10月末のこと。次の職探しについてジョージに相談したところ、サンディエゴ支社にいる彼の同僚、ドンと会ってみるよう勧められました。ジョージと同じく70歳を悠に超える大ベテランのドンは、私を自分の特大オフィスに迎え、キャリアパスに関する示唆を二、三挙げた後、次の点を強調しました。
「君が何より先にやらなければならないのは、PE(プロフェッショナル・エンジニア)の取得だよ。PEはいわば切符だ。君は地下鉄の駅にいる。でも切符を持っていない。地下鉄に乗れないんだよ。まずは切符を買いたまえ。このままじゃ、隣の駅に行くにも歩かなくちゃならん。」
ひょっとしたら仕事を紹介してもらえるかもしれない、という甘い期待は見事に裏切られましたが、これは真摯に受け止めるべきアドバイスです。4月のPE試験に向けて気合を入れ直し、毎朝5時起きして受験勉強を続けました。同時に仕事探しも本格的に開始しましたが、なかなか先が見えません。世間で募集している職はほとんど「PE所持者に限る」という条件つき。そうでなければ、「製図ソフトが使える若手技術者求む」というもの。どちらにも該当しない私にとっては、実に苦しい戦いです。次に見つける仕事の場所によっては引越しも考えなければならず、ちょうどアパートの賃貸契約も1月で切れるため、大晦日までには何らかの決断をしなければなりません。じわりじわりとプレッシャーが増す毎日。
11月に入り、高速道路設計チームは「贅肉ゼロ」から「骨と皮」にまで人員をそぎ落としました。とうとう相棒のケヴィンまで、週3日勤務になってしまったのです。とは言え彼は、サンディエゴ支社に自分を売り込んだ結果、春から上水道業務を担当することが決まったので、今はその移行期間といったところ。ケヴィン以外には人脈のない私に彼は、
「サンディエゴ支社に行くたび、君を売り込んで来るよ。」
と約束してくれました。
設計プロジェクトは最終コーナーを回り、翌春には工事着工の運びになりました。当然ながら、土質調査や交通需要予測などの下請け業務はほぼ完了。私の仕事の重心は契約上の紛争処理などに移ってきました。ジョージは課題のリストと処理スケジュールを私に手渡し、頻繁に処理状況を確認するようになりました。2週間でリストの半分を解決した時、ジョージが親指を突き出して、
「やったな!」
と顔をほころばせました。私も親指を立てて笑顔を返しましたが、彼を満足させる度に自分の食い扶持が尽きて行くのだという現実を思い出すと、指先の反りも鈍ります。
それから暫くして、ジョージの姿を職場であまり見なくなりました。急用があって彼を探していた時、サンディエゴ支社のクリスが、
「彼の現場事務所勤務はパートタイムになったんだよ。」
と教えてくれました。コスト削減運動のリーダーがとうとう自分自身まで切ったということは、いよいよ私のクビも秒読み段階ということ。背筋が冷たくなりました。
11月末、元上司のマイクがイラクから戻ってきました。後釜のジョージでさえ片足抜いた状況ですから、当然マイクの戻る席などありません。この先どうするんだろうと皆で話していた矢先、リンダが意表を突いて十日間の大型連休を取り、マイクと二人でイタリア慰労旅行に出かけてしまいました。この情報を教えてくれたのはティルゾで、私は彼にこう尋ねずにいられませんでした。
「リンダはマイクと別れたんじゃなかったの?」
ティルゾはニヤリと笑った後、こう答えました。
「男と女の関係は、本人同士にしか分からないことがあるんだよ。」
帰国した彼女は、
「すっかり食べ過ぎちゃった。ダイエット再開しなきゃ。」
と、聞いているこちらが恥ずかしくなるほどのはしゃぎぶり。マイクの動向について尋ねてみたところ、とりあえずサクラメント支社に戻ったとのこと。
「イラクではストレスなく采配が揮える立場にいたみたいで、すごく満足して帰ってきたわ。軍関係に人脈も作ったし、その路線で次の仕事を探すんじゃないかしら。」
彼女自身は今後どうするのかという質問には、
「分からないわ。マイク次第ね。」
と完全復縁を匂わせる発言。
そんな折、7月に解雇されたカルヴァンが職場に戻ってきました。
「ヘイ、マイフレンド。元気だったか?」
過剰な人員削減の結果、最低限の仕事をするにも製図の専門家が足りなくなったようで、再び呼び戻されたというのです。あんな形で解雇されたのに、よく戻る気になったね、と尋ねると、
「前は契約社員だったんだ。真っ先にクビにされても文句が言えない立場だよ。今回は正社員として迎えられたんだ。条件が大幅に改善されたよ。」
「そりゃ良かった。ここ数ヶ月、昼休みのウォーキングを休んでたんだ。今日から再開だ。」
「オーケー、一緒に歩こうぜ。そう思ってウォーキングシューズを持ってきたよ。」
「準備がいいなあ。」
さて12月中旬のある日、PE試験の願書締め切りが迫って来たため、受験要綱を丹念に読み返していた私は、こんな文章に気付いて思わず目を疑いました。
「技術職経験として考慮されるのは、PEを持つ上司の下で働いた期間のみ。」
日本での14年間の現場経験が、「二年の技術職経験」という受験資格を楽々クリアしていると思い込んでいたので、これには愕然としました。しかも、
「契約業務は経験年数に加算できない。」
とまで書いてあります。つまり、今の職場でこれまでやってきた契約の仕事は、全く受験の助けにならないのです。今後この国で純粋な技術職を2年経験しなければPEを受験出来ないし、そもそもそのPEがなければまともな技術職には就けない。これじゃ、まったくの堂々巡りです。打ちひしがれた私は、ケヴィンに話しに行きました。
「何だって?受験要綱を見せてくれよ。」
と目を見開いてコピーを読み返していたケヴィンが、顔を上げて表情を曇らせました。
「これは俺の責任だ。申し訳ない。こんな厳しい条件があるなんて知らなかった。知ってればもっと早く手を打てたのに…。」
そんなわけで、PE受験は無期延期とするしかなくなりました。私はあまりのショックに呆然としながら、仕事探しの速度を上げなくっちゃな、と焦りを募らせていました。
翌日、まるでタイミングを計ったかのように、社長のダイアンから全社員に宛ててこんなEメールが届きました。
「イラク再建事業に参加する意思のある人は、年末までに履歴書を送って下さい。我が社は橋梁と上水道のプロジェクトに乗り出す予定です。米国にいたままでも出来る仕事はあります。現地勤務の意思がなければそう明記して下さい。そういう業務を充てることもあります。」
これには職場が一時騒然となりました。
「現場に一度も足を運ばず出来る仕事なんてあるのかね。この最後の文句はちょっと臭うな。」
とティルゾ。
「後になって、事情が変わった、現地へ飛んでくれ、というのはよくある話だよな。」
とケヴィン。
現地勤務さえなければ願ってもないチャンス。履歴書を出すだけ出してみようか、と妻に話しましたが、命を落とす可能性を考えると、さすがに二の足を踏みます。
数日後、ケヴィンが私のキュービクルにやって来ました。
「シンスケ、PMPって資格知ってるか?」
「いや、知らない。何それ?」
「プロジェクト・マネジメント・プロフェッショナルの略だよ。このところ、俺はずっと将来進むべき道について考えてた。このままいつまでも技術屋としてプロジェクトからプロジェクトへと渡り歩く人生は真っ平だ。今までの自分の経歴を考えると、プロジェクトマネジメントのコンサルタントを目指すという道も一案かなと思うんだ。シンスケだってPE取得を延期したところだろ。このPMPって資格を一緒に取ってみないか?」
何ヶ月も続けて来た受験勉強が突然ふいになり、エネルギーのやり場に困っていた私です。この資格取得の話は渡りに船。
「有難う、ケヴィン。職の安定に繋がるなら何だってやるよ。ウェブサイトのアドレス送ってくれる?」
これが人生の分かれ道になるとは、この時は想像もしていませんでした。
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