仕事にふさわしくないという結論に達した。今日限りで荷物をまとめて職場を去ってもらいたい。」
そういう宣告の場としてランチを使うことは、充分考えられます。ようやくファミリーライフが再開したところだっていうのに…。気がつくと、脇の下に嫌な汗をびっしょりとかいていました。その時、
「ヘイ、マイフレンド。」
と声がしました。設計チームの一員で契約社員のカルヴァンが、キュービクルの仕切り壁の上に鼻から上だけ覗かせています。彼とは数日前、健康のため昼休みに歩こうじゃないかという話をしたところだったのです。
「今日あたりどうだい?ウォーキングシューズは持ってきた?」
しかし私の硬直した表情に気付いたのか、
「どうしたんだ。顔色が変だぞ。」
と心配げな声で言いました。
「今日は駄目なんだ。残念だけど。」
「おいおい、随分深刻そうだな。何があったか知らないが、とにかく深呼吸だ。深呼吸。ちゃんと息をしなきゃ駄目だぞ。ここにいる連中はみんな呼吸することを忘れてる。」
「分かった。深呼吸だね。やってみる。でもとにかく今は駄目だ。後で話すよ。」
「オーケーオーケー、じゃ明日にしよう。」
カルヴァンが立ち去ったのと入れ替わりに、
「準備はいい?」
とリンダがやってきました。

「家族はみな元気でやってるの?」
職場から十分ほど走ったところにある小さな日本料理店で、リンダが口火を切りました。私はことさら憐憫の情をかきたてようと、少々大袈裟なまでに家族水入らずの幸せな毎日を描写し、第二の矢を牽制しました。
「日本ではどんな仕事をしていたんだっけ?」
そら来た、今度は仕事関連の質問だぞ。無職時代に何度も練習してきた通り、すらすらと自分の実績をアピールしました。マイクは一言も口を挟まず、いつもの仏頂面でてりやきチキン定食を黙々と食べ続けています。ここで私は思い切って話題を変えてみました。
「ところでリンダ、ロースクール(法科大学院)時代の話を聞かせて下さいよ。すごく厳しい競争環境だと聞いたことがありますが、本当にそうなんですか?」
するとリンダは表情を和らげ、かつて彼女が開発した「教授の厳しい質問をさらりと交わすエレガントなテクニック」だとか、彼女の鋭い論ぱくに逆上した意地悪な教授の話だとか、面白いエピソードを立て続けに披露してくれました。早々に食べ終わっていたマイクは、その間ただただ黙ってつまらなそうにリンダの顔を眺めていました。その沈黙は、「いい加減に締めくくってそろそろ本題に入れよ。」という催促とも解釈できるし、「勘弁してくれよ。俺はその話聞くの、これでもう3回目だぜ。」という不満の表明とも取れる、微妙なものでした。

しかしそうこうするうちランチは終了し、マイクがそそくさと代金を支払い、席を立ちました。え?これだけ?本当に「ただのランチ」だったの?マイクの車で職場に戻り、疑念が完全に晴れぬまま午後の仕事に入りました。どうやらとんだ取り越し苦労だったようですが、このわずか一時間半で経験した精神的な消耗は相当なものでした。トイレの鏡に映った自分がすっかり白髪になっていなかったことが不思議に思えたほど。

帰宅して妻に今回の一件を話したところ、
「週末に二人で話し合って、シンスケには少し言い過ぎたから月曜にはご飯に誘おうってことになったんじゃない?」
と、とんでもなく暢気なコメントが返って来ました。
「そうかな。まあ、そう思っておけば気が楽だね。」
「やめられちゃ困ると思ってるのよ、きっと。」
「そこまで都合よくは考えられないよ。」

翌日、カルヴァンを誘って昼休みのウォーキングに出かけました。職場から十分ほど歩いて角を曲がると、突然美しい芝生の公園が開けます。広大な芝生の広場は人口湖を囲んでいて、我々はその湖を一周することにしました。汗をかくくらいの早足で歩きながら私は、前日の顛末を話しました。暫く黙って聞いていたカルヴァンは、
「そうか、そんなことがあったのか。様子が変だとは思ってたんだ。」
それから少し間を置いて、
「でもまあ、悪いけど俺に言わせりゃそんなの大した話じゃない。クビになったらなったまでのことだ。次の仕事を探すだけの話だよ。」
このあっさりした片付け方に、私は少し傷ついていました。
「僕はとてもそんな簡単には考えられないよ。自分ひとりなら何とかなるけど、家族の生活を守らなきゃいけないんだよ。」
「俺はね、これまで無数の仕事についてきたんだ。クビになった回数なんて数え切れない。一から出直すのにももう馴れたし、いちいち感情的になるのはとうの昔に止めた。俺の場合、それ以外にも差別という要素があったしね。」
「差別?どうして?」
「分かるだろ。これだよ。」
彼は自分の手首を指差しました。その時、彼が黒人であることを初めて意識させられました。肌の色の違いが差別に繋がる世の中はとうに終わりを告げたとばかり思っていた私には、正直、意外でした。
「え?、まだそういうの、あるの?」
「あるさ。まだまだある。」
「知らなかった。僕はこの国に来てまだ二年ちょっとしか経っていないけど、これまで人種差別を経験したことがないんだ。」
「うん、まあきっとそういうのは黒人である我々にしか分からないと思うよ。」
「僕もアジア人だけど。」
「そいつはまったく違うよ。」

彼は少し黙った後、こんなことを口にしました。
「俺はね、一度死にかけてるんだ。脳に腫瘍が出来て、ある日仕事中に倒れたんだ。昏睡状態が何日か続いてね。で、手術で奇跡的に生還したんだ。」
「後頭部の傷は、手術跡だったんだね。」
「うん。その時から人生がガラリと変わったよ。仕事に復帰した後すぐクビになったけど、それはもうどうでも良くなった。その日その日を目一杯楽しんで、自分が今呼吸をしている、そのことに純粋に感謝して生きてるんだ。」
カルヴァンのこの言葉に、何か救われた気がしました。そして背筋を伸ばし、大きくひとつ深呼吸をしました。

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