2011年3月6日日曜日

アメリカで武者修行 第34話 それこそが職の保証なんだよ

プロジェクトコントロールの仕事を始めて一週間。ボスのエドが私のコンピュータに、Primavera (プリマベーラ)というスケジュール作成ソフトをインストールしました。
「ロングビーチ本社の連中が、オレンジ郡の仕事を獲ろうとしてるんだ。新規開拓だからあまり高い勝率は見込めないんだが、そのためにわざわざウィスコンシンから熟練PMを引き抜いて来たくらいだから、かなり本気みたいだ。二週間後に、一本目のプロジェクト獲得に向けたプロポーザルの締め切りがある。俺にスケジュール作成の依頼が来たんだが、別件で忙しいんで、君に任せることにした。大至急プリマベーラをマスターして取り組んでくれ。」
「締め切りまでたった二週間しかないんですか?」
プリマベーラなんてソフトは使ったことが無いし、大体私はまだスケジューリングのイロハを学んでいません。
「どこかで短期集中トレーニングを受けるとか出来ませんか?」
エドは愉快そうに顔をほころばせながら、こう答えました。
「OJT(オー・ジェイ・ティー)という言葉は知ってるよな。」
「On-the-job training (オン・ザ・ジョブ・トレーニング)ですか?」
「その通り。仕事をしながら体得する。俺もそうやってこいつを学んだんだ。締め切りのある仕事に取り組むのが、一番効率的な学習法なんだよ。」

こんな大事な任務を、ど素人の私に任せて良いのだろうか。いや、私が素人だなんてこと、エドは知らないんだった。彼との面接では、自分の能力を極限まで誇張して売り込んじゃったからなあ…。
「これがRFP(リクエスト・フォー・プロポーザル)だ。まずこいつを読んでプロジェクトの内容を理解してくれ。それからこっちが、プリマベーラのマニュアル。」
と、エドが電話帳ほども厚みのある書類を二冊、ドサッと机に置きました。
「ま、そうは言っても残念ながら、マニュアルとにらめっこしてる時間なんか無い。最初のうちは、俺にどんどん質問しながら学んでくれ。」

プリマベーラというのは、この業界のスケジューリング・ツールとしては王者の地位に君臨していて、マイクロソフト社の「プロジェクト」を自転車とすれば、最新鋭の戦車に喩える人もいるくらいの怪物プログラムです。こんな短期間で習得出来るとはとても思えません。しかし今回のRFPには、このソフトで作ったスケジュールを提出するよう、明確に指示されているのです。

さっそく盟友ケヴィンの部屋へ行き、私の苦境を吐露しました。このポジションを獲得するために、面接で目一杯頑張って有能なふりをしちゃったけど、意外に早く馬脚を露してしまいそうだ、と泣き言を言う私を、ケヴィンはあっさりと突き放しました。
「プリマベーラか。悪名高いプログラムだな。俺も何度か挑戦したけど、あのソフトは滅茶苦茶使いにくいよ。残念だけど、俺には何もしてやれないな。」

失業の瀬戸際でやっと手にした仕事です。早々にしくじってエドの信頼を失いたくはありません。これはもう腹を決めて取り組むしかない。翌日から、深夜残業がスタートしました。スケジュールの草案は、ケヴィンの隣の部屋で働くインド人の工学博士、サディアが作成します。彼が横長の白い紙に、タスクリストとバーチャートを手書きで構築して行き、これを私が片っ端からコンピュータ上に再生していく段取り。ところが、まず何から始めたら良いのか見当がつかない。マニュアルを読んでもちんぷんかんぷんです。仕方ないので夜のうちに質問を箇条書きにしておき、翌朝一番エドをつかまえてひとつずつ解説してもらうことにしました。

ところが、三日たっても四日たっても、一向にスケジュール作成に取り掛かれません。いつまで経ってもソフトの仕組みが飲み込めないのです。原因ははっきりしています。ユーザーインターフェイスのデザインが劣悪で、ドロップダウンメニューのひとつひとつが一体どんな仕事をしてくれるのか、直感的に理解出来ないのです。マイクロソフトのソフトであれば「ファイル」と呼ぶべきところを「ユーティリティ」と表現していたりして、頭を切り替えるのに時間がかかるのです。まるで何重にも暗号をかけられた高性能時限爆弾と格闘する、爆発物処理班の気分。堂々巡りをさんざん繰り返した挙句、夜中にひとり、ガランとした暗いオフィスに怒りの雄叫びをこだまさせる日々が続きました。

金曜の夕刻、帰り支度を始めたエドを訪ね、月曜朝一番の面会をお願いしました。彼が快諾してバッグを肩に担いだところで、遂に堰が切れました。あろうことか、溜まりに溜まった憤懣を、彼に向かって爆発させてしまったのです。
「エド、このソフトを開発した人たちは、よほどの偏屈者でしょうね。底意地の悪い人間がよってたかって、出来るだけ使いにくい製品を作ろうと最善を尽くしたとしか思えませんよ。ユーザー・フレンドリーなデザインにしようと努力した形跡なんか、ひとかけらも無い。はっきり言って、私はこのソフトが大嫌いです。最低最悪のプログラムだと思いますよ。」

まるでそういう恨み言を聞かされるのを初めから分かっていたとでも言うように、エドがニコニコ笑ってこちらを見つめています。そして私が臓腑に蓄積した毒を一滴残らず吐き終えるのを待って、ゆっくりと口を開きました。
「いいかシンスケ、それこそがジョブ・セキュリティ(職の保証)なんだよ。そうは思わないか?もしもプリマベーラがユーザー・フレンドリーで、誰にでもスイスイ動かせたとしたら、俺達スケジュラーの大半はたちまち失職だ。もしも使いにくい機能に出会ったら、そのたびに心の中でサンキューと唱えるべきなんだよ。それをひとつマスターする毎に、業界での君の価値は確実に一段階アップしているわけだからな。」

しばらくの間、呆然と立ちすくんでしまいました。過去二年間、ひたすら職の安定を求め続けて来た私。探していた答えが目の前に差し出されていたというのに、全く見えていなかったとは…。取り乱してしまったことを丁寧に詫び、彼を見送ってから自分のキュービクルに戻りました。そして大きく深呼吸してから、コンピュータに向かいます。素晴らしい上司に出会えた幸運を、ひっそりと噛み締めながら。

2 件のコメント:

  1. ひさしぶりにコメントします。いやぁ、素晴らしい上司の方ですね。呼んでるこちらがゾクゾクしました。そんなふうに道を示してくれる方に出会えていることが羨ましいです。
    久々にまた会いたいですね。そろそろシンスケ欠乏症になりかけてます(笑)。日本のGWあたりは忙しいですか?

    返信削除
  2. 野田さん、

    コメント有難うございます。「上司は選べない」とよく言われますが、本当にこれだけは運だと思います。

    次回の帰国は来年を予定しています。サンディエゴに遊びに来てくれたら嬉しいです。GWに是非!

    返信削除