2010年7月11日日曜日

アメリカで武者修行 第15話 巣作りを始めちゃったよ。

月曜の午後、一人の紳士がオフィスに現れました。イタリア系白人。贅肉のない長身に乱れのない銀髪。糊の利いた白シャツにエンジ色のレジメンタルタイ、プレス機から出て来たばかりだと言わんばかりに鋭い折り目のついた、紺のスラックス。完璧に磨かれ、嫌味なほど光る黒い靴。まるでビジネスウィーク誌の表紙から抜け出て来たような、いかにもアメリカ企業の重役。これはニューヨークからやってきたクレイグに違いない、と私が自己紹介をすると、握手をしながら 、
「組織図を送ってくれたのは君だね。有難う。」

名前を憶えていたことに驚愕して思わず顔を見上げると、彼の眉間には二本の縦じわが深く走っており、鼻から下だけで笑っています。まるで鋭利な刃物のような威圧感を漂わせて。

翌日の午後、マイクがスタッフ全員を会議室に集め、新しいボスを紹介しました。クレイグ自身も十分ほど自己紹介をしたのですが、子供が五人いて一番下の子が大学を卒業したばかりだとか、以前からずっとこのプロジェクトへの参加を希望していたが些事に忙殺されずっと果たせなかったとか、ワイフが今度の週末に合流するとか、そんな話ばかり。自分の肩書きにも、自己紹介の核心であるはずの「これから何をするのか」にも、結局最後まで触れませんでした。色褪せた紺のポロシャツ姿のマイクはその間ずっと、壁にもたれて貧乏ゆすりをしながら俯いていました。いかにもエグゼクティブタイプのクレイグの隣で、巨漢ゆえの猫背も手伝って、まるで叱られてふてくされている子供のように見えました。

「何か質問はありますか?」
と皆を見渡すクレイグ。製図チームのグレッグがさっと手を挙げ、おどけた調子で尋ねました。
「名前はクレイグでしたっけ?それともグレッグ?今の事務所にはうんざりするほどグレッグがいるんで、間違えないよう、はっきり聞いとかなきゃと思ってね。ちなみに俺はグレッグだけど。」
会議室のそこここから、ためらいがちな乾いた笑いが漏れました。新しいボスは眉一つ動かさず、平板な声で答えました。
「クレイグです。」
そして一瞬の静寂の後、マイクがのっそりと壁から身を起こしてパンと手を叩き、
「さ、仕事にかかろうぜ。」
とそっけなく皆を解散させました。

それからマイクは、ナンバー2のグレッグを伴ってクレイグと会議室にこもりました。スタートからわずか数ヶ月でプロジェクトの手綱を手放さなければならないなんて、屈辱的な話です。さぞかし悔しい思いをしているだろう、とその胸中を案じながら仕事を続けました。ケヴィンが話しかけて来ます。
「シンスケ、そういえば来月末に日本へ帰るって言ってたよな。」
「うん、一週間だけね。ミシガンにいる家族とロサンゼルスで合流して一緒に行くんだよ。」
「そいつは楽しみだな。それまで首を切られないよう祈ろうぜ。」
「ああ、まったくだ。無職で里帰りなんて、悲惨過ぎるよ。」

その後、一時間に一度くらいのペースでマイクが部屋に戻って来ました。5分ほどかけてeメールやボイスメッセージのチェックを済ませた後、再び会議室に向かいます。驚くべきは、この日の午後彼の身に起こった変化でした。会議室から戻る度、何か強いビタミン剤を打ち込まれて来たかのように生気を得て、顔には笑みが戻り、盛んに冗談を飛ばすようになったのです。まるで、長年の持病だった偏頭痛から生まれて初めて解放された人のようでした。ケヴィンが、あれを見たか、と目配せした後、
「どういうことだろうな。」
と首を傾げました。トップ会議で一体何が決まったのか、この日は遂に分かりませんでした。

翌朝、座席表の改訂版をシェインが配布して回りました。
「さあみんな、席替えよ。お昼までには新しい席へ移ってね。」
私とケヴィンはそれぞれキュービクルへ移動し、マイクはグレッグとの同居に逆戻り。三人で使っていたマイクのオフィスはクレイグ専用のオフィスに変わりました。新しいボスが一部屋まるまる独占するため、ところてん式に皆を押し出したという訳か、と思いながらよくよく座席表を見直すと、そこには慎重にレイアウトを検討した後が窺えます。私のキュービクルはリンダとフィルに挟まれており、契約関係を司るラインが出来ています。総務・経理担当のシェインはマイクやグレッグの部屋の隣りに移りました。これまでは空いた場所を早い者勝ちで占拠するというパターンで席が決まっていたため、業務効率が良いとは言えませんでした。さすがにはるばるニューヨークから呼ばれただけあって、細かいところから着実に改革を始めてるな、と密かに感心しました。

木曜の朝、隣のキュービクルからリンダが仕切り壁を回ってやって来ました。
「昨日の晩頼んだORGへのクレームレター、できてる?」
「ええ、原稿はほぼ完成です。ところで、こういう文書の差し出し人はクレイグになるんですよね。」
「そうよ。今後ORGへの文書はすべて彼がサインするの。」
「肩書きはプロジェクトマネジャーでいいんですか?」
「いいえ。プロジェクトマネジャーはマイクのままなの。クレイグの肩書きはプロジェクトディレクターよ。」
「ディレクター?それじゃ、マイクは今のままの仕事を続けられるんですか?」
「そういうことね。技術的な案件や下請け相手の決裁権は、これまで通りマイクにあるんですって。そのかわり、対ORGのような政治的な話は全てクレイグに任せることになったの。だからマイクは、プロジェクトの推進に集中出来るってわけ。」
「それは良かった。じゃ、マイクもあなたもサクラメントに帰ったりしないで済むんですね。」
「そうなの。本当に良かったわ。」
リンダが穏やかに微笑みました。

その後、ミシェルがやってきて言いました。
「土質調査の前捌きがほぼ終わったわよ。ORGに確認したんだけど、来週の火曜から掘り始めてもいいって。マイクにさっき報告したら、ほっとしてたわ。」
「良かった。やっとだね。いろいろ調整してくれて有り難う!苦労かけたね。」
ほっと胸を撫で下ろしたものの、これは束の間の休息でした。午後になって、マイク宛にこんな手紙が届いたのです。土質調査会社の社長からでした。
「調査のスケジュールがここまで延び延びになっているのは、我々の責任ではない。この数ヶ月、下請けとの調整やらおたく達との会議やらに膨大な人件費を使ってきた。これを支払ってくれるまでは一切仕事をしないからそのつもりでいてくれ。」
慌ててリンダにこれを見せると、顔色一つ変えずに言いました。
「30分以内に返事を書きなさい。マイクのサインを貰ったらすぐファックスして、オリジナルは後から郵便で送ればいいわ。」
「でも、なんて書けばいいんです?」
「決まってるでしょ。文句を言わずに仕事をしろと書くのよ。」
さっそく原稿に取りかかったのですが、リンダの言う通りにはどうしても書けません。頭を抱えていたところ、環境保全担当のティルゾが私のキュービクルへ飛び込んで来ました。
「シンスケ、やっかいなことになったぞ。カリフォルニア・ナットキャッチャーが土質調査ポイントのすぐ近くに飛んできて巣作りを始めちゃったよ。」
カリフォルニア・ナットキャッチャーというのは、保護対象種の渡り鳥です。
「ええっ?ということは?」
「ということはだね、彼等が再び渡りを開始する9月末までは、実質的に騒音を出せないってことなんだ。つまり、土質調査どころか、全ての工事に待ったがかかるかもしれないんだよ。」

2 件のコメント:

  1. 渡り鳥で工事がストップというはすごいですね。でも、たしかに日本でトキが巣作りしたら同じことになるかも。一大事なのかもしれませんが、あまりにも想定外の流れで、笑ってしまいました。

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  2. 当事者は大慌てでも、傍から見ると滑稽なことってありますよね。まさにそんな状況でした。

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