2010年7月17日土曜日

アメリカで武者修行 第16話 とにかく強く押し返すのよ。

鳥の巣ひとつで工事がストップするという事態は、日本で都市開発に携わっていた頃に何度も見聞きして来た話です。彼らがいつどこで巣を作るかなんて、我々人間の力の及ぶところではなく、プロジェクト担当者にはなす術がありません。地震や雷にあったようなもので、運が悪かったと諦めるしかないのです。それでもどういう訳か私の担当プロジェクトだけは、いつもこの「天災」を免れて来ました。なのに今、はるばるアメリカにまでやって来て、しかもよりによってこんなタイミングで経験させられるとは。日本で運を使い果たしちゃったのかなあ、とため息が出ました。

気を取り直し、ティルゾに頼みます。
「すぐミシェルに伝えてくれない?知恵を集めて対策を練って欲しいんだ。州政府の担当者に聞けば前例を教えてくれるんじゃないかな。」
「分かった。さっそく当たってみる。」
「土質調査会社には、まだこのことを伝えないでくれるかな。今、彼らとはややこしいことになっててね。」
「ミシェルに釘を刺しておくよ。」

さて、ミシェルやティルゾが対策を練っている間に、こちらは急いで土質調査会社への手紙を仕上げなければなりません。とうとう相手のトップが抗議文を送りつけて来たのです。いわば最後通牒。これは担当者どうしのやり取りとは訳が違います。私は過激な表現を避けて丁寧に原稿を書き上げ、リンダに手渡しました。赤ペンを握ってさらっと目を通した彼女は、朱を入れるまでもないと言わんばかりにこれを突き返し、
「駄目よ、こんなの。」
と薄笑いを浮かべました。
「何なの、これ?ご不満は理解している?短期間に何度もJVの担当者が変わったため、コミュニケーションがうまく行かなかった点は認めるですって?あなた、何考えてるの?前にも言ったわよね、絶対にこんな甘いことを書いちゃ駄目。訴訟になった時つけこまれるでしょ。とにかく強く押し返すのよ。」

そうだった、日本流の「和の精神」は通用しないんだった。さっそく彼女の指導を受け、全面的に書き直しました。
「これは一括請負の業務である。会議にどれくらい時間を使おうが知ったことではない。おたくはリスクを承知で契約書にサインしたはずだ。このプロジェクトに参加している企業はすべて、皆おたくと同じ条件でやっている。予定通り仕事を続けるように。」
マイクにこれを見せると、「うん、いいね」と一発サインでした。

昼休みになり、近所の中華料理屋へ出かけて豚チャーハンを買い、職場の食堂に戻りました。既に食事を始めていた同僚たち数人と談笑しているうちに、私の一時帰国の話になりました。
「今度一週間だけ休みを取って、家族に会いに行くんだ。」
「へえ。ミシガンに帰るの?」
「いや、ミシガンのはワイフの実家なんだ。日本に帰るんだよ。」
「ふ〜ん。」
こんな時、職場の誰一人としてそこから話を膨らませようとはしません。日本について何か質問するとか、自分の知っている日本語や日本文化について話すとか、何か無いの?とその度に微かな不満を覚えたものでした。自分がどんなに日本人であることを意識したところで、周りは全くそんなことに興味がない。このことに慣れるのには随分時間がかかりました。

生まれ育った国を30代後半で飛び出し、アメリカで会社勤めをするなどということは、一世一代の冒険だと思っていました。誇りにすら感じていたのです。そんな過剰な自意識に冷や水を浴びせたのは、ちょっと前に何人かの同僚と交わした会話でした。総務経理担当のシェインは中国出身ですが、両親を含め親戚のほぼ全員が文化大革命で社会的に抹殺され、過酷な思春期を送ったそうです(詳しい事情はあえて聞きませんでしたが)。スイス出身のオットーは南アフリカで長く暮らしていたそうですが、治安が悪化し、動乱のさなかに脱出してアメリカに辿り着いたのだとか。国を出る間際には車を止められ、こめかみに銃を突きつけられたと語っていました。極めつけは、ベトナム出身の男性社員。70年代後半、社会主義化が進む中、迫害を恐れた人たちが小舟で国を脱出するいわゆる「ボート・ピープル」が何十万人もいましたが、彼もその一人だったのです。十人用のボートに50人以上乗り込み、何十日もかけてはるばるアメリカまで流れ着いたのだそうです。 新天地で十年間必死に働き、ずっと待たせていた婚約者をベトナムから呼び寄せてめでたく結婚したんだ、と明るく語ってくれました。

戦争もなく治安も良い国で青春時代を過ごし、バブル景気に浮かれ騒いだことさえある我が身を顧みて、密かに恥じ入りました。もう二度と自分の渡米を「冒険」などとは飾り立てまいと心に誓うと同時に、世の中には信じ難いほどの苦難を経て来た人が星の数ほどいるのだということに、畏怖に近い敬意を覚えたのでした。

夕方になり、午後中続いていた会議からティルゾとミシェルが戻って来ました。ティルゾのキュービクルを訪ねます。
「鳥の巣の件、どうなった?」
「ああシンスケ、これを見てくれよ。」
彼は連邦政府の開発許可書を広げ、黄色い蛍光ペンで塗りつぶされた段落を指差しました。
「カリフォルニアナットキャッチャーの巣が確認された場所を含む緑地の外輪部では、騒音レベルを60デシベル未満に抑えなければならないんだ。ミシェルが確認したら、最近の掘削機は静かなもんで、そもそもそんなレベルの音は出ないらしい。更に調べを進めてみたら、現場はこのへんじゃ一番交通量の多い道路脇なんだな。日中の騒音は常に70デシベルを超えていると来た。」
「そんな騒々しい場所で巣作りを始めたってわけ?」
「そうなんだ。鳥さんの方はおかまい無しさ。問題は、そういう状況でも騒音対策を講じる必要があるのかってことだ。午後中かけて議論したんだが、対策なしで調査を進めても良いという州政府のお墨付きを、誰も引き出すことが出来なかった。仕方なく、防音壁で掘削機を囲んで作業してもらうことにしたよ。」
「車の騒音の方が大きいのに?防音壁に何の意味があるの?」
ティルゾが笑いました。
「それこそお役所仕事というやつさ。すべてルールブック通りに進めないと不安でたまらないんだよ、あの人達は。まあ何はともあれ、これで調査を進めることが出来るんだ。良しとしなきゃ。」

その晩、土質調査会社のバリーとeメールで何度かやり取りし、翌週水曜から掘削を開始することで、遂に合意が得られたのでした。

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