年が明けました。アメリカがイラク攻撃の準備を開始したと、ラジオのニュースで盛んに報じています。前年9月のテロ事件以来、みんなでイラクをやっつけようじゃないかという国際キャンペーンを展開して来たアメリカでしたが、大量破壊兵器の決定的証拠も見つからぬまま、遂に戦争に突入することを決めたようなのです。しかし街の様子には何の変化もなく、サンディエゴは相変わらずのんびりした雰囲気。
妻から届いたメールには、ショッピングモールの長い渡り廊下を嬉しそうにヨチヨチ歩く息子の写真が添付されていました。私がミシガンを発つ前の晩、彼が初めて自力で立ち上がるのを目撃したばかり。あれからわずか二ヶ月の間に二足歩行へ進化を遂げるとは。人間というのは大した生き物だなあ、と感心しました。
さて、職の安定性に大きな不安を抱えつつも、3月には妻子をサンディエゴに呼び寄せることを決め、メキシコ人女性宅での居候生活を終えてアパートに引っ越しました。職場までの運転時間が15分から40分へと大幅に伸びましたが、近くに住むケヴィンと交替で車を出す、いわゆる「カープール」によってガソリン代を節約することに決めました。
年末年始の休みを終えて一週間ぶりに出勤したボスのマイクは、挨拶もそこそこにいきなり大噴火。
「土質調査はいつ始まるんだ?!奴らの尻を叩くのはお前の仕事だ!さっさと仕事にかからせろ!」
あわてて下請け業者のバリーに電話したものの、あいにく不在。電話を下さいとメッセージを残して切った途端、じりじりしながら背後で聞いていたマイクが再び爆発。
「そんなご丁寧な物言いがあるか!一時間以内に電話をよこさなかったらクビだと言え!」
彼は踵を返してどこかへ消えたかと思うと、間もなく紙を一枚手に戻ってきました。見ると、ORGのマイクからのメールでした。
「土質調査が始まらないため、我々の工事スケジュールが滅茶苦茶になっている。この責任をどう取るか、二日以内に書面を持って回答せよ。」
ORGのお偉方の名前が、綿々とCC欄に並んでいます。
「分かるかシンスケ、俺はこうして昼も夜もなく奴らから吊るし上げられてるんだ。何とかしろ!」
土質調査会社との契約書は12月初旬にサインされました。これで私の仕事は一件落着、とホッとしていたのです。どうして調査が始まらないのかは謎でした。数分後にバリーから電話がかかって来たので事情を聞いてみたのですが、これがまたさっぱり要領を得ません。
「我々は掘削機も準備して、契約の翌日から掘れるようにしていたんです。なのに現場に着いてみたら、必要書類が受理されていないからまだ掘れない、と追い返されたんです。書類を提出し、さあこれで掘り始められるぞと思ったら、今度はまた別の書類が出ていない、なんて言うんですよ。もう何回こんな無駄なやり取りをさせられてるか分かりません。ずっと待機させている掘削機のレンタル料だって、馬鹿にならないんですよ。これ、払ってもらいますからね。」
「ちょっと待って下さい。追い返されたって、誰が追い返したんですか?」
「ORGの人たちですよ。」
さっそくORGのマイクのオフィスを訪ね、どんな書類が必要なのか聞き出しました。
「奴らの書類には、報告書の審査に関する記述が抜けていたんだ。安全講習の日程も入っていなかった。それから交通整理計画書も出ていないんだぞ。」
言われてみればいちいちもっともな要求なのですが、そんなことは今まで誰一人として事前に指摘してくれませんでした。この際だから、調査のために必要な許認可手続きのチェックリストとかフローチャートを入手しておこう、と彼に尋ねたところ、そんなものは存在しないと言われました。
「契約書に書いてあるだろう。」
実は、提出が要求されている書類のほとんどが、我々の設計契約書には書かれておらず、その上位の契約書群(ORGと開発事業者CTBの間の契約書など)の条項に基づいていることが分かりました。それら全てを読破して提出必要書類を拾い上げるには、短くとも一週間はかかりそうです。埒が開かないので、許認可に関わっていそうな人をひとりひとり訪ね歩き、しつこくインタビューして許認可フローチャートを作り上げました。そうして初めて、調査がなぜ始まらなかったのかが明白になったのです。
まず、高架区間の橋脚設計についてORGの承認が下りなければ、掘削位置が決まりません。掘削位置が決まったら交通整理計画を作成し、これを盛り込んだ調査計画書をORGに提出。ORGの承認後、これが更に州政府へ提出されます。州政府の審査と承認には通常2週間かかります。また、調査作業員を集めたら、全員が事前にORGによる安全講習及び環境保全講習を受けなければなりません。講習会は週に一回しか開催されないので、ひとりでも欠席するとその調査チームは一週間動けないのです。
どれひとつ取っても、そもそも契約担当の私がどうこう出来る話じゃなかったことが分かり、少し安心しました。さあ、こうしてとにかく潰すべき課題は出そろった。次の一歩はどの課題に誰が取り組むかを割り当てることだ、と急いでマイクのところへ報告に行きました。ところが、話し始めて3秒も経たぬうちに、
「言い訳はやめろ。俺は早く調査を始めさせろと言ってるんだ!」
と怒鳴って立ち去ってしまったのです。数分後にはナンバー2のグレッグまでやってきて、
「シンスケ、俺の我慢も限界だ。今週中に懸案事項を全て片付け、来週には調査を開始させろ!」
とわめきます。これにはさすがに参りました。「ああ、このままじゃクビになる」と気分が落ち込んで行きます。「シンスケはアグレッシブさに欠ける」とマイクがクリスマス前に漏らしていたようなことをケヴィンから聞いたばかりだったので、余計深刻になりました。
さんざん悩んだ末に一計を案じ、設計屋のミシェルに相談に行きました。金髪に青い目、ケンタッキー州出身。サルサダンスが得意だというスレンダーな彼女は、映画のオーディションを受けにカリフォルニアへやって来たと言っても信じてもらえそうな美貌です。でも現実には橋脚の座標を土質調査会社へ送るという、極めて「エンジニアな」仕事をしているのです。
「しょうがない人たちね。怒鳴っていても仕事は前に進まないってことを、そろそろ分かってもいい頃だと思うんだけど。」
「そこで君の助けが必要なんだ。キーメンバーを集めて会議を開いてもらいたいんだ。僕がやるよりも、君が表に出た方がスムーズに行くと思うんだけど、どう?」
翌週、ミシェルの主催で「土質調査スケジュール調整会議」が開かれました。調査会社、設計JV、ORG、そして州政府のメンバーが一堂に会し、課題をひとつひとつ丹念に洗います。直前まで「会議なんて時間の無駄だ。つべこべ言わせずに穴を掘らせろ。」と毒づいていたボス達ですが、出席してみてやっと事態の複雑さが呑み込めたようでした。会議終了後、マイクはミシェルのキュービクルに椅子を持ち込み、長時間話し込んでいました。
その日の晩、帰りの車でケヴィンに今回の一件を報告しました。ミシェルに仕事を押し付ける結果になっちゃって悪かったかな、と言うと、
「それで良かったんだよ。まさかマイクもミシェルを怒鳴りつけたりはしないだろう。そもそも、契約担当のシンスケがどうして土質調査会社の尻を叩かなきゃいけないんだ?役割分担が不明瞭過ぎるよ。」
と言いました。ずっと引っかかっていた不審の種。それがこの「役割分担の不明瞭さ」だったのでした。
「そうだ。そうだよね。マイクが当然のように責めて来るから自分の落ち度だと思ってたけど、よく考えたら契約担当者が実際の仕事の進め方に干渉するっていうのはちょっと変だよね。」
「まあ、このプロジェクトは慢性的に人手不足だから一般論は通用しないかもしれないけど、チームの役割分担を明確にすることくらいは出来るはずだよ。今のままだと、内野フライを何人もの野手が捕りに行ってぶつかるみたいな失策がなくならないよ。」
夜のハイウエイを運転しながら、ケヴィンが続けました
「ただね、このプロジェクトの最大の失敗はそのことじゃない。」
「最大の失敗?何のこと?」
「シンスケも今回気づいただろう。このプロジェクトには、マスタースケジュールが存在しないんだ、」
「スケジュール?僕が来た当時、確かアーロンたちが作ってたと思うけど。」
「ああ、確かに作ってた。だけどそれ以降、このオフィス内で見てないだろう。完成版は存在しないんだよ。大体マイクもグレッグも、最初からスケジュール作りには参加しようともしなかった。彼らはスケジュールの価値を理解していないんだよ。今回のことだって、そもそも本気でスケジュールづくりに取り組んでいたら、土質調査に必要な許認可なんてあらかじめ全て洗い出しておけただろう。何故調査が始まらないのかなんて、シンスケを詰る必要さえなかったんだよ。」
「ORGはそのことについて文句言ってないの?」
「彼らも同罪だ。いや、もっと悪いか。アーロンたちが彼らに工事スケジュールを見せてくれるよう頼んだ時、そんな情報は渡せないって一蹴されたんだ。設計施工一体型のプロジェクトなんだぜ。工事部門とのコーディネート無しに、どうやって意味のある設計スケジュールが作れるって言うんだ?俺が思うに、人に見せられるようなちゃんとした工事スケジュールなんて、彼らも持ってなかったんじゃないかな。100ミリオンドルを超える規模のプロジェクトがマスタースケジュール無しでスタートするなんて、俺には信じられないよ。」
アパートに戻ると、小型ラジオのスイッチを入れてジャズのFM局に合わせました。ベッドルームが二つ、バスルームも二つあるのですが、家具は今のところこのラジオと小さなランプ、それに自分用のマットレスのみです。これらをリビングルームの片隅に集中させ、限られたエリア内でひっそり暮らしています。妻子とともに生活を始めるまで、あと2ヶ月。それまでこの仕事、続くのだろうか?今日は会議の後、とうとう一度もマイクが話しかけてこなかったけど、これで本当に良かったのだろうか。ひょっとして、彼に愛想を尽かされたのかな。何ともいえない不安を抱えながら、眠りについたのでした。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
「アグレッシブさに欠ける」
返信削除とはまさに自分に言われているようです。ブルドーザーみたいに一直線に突き進む人を見ると羨ましく思う反面、逆に今回のように一歩引いて一策講じる方がうまくいく場合も往々にしてありますね。
それにしても、行き詰ったときには美貌という理論では説明できない武器を使うとは考えましたね。不細工だと逆効果になりそうですね。
姑息な手段でしたが、他に良い案が浮かばなかったんです。あぶないところで美貌に救われました。そんな切り札が手近にあって、ホントに良かったです。
返信削除