一月も終盤、ジョージから厳しい宣告が下りました。
「君の食い扶持は二月一杯で底をつく。それまでに次の仕事を見つけた方がいい。」
いよいよ俵に足がかかりました。過去数ヶ月の間に履歴書を送りつけてあった複数の支社からは、
「次のプロジェクトが取れれば、契約担当の人間が必要になる。是非来て欲しい。」
と声がかかっていたのですが、結局どのプロジェクトも受注に失敗し、すっかりあてが外れました。「失職」という名の滝壺に向かって激流を下りながら、何とかどこかの岸に筏をつけようともがく毎日。皮肉なことに、ちょうどこの頃から急激に忙しさが増します。かねてからの懸案だった元請け(ORG)に対する損害賠償請求に向け、いよいよ本格的に行動を開始したのです。これまでも小額のクレームは度々起こして来ましたが、今回のはメガトン級。日本円にして数億の規模になる予定で、事実上の宣戦布告です。ディレクターのクラウディオからは、
「クレーム文書が完成するまでは、同じオフィス内で働くORGの面々に勘付かれぬように。」
との指示が出ました。慎重に、しかし激しい怒りをこめて、日夜文書作成に精を出しました。これは、いわば復讐戦です。私が職探しに苦しんでいるのも、元はと言えばORGの理不尽な下請けイジメが原因なのですから。
そもそも我々の契約書には、州政府が自ら作成した基本設計をベースに詳細設計せよ、と明確に書かれています。ところが、二年前の6月にORG経由で手渡された基本設計は、欠陥だらけの未完成品でした。例えば合流部のひとつ。カーブしながら合流する二つの道路がそれぞれの勾配を維持したまま交わるため、その接合部が尾根を形成してしまい、流入する車が跳ね上がってしまうデザインになっていました。プロジェクト初期から参加しているメンバー達に言わせれば、「屑同然」の基本設計だったそうです。ところが何を思ったかORGは、
「この基本設計を手直しして早急に州の承認を得るんだ!」
と設計チームの尻を叩き始めたのです。基本設計の欠陥は、明らかに作成者である州政府の落ち度です。本来ならこの時点でブレーキをかけて仕切り直すべきところですが、州政府とまともに事を構えればスケジュールが大幅に遅れることは確実。それよりは早く問題を処理し先に進んだ方が得策、というのがORGの腹だったのでしょう。もちろん我々も数週間でケリをつけるつもりだったし、報酬もきちんと支払われるという前提で走り始めました。しかし、それが地獄の入り口でした。
設計施工一体型プロジェクトの最大の特徴は、施工者が設計を変えられるという点です。極端な場合、施工者の圧力によってまさかと思うほどチープな代物を設計させることも可能なのです。特に一定額で請負契約をした場合、施工者は出来る限り安く仕上げて利益を最大化しようとします。しかし公共事業の場合、設計は各種の厳しい基準を満たさなければいけないので、安く上げるにも限度があります。自然とどこか中庸なところで落ち着くだろう、と誰もが考えるところですが、それは施工者が常識的なマネジメントをした場合の話です。
ORGのトップに座るジャンは、基準を無視してでも利益を上げようとすることで悪名高く、州政府と度々衝突してきました。自ら出席した住民説明会で承認された植栽計画も、後で計算したら膨大なコストがかかることが分かったため、
「植栽はやめて種子吹付けにする。設計をやり直せ。」
と真顔で指示して来ました。これは純然たる契約違反です。州政府の再三の警告にも耳を貸さず、安全基準や環境基準を無視して仕事を続けた結果、現場作業を二週間差し止められたこともありました。
二年前の9月、オリジナルの基本設計にあった欠陥を全て修復した我々の図面を受け取ったORGは、
「この道路形状だと工事費が高くなる。」
と、即やり直しを命じました。設計基準に沿うよう改善したものを逆方向に手直しするのですから、当然無理が生じます。
「ご指示に従って修正したが、安全性に問題があり、設計者としてはお勧めできません。」
と但し書き付きで提出しますが、ORGはこれを無視して州に届けます。予想通り、州は
「これじゃ事故だらけの高速道路になってしまう。何を考えてるんだ?」
と突き返します。するとORGは、
「どうなってるんだ。州に承認されるような設計をするのはお前らの務めだろう。」
と我々を怒鳴りつける。さらに基準を満たした図面を再提出すると、
「工事費がかかりすぎる!」
とまたつき返す。こんな繰り返しの末、基本設計が承認されたのは、なんとプロジェクト開始から一年後。設計費用は成果品ベースで支払われるため、我々JVは実に一年間もただ働きをさせられたのです。報酬要求を繰り返す我々に対し、ジャンは、
「お前らがボランティアでやったことだ。金なら払えん。」
と知らぬ顔を続けます。そればかりか、将来訴訟になった場合に備えてか、
「質の悪い設計ばかり提出され、大変迷惑している。」
という手紙を何通も送りつけてきました。挙句の果てに、数ヵ月後にスタートするはずだった有料道路区間の設計契約を一方的に破棄して我々を足蹴にし、自分の子飼いの設計会社に仕事を回したのです。
ここまで愚弄されれば、どんな善人だって堪忍袋の緒が切れようというもの。とりわけ、我々設計JVの参謀であるリンダの憤りは凄まじく、この件に触れた途端、毎回わなわなと震え出すほどでした。しかし、契約書に「正当な理由がなくてもいつでも破棄できる」という項目がある以上、我々の立場は圧倒的に不利なのです。元請けへの報復なんて、どんなにあがいても実現不可能な話に思えました。ところが1月最終週のある日、サクラメントの法律図書館に一週間こもって調査に没頭していたリンダが、
「これでジャンを叩き潰せるわよ!」
と顔を輝かせて戻って来ました。賠償要求の根拠に使える、絶好の判例を発見したとのこと。さっそく彼女がクレーム文案を練り、私は膨大なデータを集めて裏付け資料の作成にとりかかりました。
この時役に立ったのは、リンダが就任一ヶ月後に導入した「ドキュメント・コントロール・システム」です。それまでの文書管理は、紙ファイルに挟んだ書類をダンボール箱に保管してラベルを貼る、というのが一般的な手法でした。リンダはマイクを説得し、プロジェクトに関連する全ての文書をスキャンしてPDF化し保存するシステムを作り上げました。お陰で、裏づけ資料は驚くべきスピードで仕上がって行きました。もっとも、導入後しばらくはチームメンバーからの抵抗もありました。
「本当に重要な書類だけスキャンすればいいんじゃないの?」
と面倒臭がる者には、リンダが鷹のように舞い降りて来て、
「全ての文書よ。私が全てと言ったら、本当にスベテなのよ!」
とスゴみます。そのうち彼女に刃向かう者は消え、逆に文書検索の時間が劇的に短縮されたことへの感謝を述べる人が増えました。
さて、リンダと私の仕事が着々と進み、いよいよクレーム額の積み上げ作業を開始する手はずが整いました。オークランド支社から週3日やって来てプロジェクトコントロールを担当しているアーロンがそれに当たるはずだったのですが、彼が会社を辞めて台湾の実家に帰るというニュースが飛び込んで来ました。
アーロンは10歳ほど年下のエンジニアで、初めて会った頃、何故か常に上から見下ろすような言葉遣いで私の質問に答えていました。
「オーケー?分かったかい?分からないことがあったらちゃんと質問するんだよ。」
若作りの私は、こんな風に扱われるのは慣れっこなので、そのままやり過ごしていました。9月の私の誕生日、シェインが近くの中華料理屋で昼食会を開いてくれた際、私が40歳になったことを話すと、出席者一同「嘘だろ~!」どよめきます。その時、隣に座っていたアーロンが、誰の目にも明らかな程うろたえているのに気付きました。帰りの車中、
「ごめんね。僕、シンスケのこと、ずっと年下だと思ってた。」
と謝り続けるアーロン。これは新鮮でした。台湾人って、日本人と同じように年齢で上下関係が出来るのかな。僕らはアメリカにいるんだから関係ないのに、と可笑しくなりました。
そんな彼から私はプロジェクト・コントロールのイロハを学び、時には彼の作るレポートのためにデータを提供したりして、コンビといっても良いほど近い関係になっていたのです。
「アーロン、辞めちゃうって本当?」
「うん、そうなんだ。台湾へ帰るんだ。」
理由を尋ねても黙って微笑むだけなので、それ以上の追求は控えました。
「きっと燃え尽きちゃったんだよ。」
ケヴィンが後でコメントしていました。
「二年間も毎週飛行機で出張してりゃ、疲れて当然だ。この職種の宿命だよ。」
大事な時期に辞められ、お偉方はお冠でしたが、私にとっては望外のチャンス到来となりました。アーロンが、
「後任にはシンスケを推薦しておいたよ。」
と言ってくれたからです。私にとっては、次の仕事が決まるまでの絶好の繋ぎになります。この仕事で多少なりとも実績を積んでおけば、この先の就職活動のための強力な武器になるかもしれません。ジョージやクラウディオだって、外から人を連れて来るより内部の人間を使う方が効率がいいと思うに違いない、というのが一縷の望みでした。ところが、さっそく翌日ジョージに申し出てみると、
「いや、これは大事なクレームだから専門家じゃないと駄目だ。後釜はもう決めてある。」と軽く一蹴。
これで万策尽きました。俄然、失職が現実味を帯びて来ます。
二月も中盤になり、アーロンが最後の引継ぎにやって来ました。彼にジョージの決断を告げると、
「うん、聞いたよ。残念だったね。」
とため息をついてから、こう付け足しました。
「カリフォルニア中の僕の知り合いにシンスケを売り込んでおいたよ。さっそくだけど、サンディエゴ支社のエドがシンスケに興味あるって言ってたよ。会ってみたら?」
その日の午後のことでした。背後から名を呼ばれて振り向くと、私のキュービクルの前に見知らぬ男が立っていました。
「プロジェクトコントロールに興味があるんだって?アーロンから聞いたよ。うちで働く気あるかい?」
これがエドでした。
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いつもとても楽しく拝読しております。シンスケ様の勇気ある決断(40を前にアメリカで就職)に感動しています。これからもがんばってください。
返信削除コメント有難うございます。とても嬉しいです!これからもよろしくお願いします。
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