2011年1月16日日曜日

アメリカで武者修行 第33話 我らの世界へようこそ

プロジェクトコントロール部門の主要業務は、全米で進行中のプロジェクト約7千件のうち、リスクレベルの高いものを選んでその経営状態を毎月監視するというものです。リスクレベルは受注額や契約形態等を考慮して3段階に分けられ、従来は最高位の「レベル3」プロジェクト約30件のモニターを実施していました。私はその電話会議に毎回同席して学びつつ、6月からは一段下の「レベル2」プロジェクトのうち、北米西部エリアのレビューを単独で任されることになりました。

まずはエリカが用意したリストの中から候補となるプロジェクトを選出し、プロジェクトマネジャー達に、
「あなたのプロジェクトが監視対象に選ばれました。」
というメールを送りつけます。次にイントラネット上のレポート様式に各種データを記入してもらい、毎月一度、電話でのヒアリングをセット。コストの予算超過、スケジュールの遅れなどを早期に発見してその原因を究明し、解決策の助言や上層部への報告等を行います。北米西部と言われて西海岸だけをイメージしていたのですが、会議の相手は西はハワイ、東はミシガンと全米各地に分布していて、時差は合わせて6時間。壁に貼った北米地図を眺めながら、先方が今何時なのかいちいち確認しなければなりません。

今度の仕事の最もやっかいなポイントは、見たことも話したこともない、そしてこれからおそらく一生会うこともないであろう人達と、電話で会議をしなければならないことです。表情や身振り手振りが見えない分、言語のみによる高いコミュニケーション能力が要求されます。馴染みの薄い分野、例えば地下水浄化とか老朽プラント破壊プロジェクトなどになると、会議は初耳の単語で埋め尽くされ、あまりの意味不明さで途方に暮れます。何を質問して良いのかさえ分からない。日本でも、異動して新しい仕事につくたび似たような思いを味わったものですが、そこに電話会議、さらに英語という要素が加わってくると、厳しさも倍増です。

こうして、おぼつかない足取りながら新しい仕事をこなし始めた私ですが、実は未だに高速道路設計プロジェクトの泥沼から足を洗えていません。成果品の承認がなかなか下りず、仕事はまだまだ続きそうだというのに、直属の上司だったリンダは6月、トップのクラウディオは7月に転職してしまい、気がつくと私は数少ない残党の一人となっていました。

さて、少しさかのぼって5月中旬のこと。ジョージに呼ばれて彼のオフィスに行ったところ、
「これから七週間ほど休む。暫く後を頼むぞ。」
と告げられました。彼は今年68歳。以前からパートタイム勤務をほのめかしていたので驚きはしませんでしたが、簡単に「頼む」と言われても困ります。
「戻られたらまたプロジェクトを指揮なさるんですか?」
と尋ねると、
「知らんよ。この休みだって私の決めたことじゃない。役員会の意思だ。彼らに聞いてくれ。」
と仏頂面。上層部が「これ以上このプロジェクトに金を使うな」と人員削減に走っていることは聞いていましたが、まさかプロジェクトマネジャーの彼までそういう目に遭うとは思ってもみませんでした。
「今月のレベル3会議では誰が報告するんですか?」
前月の電話会議では、内角を抉るような厳しい質問を事も無げに打ち返す、老司令官ジョージの威風に惚れ惚れさせられました。まさか今回私に代理を頼んだりしないよな、と怯えていたところ、
「担当役員のホフマンにピンチヒッターを頼んでおく。先月のレポートに赤を入れておいたから、今月用に仕上げて彼に送っておいてくれ。」
と言われて安心しました。

そしていよいよ、レベル3会議の本番。ウィスコンシンから電話会議を仕切るアルが出席者(15人ほど)の確認をしていた際、ホフマンの声が聞こえないことに気付きました。みな暫く世間話で場を繋いでいたのですが、そのうち沈黙が訪れました。エドが
「ホフマンは本当に出席するのか?」
と囁くので、
「会議日程と説明資料の確認をした時は、欠席なんて言ってなかったですよ。」
と答えました。電話の向こうで、西海岸全域を統括する副社長のデビーが、
「一体誰がレポートするのよ?」
と険のある声で問いかけ、電話会議の空間が水を打ったように静まり返りました。どうやらホフマンが逃げたらしいことを覚った瞬間、妙な胸騒ぎが走りました。次の瞬間、あろうことかボスのエドが、「大丈夫だな?やれるな?」と私に目配せしながら、
「このプロジェクトのことを分かっているのはシンスケだけです。彼に説明してもらいましょう。」
と答えたのです。「やれます」なんて合図は一瞬だって返さなかったのに…。それまで経営陣と同じ立場でヒアリングに臨んでいた私が突然両脇を抱えられ、力ずくでお白洲に引きずり下ろされた格好になりました。混乱する頭を鎮めながらおずおずと説明を開始した私に、
「声が小さいわよ。もっと電話の近くに寄りなさい!」
とデビーの一喝。こうなったらヤケだ、と腹式発声に切り替え、ゆっくりとレポートを読み上げました。その後一分ほどは無事に進んだのですが、コスト予測の段になって突然デビーが激昂します。
「何ですって?もう一度言ってみなさい!」
「ですから、先月のコスト予測から更に5千ドル増え…。」
「ちょっと待ちなさい。最終コスト予測を変更して良いなんて誰が言ったの?これ以上一セントたりとも増やせないことくらい分かってるでしょう!あんた達が毎月何に金を使ってるのか知らないけど、払いたかったら自腹で払いなさい、自腹で!」

言葉を失いました。確かジョージの話では、この件に関してデビーの了解は取ってあったはずなのに…。エドの顔を見ると、眉間にしわを寄せてはいるものの、助け舟を出してくれる気配はありません。仕切り役のアルが、
「デビー、シンスケを責めるのはフェアじゃないよ。彼はプロジェクトマネジャーじゃないんだから。」
と収めてくれたので助かりましたが、久しぶりに嫌な汗をかきました。

長い休暇からジョージが戻ったのは7月も中旬。張りのある大声で握手を求めながら私のキュービクルに入ってきました。7週間で3千マイルも走ったぞ、と日焼けした顔で愉快そうに笑いながら、50年ぶりに出席した高校同窓会の話などを披露してくれました。私がレベル3会議の報告をすると、
「そうか、それは災難だったな。」
と言いながら、その実あまり気の毒に思っている風もなく、
「ま、我らの世界へようこそ、というところだな。」
ともう一度笑いました。
「考えても見ろ、経営陣は月一回、10分間だけ報告を受けてすべてを判断しようとしてるんだ。細かいことなど覚えていられないし、プロジェクトごとの複雑な背景なんて永遠に理解できんよ。君もこれからそういうことに何度も出くわすことだろう。いい経験だよ。」

そして、何でも大抵そうなのですが、3ヶ月も経つとだいぶ楽になりました。7月にヴァージニア州リッチモンドで催されたファイナンス部門・プロジェクトデリバリー部門連絡会議に出席したことも、随分助けになりました。それまで電話だけで連絡を取り合ってきた同僚達との初顔合わせがあったからです。私はたまたま西海岸のサンディエゴでエドに雇われたものの、彼の上司のクリスは東海岸のヴァージニア、その上司のアルはウィスコンシンと、所属は同じでも働く場所はさまざま。北米東部担当の同僚はほとんどリッチモンドにいて、当日までずっと顔を知らずにいたのです。
「やっと会えたね。初めまして。」
と握手しながら、長いことその声を聞き慣れていた声優さんを初めてテレビで目にした時と同じような感興を覚えました。勝手に何となく巨漢を想像していたら、実際は痩せた小男だったりして。

ファイナンス部門から連絡会議に参加していたボブは、西海岸エリアの財務を統括していて、レベル3会議で私を怒鳴りつけたデビーの直属の部下です。彼とエドと三人、地元のステーキ屋に繰り出した際、デビーの話題になりました。
「いやあ、俺もあれほど感情の起伏が激しい上司に仕えるのは初めてだよ。その前の上司が感情を全く表に出さない人だったから、切り替えが難しくってねえ。」
と笑うボブに、好奇心にかられこう聞いてみました。
「デビーって、一体どういう外見をしてるんですか?」
すると彼は急に神妙な顔になり、
「全部の歯が恐ろしくデカくてね、しかも鋭く尖っていて、顔を見た人はみんな一瞬で石になっちゃうんだよ。」
と答えました。一瞬の沈黙の後、エドとボブが同時に吹き出しました。そして3人で腹を抱えて笑いました。デビーとの対面が、とても楽しみになりました。

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