2012年5月26日土曜日

愛、悪意エス

つい最近、遅ればせながら、スティーブ・ジョブズの伝記CD版を通勤の車中で聴き終わりました。著者のウォルター・アイザクソンは、ジョブズ自身のご指名でこの大仕事に取り組んだそうで、その語り口はまさに名人芸。前作の「アインシュタイン」でも伝記作家としての手腕は実証済みですが、とにかくぐいぐい引き込まれます。特に、ジョブズの異常なほどのデザインへのこだわりや、製品や自分の会社に対する深い愛情の描写が素晴らしい。

CD19枚目に、iPhone 4の発売直後に受信不良の問題が発生し、窮地に追い込まれるエピソードが出てきます。ハワイで家族とバカンス中だったジョブズが事態の深刻さを悟った時、カリフォルニアに戻る決意をします。彼は息子に、自分について来いと言います。何故か?この時のエピソードには胸が詰まりました。今思い出しても鳥肌立ちます。

この本の本当にスゴいところは、彼のどす黒い一面、「人間として失格なんじゃないの?」と眉をひそめてしまうようなエピソードさえも赤裸々に描かれている点。子供に読ませたい「英雄伝」とは全く異なる代物なのです。しかし、逆にそういう「嫌な野郎」の臭いをふりまくことによって、ジョブズの人物像が立体感を増すのですね。

作品中、何度も登場する表現に、「彼らはアクイエスした」というのがあります。それも、決まって激しい論争の後に使われます。ジョブズは苛烈な性格の持ち主で、気に入らない相手はそれが誰であろうと、瞬きもせずに睨みつけ、完膚なきまでに打ちのめそうとします。同僚ばかりか取締役会のメンバーですらも、ジョブズの横暴さにむかっ腹を立てつつ、遂には折れてしまう。この時、「彼らはアクイエスした。」というフレーズが出てくるのです。

総務のトレイシーに意味を聞いてみました。
「心から同意してはいないけど譲歩する、という時に使うわね。」
そうして両手を広げ、微かに首をすくめて諦めの表情を浮かべ、
「あい、あくいえす。」
と言いました。イントネーションは、
「愛、悪意エス」
です。続いて経理のジョスリンにも同じ質問を投げます。すると彼女もやっぱり同じ説明をしたあと、
「愛、悪意エス」
と首をすくめて目玉をぐるっと回しました。同僚シャノンに綴りを尋ねたところ、少し顔を赤らめて、
「私、その単語知らないわ。」
と答えました。ウェブ辞典で一緒に調べてみたら、

Acquiesce

というスペルでした。

“I acquiesce.”
「言う通りにするよ。」

ジョブズの情熱、そして凝視と罵声に圧倒され、不本意ながら譲歩する人々の内心が、この言葉に滲んでいるような気がするのでした。

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