2010年8月16日月曜日

アメリカで武者修行 第20話 そう簡単にドジは踏まないよ

2003年5月2日、大統領が戦闘終結宣言を行ったというニュースが流れました。イラク戦争が事実上終わったということです。幸運にも戦争は私の仕事に何の影響も及ぼさず、着任から半年が経過しました。

この数ヶ月間、元請けや下請けに宛てて毎日2通くらいのペースで手紙を書いて来ました。元請けのORGに対しては、
「先日依頼された業務は契約書第何条に合致しないので契約額を変更願います。」
そして下請けに対しては、
「御社の請求書の二番目の項目はこれを正当化する事前の合意文書がないので支払えません。」
といった内容が中心。日本で働いていた頃は外部向けの文書を出す場合、決裁書にたくさんのハンコをもらっていました。係長、課長代理、課長、次長、部長、という順に。当時そのことについて特に深く考察したことはなく、それが組織の意思決定というものなのだ、と素直に受け入れていました。

だからこのプロジェクトに参加した当時、マイクのサインさえ貰えば良いと知った際には唖然としました。なんて平たい組織なんだ、これがアメリカの組織の意思決定か!そう無邪気に興奮したのも束の間、2ヶ月もたたないうちに業務量が数倍に膨れ上がり、組織は急拡大。仕事のプロセスも複雑化し、とてもマイク一人の手には負えなくなりました。文書の草案を持って行っても、
「一体全体、何の話をしてるんだ?」
という反応が返ってくるようになりました。そしてある日、
「シンスケ、これからはグレッグにもチェックしてもらってくれ。」
とギブアップ宣言。そこで草案の片隅にサイン欄を設け、当時ナンバー2だったグレッグにイニシャルを書き込んでもらってからマイクに持っていくようになりました。

その後、リンダとフィルが私の仕事を中間管理するようになったため、彼等の名前もサイン欄に加わり、クレイグのトップ就任によってマイクの名前は箱の中へ移動。事案によっては担当者にも確認して貰うようになったため、草案チェックのプロセスが5倍くらいに延び、手紙一通出すのに三日から一週間はかかるようになりました。なんだ、これなら日本でやってきた決裁とちっとも変わらないな、と少しがっかりしていたのですが、皆の反応を見ているうちに、どうもこれはそれほど一般的なやり方じゃないみたいだということに気がつきました。

老フィルは、
「これはとてもいいアイディアだよ。その事案に関与している全ての人のチェックを通ったことがひと目で分かるからね。」
と、さもこれが革新的なシステムであるかのようなことを言うし、リンダは、
「いい習慣ね。どんな通信文書も必ずこのプロセスを通すことを勧めるわ。そして責任者達のイニシャルがついた草案は別フォルダーに綴じてしまっておくの。後で裁判になった場合、それがあなたの身を守ってくれるわ。」
と、あくまでもCYA (Cover Your Ass) の観点からこの決裁システムを賛美しています。彼女の論点はつまり、責任者達のサインやイニシャルがついた草案は組織の正式文書として保管されるわけではなく、あくまでも「何かあった時に自分に責めが及ばないようにする」ための武器だというのです。

そういう視点で決裁というシステムを考えたことは一度もありませんでしたが、言われてみれば、サインを依頼した時の人々の反応に合点が行きます。
「ほんとに俺がサインしなきゃいけないの?」
という渋い表情を浮かべる人は多いし、サインする前には皆しっかり時間をかけて内容を一言一句確認するのです。本来はもちろんそうあるべきなのでしょうが、自分はかつてわりと安易に印鑑を押していたので、いささか新鮮でした。

測量会社からの請求内容と業務の達成状況とを照合するため、実際に個々の測量業務を依頼した担当者の名とその仕事の進捗状況を、表にまとめた時のことでした。当の担当者達に確認してもらおうとサイン用の紙を一枚添付してオフィスを回ったところ、最初に訪ねたデイヴにきっぱりと拒絶されました。
「俺はこんな紙切れなんかにサインしないよ。」
当惑していると、彼が続けました。
「これにサインしてしまえば、一覧表にある全ての業務の責任を取らされかねないからね。俺は自分の担当業務にしか責任は持てないよ。」
そう言ってサイン用の紙をはねのけ、表中の自分の名前の横に小さくイニシャルを書き込みました。
「俺にとって一番大事なのは、プロジェクトの最終日までこのケツが胴体と繋がっていることだ。そう簡単にドジは踏まないよ。」

書類にサインすることの怖さを、自分はデイヴほどは分かっていなかったなあとつくづく思ったのでした。日本で働いていた頃は、「責任を取る」という言葉が今ほどは現実味を帯びていませんでしたから。

さて5月の第一週のこと。ディレクターであるクレイグの辞任が突然発表されました。コロラド州交通局から技術職のトップとして迎えたいというオファーがあり、それを受けることにしたというのです。就任からわずか3ヶ月で転職…。いかにもアメリカらしい話です。総務経理担当のシェインがオフィスの隅にケーキとお茶を用意して、立食式のささやかな送別会が開かれました。
「随分悩んだのですが、娘たちがコロラドに住んでいるということもあり、家族でよく相談して決断しました。かつてこれほど優秀な部下達と働いたことはなく、そんな皆さんとお別れするのは本当に残念なのですが…。」

理由の真偽はどうあれ、トップがたった3ヶ月で辞めてしまうのです。当然、部下達は浮き足立ちます。人だかりの中、ひそひそ話が始まりました。
「本当に個人的な理由なのかな。このプロジェクト、危ないんじゃないの?」
そんな懸念に先回りするかのように、送別会に参加していた本社のお偉方が、
「後任のディレクターは、月末には到着します。彼はきっと腰を落ち着けて活躍してくれるでしょう。既にこのエリアに家を買ったそうですから。」
と補足しました。隣に立っていたミシェルが、
「ちょっと眉つばっぽいわよね。」
と声をひそめていたずらっぽく笑いました。

午後遅く、クレイグのオフィスを訪ねました。夕陽の差し込むがらんとした部屋で、ダンボール箱に荷物を詰めているところでした。
「クレイグ、私としては今回のことを、とても残念に思っています。でも、コロラドでの仕事がうまく行くことを祈ってます。」
「どうも有難う。私もこんなに短期間での転職は予想もしていなかったよ。」
彼は作業の手を休めて立ち上がり、握手を求めて手を差し出しました。
「これからも、今の調子でプロジェクトに貢献してくれ。」
私はふと、前から聞いてみたかった質問を口にしてみました。
「クレイグ、この仕事はペースも速いし、プレッシャーもキツかったと思います。日々、ストレスは溜まりませんでしたか?どうやって毎日冷静に過ごされてたんですか?」
彼は表情を変えずに少し考え、それからこう答えました。
「私だって、何度か夜中にうなされたことはあるんだよ。だがね、大事なことは、チームの皆を信頼することなんだ。信頼していれば、不安に苛まれることはない。」

まるで部外者から「たちの悪い」冗談を聞かされたようで、釈然としないまま自分のキュービクルに戻りました。「信頼していれば、不安に苛まれることはない」だって?彼はここで三ヶ月、一体何をやってたんだ?マイクやリンダが彼をどう思ってたか、気付かなかったとでも言うんだろうか?いや、そんなはずはない。彼はシャープな男だ。当然気付いてたはずだ。しかし気付いていてそういうコメントを思いついたとすれば…。

私はじわじわと腹が立って来ました。自分が「小物扱い」された気がして怒りがこみ上げて来たのです。まるで「こんな下っ端に、誠実に答える価値などない」、という心の声を聞いてしまったみたいで。

ナメてもらっちゃ困る。アメリカでこそまだまだ新参者だが、日本ではそれなりに仕事の実績を積んで来たんだ。くそっ!このままでは終わらないぞ!ひとりメラメラ燃えながら、残業に突入したのでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿