2017年6月26日月曜日

Wind you up あなたをワインドアップ

金曜の午後、久しぶりに生物学チームのジョナサンと会ったので、ひとしきり世間話をしました。三カ月前、大工仕事の得意な彼にお出まし願って一緒に作った我が家の花壇。今ではミニトマトが腰高まで生い茂り、今週から一日五個ペースで収穫出来るようになりました。

「甘くて美味しいんだけど、市販の物より皮が厚くて固いんだ。口の中に残る皮の感じがどうも後味を悪くして残念なんだよね。どうしたら皮の薄いソフトなトマトが出来るのかな。」

と質問する私に、即答するジョナサン。

「まずは品種を確かめた方がいいね。元々皮の厚い種類もあるから。でも一番の鍵は、水分量の調節だな。」

多すぎても少なすぎてもいけない、これはどうやら経験が物を言う世界らしいです。

「そうか、どんな環境条件を与えるかで皮の厚さが変わるってことだね。微妙だなあ…。人間にも、そういうとこあるよね。あ、そういえば、皮の厚さで思い出した!」

先週オンラインで受けたStandOut Assessment(スタンドアウト・アセスメント)という性格テストの結果、「プロバイダー」であり「ティーチャー」である、というカテゴリーにおさまった私。それ自体はふむふむな内容だったのですが、軽く引っかかったのが診断書の後半に付記されたアドバイスの一節。

“Because you are thin-skinned, other people can wind you up quite easily.”
「面の皮が薄いせいで、簡単にワインドアップされがちです。」

ん?ワインドアップ?野茂英雄や松坂大輔が走者を背にしていない時に見せるかっこいい投球フォームのことか?でもこれは他動詞だから、「巻き上げる」となるよな。「簡単に巻き上げられがち」、と。気弱な中学生が校舎の陰でカツアゲの餌食になるシーンが想像されますが、それだとこの文脈と合わないし…。

「おちょくられる、とかカチンと来る扱いを受けるって意味の言い回しだよ。」

とジョナサン。「気分」というものが、まるで多方向からの風に煽られてぐらぐらバタバタする感じでしょうか。要は「なめられてイラつかされる」ってことですね。

“Because you are thin-skinned, other people can wind you up quite easily.”
「面の皮が薄いせいで、人から簡単になめられてイラつかされがちです。」

「シンスケの面の皮が特別薄いとは思わないよ。そのアドバイスはぴんと来ないな。ただ、常に周囲を助けようとするタイプの人が他人から軽く見られる傾向があるってのには賛成かな。」

実はこの前日、実際に周りから「Thin-skinned(シンスキンド)なシンスケ」と思われているのかどうか急に気になり出し、部下たちに性格テストの結果をぶっちゃけてみました。

「私はその解説、納得いかないな。5年半の付き合いだけど、シンスケがシンスキンだと思ったことは一度も無いもの。」

と首を傾げるシャノン。

「じゃ、Thick-skinned(面の皮が厚い)ってこと?」

とふざける私。

「違う違う!そうじゃないってば。」

と、大真面目に慌てるシャノン。この時、若い新人のアンドリューがニヤリと笑って言いました。

“I think you are medium-skinned.”
「ミディアム・スキンだと思う。」

このオリジナルな言い回しがツボに入った私はゲラゲラ笑い出し、シャノンもカンチーも、少し離れて座っていたべスまで一緒になって暫く爆笑が続きました。

でもその数分後、なんだかちょっと引っかかる私。

もしかして、ちょっぴりなめられてる?


2017年6月18日日曜日

I got your back 僕がついてるぞ

ここのところ、仕事の需要はうなぎのぼりです。猛スピードで目の前の仕事を片付けても、その倍量の要請が飛び込んで来る。激流のど真ん中、上流目指して筏を漕ぐものの、中々進まないどころか河口に向かってじわじわと押し流されている格好。そんな金曜日の午後、一週間手つかずだった宿題をようやく済ませて一息ついた時、建築部門の副社長リチャードから電話が入りました。忙しいかと聞かれ、飽和状態を遥かに超えている、と正直に答える私。

「オレンジ支社のデレックをサポートしてくれないか?優秀な奴なんだが、既に八件のプロジェクトを抱えている上に来週から巨大プログラムの一員に加わることになってるんだ。」

「それは近い将来、燃え尽きちゃいそうですね。」

「まさにそれを心配してるんだよ!何とか頼めないかな。」

こんな時、居酒屋店員さながらに「はい、よろこんで!」と条件反射してしまう私。頑張っている人は見捨てない。これが私のモットーなのです。リチャードとの会話を終えた後、さっそくデレックに電話してサポートを申し出ました。まさに地獄に仏、という調子で彼が唸ります。

「ああ、本当に有り難う!助かった!」

さて昨日は土曜日。15歳の息子が毎週通う日本語補習校で、運動会が開催されました。小学一年生から高校三年生までが一堂に会しての大イベント。地元の高校から借りている緑の芝のグラウンドに白線が引かれ、トラックをぐるりと囲むようにしてヨットの帆みたいな生地のキャノピーが軒を連ねます。早朝特有の薄曇りでスタートしたものの、じわじわと晴れ始め、十時過ぎにはまるで演劇の舞台背景のようにのっぺりとした青空が広がっていました。見上げると空のてっぺんに、昼の三日月が居心地悪そうに貼りついています。

高校生になった息子たち。今年からは、審判員を務めたりかき氷を売ったりという裏方仕事を任されています。気が付けば保護者の我々も、「子供たちの競技に歓声を上げる」立場を若い親御さんたちに譲る年齢になっていました。キャノピー下の日陰で赤や青の折り畳み式レジャーチェアに身体を沈め、ゆったり談笑しつつ低学年児童のお遊戯などに目を細めます。

すっかり顔馴染みになった保護者仲間たちですが、こういう風にまとまった時間同じ場所に腰を据えることは滅多にありません。今回は、何人かに近況を聞いてみることにしました。有名寿司店で十数年間修業して来たM氏は最近独立を決め、来月末にラホヤに自分の店を出すべく準備中だと言います。「折角アメリカに来たのに、あと十年このままでいたらきっと後悔するんじゃないかと思って。」去年有名企業を辞職した別の友人は、日本に帰ってビジネスを立ち上げようとしていたものの多くの障害に阻まれ計画が滞っており、とりあえず食い繋ぐために就職面接を受けていると言います。別の友人は、自分の会社を大企業の傘下に組み込む商談を最近成功させ、今後の生活に大きな変化が訪れようとしているのだそうです。

おいおい、みんな頑張ってるじゃないか。ちょっと前の私ならここで浮足立ち、「自分も何か変えなくちゃ。このままじゃいけないぞ。」と焦ったところでしょうが、昨日は落ち着いていました。というのも、前日デレックとの電話を切った後、StandOut Assessment(スタンドアウト・アセスメント)というオンラインの性格テストを受け、自分が起業家タイプで無いことを確認していたから。

だいぶ前、大ボスのテリーが「次回(来週水曜)のチームリーダー会議での話題にしたいから、全員このテストを受けて結果を印刷して持って来てね」という一斉メールを発信。ずっと宿題になっていた性格診断です。「友人のパーティーに出席したら、欠席していた自分の親友の悪口で皆が盛り上がり始めました。どうしますか?」「部下のひとりが、昇給額が不当だと憤って直談判に来ました。さてどうする?」というタイプの四択問題が画面に現れ、クイズ・タイムショックみたいな360度扇型電光パネル時計が横でカウントダウンを始めます。規定時間が過ぎるとたとえ未解答でも次の問題へと自動的に進み、20分程かけて終了すると自分の性格診断が発表されます。カテゴリーは次の九種類。

Adviser     アドバイザー
Connector   コネクター
Creator     クリエイター
Equalizer   イクオライザー
Influencer  インフルエンサー
Pioneer     パイオニア
Provider    プロバイダー
Stimulator  スティミュレイター
Teacher     ティーチャー

九つのうちトップ2を挙げ、あなたの強みはこうですよ。更にこんな面を強めると良いですね、注意すべきはこういう点です、という助言もつけての詳細な診断発表。因みに私は、
一位 プロバイダー
二位 ティーチャー
でした。職場で度々トレーニングの講師を務めているので、二位は納得です。でもプロバイダーって何だ?インターネット・プロバイダーなどという言葉に使われるのは、「物やサービスを提供・供給する者」という意味ですが、なんかぴんと来ない。解説を読み進めてみると、プロバイダーと呼ばれる人はこんな性格だと言います。

Their first question is, “are you okay?”
この人たちが最初に発する質問は、「大丈夫ですか?」です。
This is the “I got your back” group.
これこそが「I got your back」というグループなのです。

I got your back というのはI have got your back、つまりI have your back(あなたの背後についている)という意味。要するに、

This is the “I got your back” group.
これこそ「僕がついてるぞ」というグループなのです。

なるほどね。自分がプロジェクトコントロールという裏方仕事を長く続けていられるのも頷けます。独立して会社を立ち上げたりするタイプじゃないのは明らか。この日会話したリスクテイカーたちが眩しく見えたからと言って、そのエネルギーに煽られ無鉄砲な行動に出ることはまず無いでしょう。このテストを受けてみて、世の中には本当に色んな性格の人がいて、それぞれのキャラが上手く組み合わさった時に強いチームが出来上がるんだな、ということをあらためて実感していたのです。

運動会の午後の部が始まって暫くした時、もうちょっと誰かの近況を聞きたいな、という好奇心が湧いて来ました。そうだ、会場をぐるっと一周してみよう、もしかしたら別の知り合いに偶然会えるかも、と思い立ちます。保護者席でざわつく人たちをチラチラ見つつ、ゆったりとしたテンポで歩きます。四分の三周して本部席に差し掛かった時、学校事務局のVさんが大慌てで近づいて来ました。

「ちょうどいいところに現れた!騎馬戦の審判員やってもらえます?」

担当するはずだった父兄の一人がドタキャンし、間もなく競技がスタートするので今すぐ補充が必要だ、というのです。ルール知らないけど大丈夫ですかね、と言いつつ引き受け、オヤジ審判団のミーティングに飛び入りする私。校長先生が真剣な表情でこう言います。

「騎馬戦は特に怪我が心配です。最近も日本の学校で、落馬して半身不随になったケースがあります。危険行為は直ちに止めさせて下さい。そして、担当するチームの後方にぴったりついて転落を防いで下さい。」

赤組、白組それぞれ七つの中高男子混合チームがグラウンド両端に分かれ、号砲とともに怒声を挙げて中央へ雪崩れ込みます。三人の生徒が馬を作り、小柄な生徒が跨って敵チームの帽子を奪おうと手を伸ばす。これに合わせて土台の三人が声を掛け合い、右へ左へと動き回る。背後から忍び寄る敵方に気付いた一人が他のチームメンバーに急転回を指示し、脱出を試みる…。これは高いコミュニケーション技術と身体能力が要求される団体競技なのですね。

私が担当したチームは赤組で、一戦目は見事白組の帽子を剝ぎ取ったのですが、その隙にいつの間にか後方から伸びていた別の騎手の手に自分の帽子を奪われました。私はその間、まるで小兵力士同士の目まぐるしい相撲を仕切る行司さながらのフットワークで動き回り、怪我の無いよう援護姿勢を維持しました。そして二戦目の直前、何やらごちょごちょ相談していたこのチーム、スタートと同時に手近な白組騎馬の背後につき、別の敵が接近するとひたすら逃げる、という戦法に出ました。そして見事制限時間を生き延び、やったぜ!とガッツポーズ。

う~ん、いいんだけどさ...。なんかそういうスタイルの闘い方、心から応援出来ないんだよね。


2017年6月11日日曜日

アメリカで武者修行 第38話 九割がコミュニケーション

ある朝出勤してエドと会った際、私が苦労の末にプリマベーラで作り上げたスケジュールを搭載した最初のプロポーザルが、競合四社と較べても最低の成績で落選したというニュースを聞かされました。不思議に悔しさは感じませんでした。深夜残業と週末出勤を繰り返した末のこととは言え、駆け出しのスケジューラーである私の出した成果が顧客を唸らせるほどの出来だとは到底思えなかったので。ただ、このプロポーザルのためにわざわざウィスコンシンから転勤してきたPMのジムや、私がもたもたする間じっと辛抱して付き合ってくれたサディアに対しては、申し訳ない気持ちで一杯でした。

ケヴィンの部屋を訪ねてプロポーザルの惨敗を伝えます。技術提案ページの一部を担当していた彼もさぞかしがっかりするだろうと思いきや、あっけらかんとこう答えました。
「気に病むことはないよ。今回のは新規の顧客開拓だからな。一発目でモノに出来ることなんてほとんど無いんだ。こういうのは積み重ねが大事で、会社だって二回までの負けは想定済みだよ。」
落ち着き払った友の態度に、微かな嫉妬を覚える私でした。既にいくつかプロジェクトを担当している彼は、当面の食い扶持に不安がありません。一方私は折角つかんだ新しいポジションで結果が出せなければ、またも失職の憂き目に会うかもしれないのです。

夏も近づき、二件目のプロポーザルも選に漏れたことを知らされた時は、更に緊張が加わりました。この数か月前から、社内では統廃合の果ての首切りが始まっていました。一年に一社のペースで他社を買収して来た結果、良く似た技能を持つ人が仕事を奪い合うケースが増え、本当に実力のある者だけが生き残る、まさに労働市場における自然淘汰が社内で進行していたのです。三件目のプロポーザルに取り掛かりながら、「三度目の正直」という言葉を頭の中で繰り返し唱える私でした。

そんなある日、ケヴィンがネットで見つけた情報を転送してくれました。PMP(プロジェクト・マネジメント・プロフェッショナル)の試験対策講習会がサンディエゴで開かれる、というもの。三日間の集中講座で、費用は約1500ドルです。暫くして、彼が私のキュービクルにやって来ました。
「リンク有難う。これ申し込むの?」
「俺は今回見送るよ。シンスケにどうかなと思ったんだ。」
「いやいや、1500ドルは大金だよ。こんなの出せないって。」
「会社の補助が受けられるかどうか聞いてみればいいじゃないか。」
「え?そんな制度あるの?」
「確か、まだあったと思うぞ。社員の資格は会社にとっての武器でもあるんだ。理に適った投資だと判断できれば、きっと払ってくれるだろう。もちろん却下される可能性も充分あるから期待し過ぎは禁物だけどな。」

毎週末の早朝、スターバックスの片隅でこつこつ独学を続けていた私。自分の理解度を客観的に測る術が無く、このまま試験日を迎えて果たして大丈夫なのだろうか、と不安を抱えていました。何か大事なポイントを見逃していないか?いわゆる「受験のコツ」も学ばぬまま本番に臨もうとしているんじゃないのか?「試験対策講座」みたいなものがあったらいいのに、とずっと思っていたのです。だからこの社外トレーニングは、喉から手が出るほど貴重なチャンス。けれど、その代金を払って欲しいと願い出るのは気が進みませんでした。金額の多寡はもちろんのこと、実はエドの心証を害することが心配だったのです。

PMPというのは、プロジェクトマネジメントに携わる者の能力を証明する資格だと言われています。私の所属するプロジェクトコントロール・グループは、全社のPM達をリードしたりサポートしたりする役割を担っているので、社内でこの資格を持つべきは誰かと問われれば、真っ先にこのグループ名が挙がるはず。それなのにエドも、彼の上司のスキーもクリスも、そして大ボスのアルですらPMPを持っていないのです。一体何故なのか。そんな資格など役に立たないと思っているのか。あるいは逆に、彼らほどのベテランですら手が出ない高みなのか。ひょっとすると、新参者の私が受験しようとしていること自体、面白く思っていないかもしれない。担当業務も満足にこなせていないくせに何を思い上がっているんだ、と。トレーニングと称して三日も仕事に穴を開ける?更に1500ドルもの大金を出せだと?どこまで調子に乗るつもりなんだ?
「考え過ぎだよ。駄目でもともとじゃないか。聞くだけ聞いてみたらいいだろ。」
苦笑するケヴィン。

その日の夕方、慎重に言葉を選び、エドに宛ててお願いメールを書きました。すると、
「分かった。会社のサポートがもらえるかどうか、さっそく上に掛け合ってみる。」
と短い返事が届きます。その翌日、彼が私のキュービクルに現れました。そして、
「絶対一発で合格するなら、という条件で全額補助の許しが出たぞ。」
とウィンクします。
「有難うございます!」
エドが特段気分を害している様子は見受けられません。安堵する私でしたが、心の隅に一抹の不安は残りました。顔に出さないだけで、本当は苦々しく思ってるかもしれないじゃないか、と。

七月中旬、ヨットハーバーを望むシェラトンホテルの会議室で席につきました。見ず知らずの社会人たち約十名と机を並べ、中年女性講師の講義を受けます。かつてある有名企業で長年プロジェクトマネジャーを務めました、と笑顔で自己紹介する彼女。授業が進むにつれ、私は強烈な衝撃を感じ始めていました。彼女が淡々と差し挟むヴィヴィッドな挿話の数々が、それまで掴みどころのなかった抽象的概念を、次々と生々しい疑似体験に変えて行くのです。

「あるレポートの作成に十日間かかるとスケジュールに描かれているとします。これ自体に疑問を持つ人はあまりいませんね。でも、プロジェクトマネジャーの立場でよく考えてみて下さい。締切に遅れた場合、責任を取るのはあなたですよ。このレポートが、来月予定されているおたくの社長演説の元ネタになるとしましょう。どうです?。急に不安になりますね。十日間で本当に大丈夫だろうか?問題は、どうやってこのタスクの所要時間を見積もったのか、です。見積もりに必要な情報は何でしょう?過去の経験?それもいいでしょう。しかし一番大事なことは、現実にその仕事を誰がするのか、です。隣の部のジョンが担当者だとして、期限内に仕上げる技量が彼にあるのか。そもそもその期間中、彼自身のスケジュールは空いているのか?ひょっとして休暇とぶつかってはいないか?ちょっと待てよ、ジョンの得意分野はフィールドワークで、確か以前、レポート作成作業を嫌がってたな。そうだ、若手のエミリーならちょうど別のプロジェクトを終えたところで都合がつくかもしれないし、レポート書きの経験が豊富でスピードも速い。今からチームにエミリーを投入しておいたらどうか?これまでにあの二人が一緒に働いたことは無いかもしれない。よし、すぐに二人を引き合わせ、それぞれの上司とも話して了解を得ておこう…。」

「このように、チームメンバーやその関係者から事前に出来るだけコミットメントを引き出しておく作業が、実効的なスケジュールを作成するための決め手なんです。PMの仕事は九割がコミュニケーションだという話は、皆さんご存知ですね。あなたがチームメンバーと話もせず、自分一人で作り上げたスケジュールを一方的に送りつけて静かに成果を待つPMだとしたら、プロジェクトは成功するでしょうか?チームの人たちは、熱意をもって仕事に取り組むでしょうか?どんなに付き合いの長い相手であっても、所詮は他人。コミュニケーションの量や質が乏しければ、疎外感や猜疑心が芽生えるものです。プロジェクト期間中ずっと、コミュニケーションを絶やさないこと。出来るだけ顔を合わせて話す。それが無理なら電話をかける。それぞれの性格や能力、刻々と変化するワークロードなどを理解し、相手にも自分という人間を知ってもらい、信頼関係を築き続ける努力を怠ってはいけません。プロジェクトのスケジュールというのは、チームメンバーとのたゆまぬコミュニケーションの上に作られるべきものなのです。」

それはまるで、手品師が目の前で鮮やかなカードマジックを繰り広げていくのを、口をぽかんと開けて見とれるような陶酔体験でした。教える行為のクオリティって、ここまで高めることが出来るのか、という驚きに震えつつ、三日間の集中コースを終えたのでした。

そしていよいよ十月半ばの土曜、受験日の朝。テストセンターは、家から車で20分の距離にある、ユーカリの大木に囲まれたショッピングモールの中でした。受付けを済ませ、鞄とポケットの中身とを残らずロッカーにしまい、コンピュータが数十個設置された窓のない部屋へ足を踏み入れました。既に何人か、静かに受験を開始しています。指定されたブースに腰を下ろし、モニターと向きあう私。天井の監視カメラがこちらを睨んでいます。画面の注意事項をざっと一読した後、スタートボタンをクリック。静寂の中、モニター右肩のデジタル時計が、04:00:00から一秒、また一秒とカウントダウンを開始します。深呼吸をひとつした後、四択問題に取り組み始めました。

スタートから約三時間半。最後の問題を解き終わったところで、
「合否の結果を見ますか?」
という文字が現れます。Noボタンを押せば、この日の試験は無かったことになります。つまり、出来が悪かったかもしれないと不安であれば、その記録を抹消し、後日再挑戦も可、ということ。

大きく深呼吸をした後、Yesボタンをクリック。

「ハロー?
携帯電話の向こうで、ボスのエドが応えます。手が震えていました。
「シンスケです。お休みのところすみません。」
「うん、構わないよ。どうした?」
「受かりました、PMP。」
「おおそうか!やったな!」

週が明けて月曜日の朝、出勤したその足で、彼のオフィスを訪ねます。すっくと立ち上がって歩み寄り、私の手を力強く握るエド。
「良かったな。本当におめでとう。」
満面に笑みを浮かべます。
「プロジェクト・コントロールの仕事に就いてたった半年でPMPを取っちまうんだからな、たいした奴だよ。俺もそのうち取らなきゃと思いながら、ずっと先延ばしにしてたんだ。でもこれで決心がついた。半年以内に受験することにする。いい刺激をくれて有難うな。」

自分のキュービクルへ行って腰を下ろし、コンピュータが立ち上がるのを待ちながら、ボスの言葉を静かに噛みしめる私でした。

なんてでっかい人なんだろう。あそこまで手放しで称えてくれるなんて…。彼の反応を色々予想してビクついていたことが、どうしようもなく恥ずかしくなりました。そうだ、自分には相手の気持ちを想像し過ぎて物が言えなくなる傾向がある。これからは、心を開いて話をしよう。黙ってメールを送り付けるより、立ち上がってドアをノックしよう。


2017年6月10日土曜日

I have issues with him 彼とはイシューがある

木曜の昼前、生物学チームの同僚ジョナサンを訪ねました。巨大なデスクトップモニターを前のめりで睨みつけ、業務に打ち込んでいる様子。眼鏡の左の弦には名刺が縦長に貼り付けてあり、まるで塀のように彼の目の辺りを覆い隠しています。そっと向かい側に回って上体をゆっくりと左右に揺らしてみたところ、ようやく私に気付きました。

「なんで名刺貼ってんの?」

そう問われて初めて真面目に名刺本来の役割を考え始めた、とでも言いたげな様子で眼鏡を外し、しげしげと見入るジョナサン。

「廊下を通行する人が視界に入るのが嫌なんだ。こうしてないと気が散ってね。」

緊急の仕事に追われているわけではないということを確認した後、iPhoneを取り出し、その朝撮った家庭菜園の写真を彼に見せます。

「ちっちゃい苗木だったトマトが、こんなに生い茂っちゃったよ!まるでジャングルでしょ。」

二ヶ月前の週末、半日かけて我が家の裏庭に素敵な花壇を作ってくれたジョナサン。彼の力作がどのような成果をもたらしているか中間報告しなきゃ、と思ったのです。水遣りは早朝が良いこと、枝が土に着かないよう添木を足すことを忘れないように、などと基礎的な注意事項を述べた後、彼がこう補足しました。

「根元が鬱蒼としているようだったら、低い位置の葉っぱを少し摘んでおくといいな。地面付近の空気の通りを良くしておけば、病気の元になる菌類の繁殖を防げるからね。鳥も出入り出来るようになって、害虫を食べてくれるし。」

ジョナサンの博識ぶりに、あらためて感心する私。

「なるほど、生態系を利用するってことか。ほんとに何でも知ってるねえ!」

すると、それまで隣のデスクで仕事しつつ我々の会話を聞いていた同じく生物学者のジョンが、

“He’s a smarty pants.”
「彼はスマーティパンツだよ。」

と笑いました。そして、

「いや、むしろsmarty plants(スマーティプランツ)と言うべきかな。」

とふざけます。パンツとプランツ(植物)で韻を踏んだのですね。

昼休み、ランチルームで部下のカンチーと並んで弁当を広げていた時、突然この「スマーティパンツ」が気になり始めました。「スマート」は「賢い」だから、スマーティパンツがそういう意味であることは大体想像がつきます。しかしそれがポジティブに使われるのか、それともネガティブな含みがあるのかが分からなかったのです。

「うちの可愛い甥っ子は幼いわりに物知りだから、彼を評してスマーティパンツって言う時があるけど…。」

「てことは、褒め言葉なんだね。でも、なんでそもそもパンツなのかな?」

「さあ、何故かしら?」

そこへちょうどジョナサンが通りかかったので、

「ほら、あそこにスマーティパンツがいるよ。」

と指さします。彼がニヤニヤしながらやって来て、ランチルームの真ん中に置き捨てられていた椅子の背をつかみ、それに抱きつくようにして腰かけます。

「スマーティが賢いっていうのは分かるけど、なんでパンツなの?」

という私の質問に、眉間に皺を寄せて固まるジョナサン。ちょうどそこへ生物学チームの大ベテランであるビルが弁当を手にやって来て私の左斜め横の席に腰を下ろしたので、同じ疑問をぶつけます。気が付くと、カンチー、ジョナサン、そしてビルの三人が左手にそれぞれスマホを持ち、顎を引いて一心不乱に検索を開始していました。

「語源はどこにも出ていないな。」

とジョナサン。

「おそらくだけど、パンツ(ズボンのこと)ってのは男性の総称なんじゃないかな。Fancy pants(気取った男)って言う言葉もあるからね。 」

「誰が対象でも使えるの?失礼にはならない?」

「基本的にはからかうトーンだから誰でもってことは無いけど、冗談が通じる相手だったらオーケーだよ。テリー(我らの大ボス)ならきっと大丈夫だろうな。でも社長に対して使うのは危険かもな。頭の良さをひけらかす奴、という嫌味にも使われるから。」

とビル。う~ん、これは用法の線引きがなかなかに難しいフレーズだぞ…。

“He’s a smarty pants.”
「彼は物知り博士なんだよ。」

てなとこがこの場合の妥当な和訳でしょうか。

そこへ、品質管理部門のベテランで私との付き合いが長いクリスが現れたので、「スマーティパンツ?」と彼を指さして皆の反応を見ます。面喰った表情で「え?僕のこと?」と周りをキョロキョロ見回すクリス。近づいて来た彼に、ここまでの我々の討論について説明すると、

NPR(公共放送局)のA Way with Wordsって番組知ってる?あそこに電話して聞いてみたらいいんじゃない?」

と提案します。それは「英語に関する何でも相談室」で、リスナーからの質問に二人の専門家が答えてくれる、というスタイル。イディオムの語源や耳慣れない英単語の意味を丁寧に解説してくれるのですが、そもそもネイティヴ・スピーカーからの疑問に答える番組なので、出て来る表現のほとんどが初耳。私のような英語学習者にはややハードルが高いのです。

「十年くらい前、電話してみたことがあるよ。」

とビル。え~っ?こんな身近に出演経験者がいたんだ!と驚き、

「なんて質問したの?」

と尋ねます。

「質問じゃなくて確認だったんだけど、俺の主張にあいつら結局最後まで同意しなかったんだよ。十年経った今なら、きっと納得すると思うがな。」

彼の主張というのは、「Issue(イシュー)はProblem(プロブレム)から対決の要素を排除して丸くした言葉だ」というもの。

“There is a problem,”問題があります。
「問題」と言ってしまえば、そこに意見の対立や衝突が想定される。

“There is an issue.”イシューがあります。
「問題点、争点」とも訳されるこのIssue。一歩引いて客観的に事態を眺めた感じになる、というビル。なるほどね、と感心する私でしたが、ジョナサンとクリスは賛成も反対もせず、この話題はそのまま潮が引くように消えて行きました。

「僕がここに来た本当の理由なんだけど、」

とクリスがあらためてビルの近くに立ち、声を潜めて話し始めました。

「○○プロジェクトのリスク・レビューをしている最中なんだけど、何か聞いてないかと思って…。」

プロジェクト・スコープの一部に、現場へ出かけて行ってある種のカエルを空気銃で撃ち殺す、という仕事があるんだが、それが議論になっている、とクリス。

「奴等は外来種で、ありとあらゆる生物を食べるんだ。小型のカエルまで食っちまう。放っておけば、そこら一帯の生態系はあっという間に壊滅だ。だから奴等の個体数を減らしていくしかないんだよ。」

とビル。

「でも、業務内容がハンティングっていうのは前代未聞でね…。」

「おいおい、銃と言ったって本物じゃないんだぜ。人間に対する殺傷能力は無いんだ。問題ないだろう。」

「いや、本社のリスクマネジメント・チームが、我が社の加入している保険は狩猟を対象としていないから、ということで問題視してるんだよね。」

苛立ちを露わにしたビルが、クリスに対して吐き捨てるように言いました。

“I have issues with those smarty pants.”
「そのスマーティパンツ達とはイシューがある。」

後で調べたところ、I have issues with someone とはムカつきを帯びた表現で、「誰々の意見や考えには反対だ」という意味だと分かりました。私の訳は、これ。

“I have issues with those smarty pants.”
「その知識人どもには賛同しかねるな。」

昨日の昼、同僚ディックとランチに行った際、issueproblemの違いについて尋ねてみました。Problem をオブラートに包んだのがIssueという解釈は合ってるか?というと、それは違う、と真っ向から否定するディック。

Issueは何かに深く内在する事柄で、それがProblemとして認識されるとは限らない。Issue の一部がProblemとして表面化して初めて解決を検討すべき対象になるけど、Issueは大抵Issueのままで存在し続ける。」

なるほどね。

「そもそも誰がそんな説を唱えてたの?」

と尋ねるディックに、これはビルの主張なんだよと答えました。十年前にビルがこの自説を引っ提げてA Way with Wordsというラジオ番組に出演し、専門家に嚙みついたというエピソードを話したところ、

「いかにもビルのやりそうなことだな。」

とディック。過去に彼との間で起きた様々な事件が脳裏に蘇って来たようで、暫く思い出し笑いを浮かべていたディック。ぼそりとこう締め括りました。

“I have issues with him because of that.”
「彼と反りが合わない理由はそれなんだよ。」


2017年6月4日日曜日

Back in the groove 元のリズムを取り戻す

本社副社長のパットと先日電話で話した時、彼女がこんなことを言いました。

“We’re trying to get back in the groove.”
「グルーヴに戻ろうとしてるの。」

全社レベルでプロジェクトコントロール・チームの立ち上げを企画していたパットですが、相方のキャリーがニ月にスタートした新PMシステムのエラー対応に忙殺されているため本来業務に戻れず、当初の計画が滅茶苦茶になっている、そこであなたの助けが必要なのよ、という文脈でのこの発言。私はこの「グルーヴ」という言葉の意味を「なんとなく」のレベルでしか理解していなかったので、電話を切った後、同僚クリスティに解説をお願いしました。

「グルーヴっていうのは、レコードの溝って意味ね。昔、針が飛びまくって音楽が途切れることがあったでしょ。それが収まる所に収まって、ようやくスムーズに演奏し始めた、という時にback in the grooveとなるわけ。」

とクリスティー。随分アナログな喩えだけど、同世代の彼女とは前置き抜きで通じ合えます。

「だからIn the grooveだと、うまくいってる、良い気分って意味になるわね。Like a well-oiled machine(きちんと油を差した機械みたいに)という表現もあるわ。」

なるほど。パットが言いたかったのは、こういうことですね。

“We’re trying to get back in the groove.”
「元のリズムを取り戻そうとしてるの。」

この心境はよく理解できます。私のチームでも、最近は「大至急頼む」という依頼が大量に飛び込んできて、その日計画していた仕事が全く出来なくなる、という事態が重なっています。中でも財務部門からの依頼は、指示、いやむしろ命令というべきものが多く、大抵は「今すぐ他の仕事を全てストップし、最優先でこの書類を作成せよ」という語調。あんたらは何様なんだよ?と食って掛かりたい気持ちはやまやまですが、これが彼らの更に上のレベルから来ている指令であることに疑いは無く、黙って従うしかない。

「大至急○○プロジェクトのEAC更新をしてもらう必要がある。打合せがしたい。午前中30分だけ空けてくれ。」

「今日は既に午前も午後も一杯です。ダブルブッキングも多数ある。無理ですよ。」

「では、12時から12時半ということで。」

「…。」

こんな調子で過ぎて行った二週間。息継ぎ無しで50メートルプールを延々と往復しているような気分でした。そんな忙しさの真っ只中、木曜の午後五時でした。仕事に没頭する部下たちに別れを告げ、職場を後にする私。ビルの地階ロビーに下りると、続々と仲間が集まり始めます。マリア、リチャード、サラ、彼女のパートナーのトリシャ、そして日系アメリカ人のジャック…。「エドは現地集合よ」とマリア。そう、今夜は久しぶりのJapanese Dinner Night(日本食の夕べ)なのです。最悪のタイミングだったけど、一カ月以上前に企画したイベントだし、みんなの都合もあることなので、急に延期出来なかったのです。今夜か明日の早朝出勤で遅れを取り戻すしかない…。

今回は初の試みとして、往復にFREDというサービスを利用することになりました。最大定員5名の電気自動車で、ダウンタウン内ならどこでも無料で連れて行ってくれるタクシーサービス。スマホにアプリをダウンロードし、今いる地点と行きたい場所をインプットすると、車のアイコンが地図上を動いて「あと7分です」などと知らせてくれます。間もなく、バンコク市街を走っていそうな窓の無い簡素な造りのミニヴァンが到着しました。女子たちを一台目で先に行かせ、リチャードとジャックと私は後発に乗り込みます。ドライバーは二十代後半と見られる白人青年。

何故こんなことが無料で出来るのかな、というジャックの疑問に、地元企業からの広告収入で賄えているらしい、と説明する私。乗客から見える位置に10インチくらいの液晶画面が設置されており、盛んにタウン情報を流しています。目の前の状差しには観光パンフレットが所狭しと並んでいる。なるほどそういうわけか、これは観光客に嬉しいサービスなんだね、とジャック。マーケットストリートを横切った辺りで、彼が言いました。

「ここら一帯は、かつてジャパンタウンだったんだよ。このコーナーは床屋だった。あの辺は居酒屋でね。で、あっちがチャイナタウン。」

「初めて聞きましたよ。全然知らなかったな。」

と、前を向いたまま感心する運転手。それ、いつ頃の話?と尋ねるリチャードに、ジャックが事も無げに答えます。

「第二次大戦前。」

若いドライバーは、きっと心中ずっこけていたでしょう。大戦前のサンディエゴを知る乗客なんて、そうそういないでしょうから。

数分後、5番街の高級寿司店Takaに到着。奥の大テーブルを陣取っていたエドと女性陣に合流します。今回の企画の目玉は、ジャックの米寿祝い。そう、我らが誇る古参社員のジャックは、先月88歳の誕生日を迎えたのです!今年エンジニア生活66年を迎えるんだ、と嬉しそうに笑う彼を囲み、パーティーがスタートします。

「バッテラって何?」

とメニューを睨んで尋ねるトリシャ。

「う~ん、バッテラね。何て説明すりゃいいのかな。箱にすし飯と魚を詰めてぎゅーっと押してね…。」

「ナメコって何?」

今度はマリア。

「2ドル追加するとミソスープに入れてもらえるって書いてあるわ。」

バッテラもナメコも、日本人の私ですら滅多に食さないメニュー。

「とにかく注文してみようよ。食べりゃ分かる。」

己の英語力の貧弱さを呪いつつ、逃げの一手の私。

バッテラやはまちのカマに四方八方から箸が伸び、これはウマい!と顔を見合わせる仲間たち。あらためて考えると、彼等の大半が十年以上の付き合いです。かつては同じオフィスで毎日顔を合わせていたのですが、ダウンタウンの高層ビルに移ってからは何か月も会わないこともしばしば。

「随分久しぶりね、この会。前回はいつだった?」

とマリア。

「一年半ぶりよ。ほんと、あっという間よね。」

とサラ。責められているわけではないと知りつつ、ごめんね、と謝る私。

「忙しさにかまけて、こういうお楽しみ企画を後回しにしてた。少なくとも四半期に一度くらいは集まりたいね。」

「じゃあ次回は秋ね。私、今度はまたあのお店に行きたいわ。ほら、皆でくっつきあって座るところ。」

と興奮を隠せないサラ。掘りごたつのことを言っているのですね。その時、「ナメコの方は…。」ウェイターが味噌汁を運んで来ました。あ、来た来た、ナメコだ!マリアが眼鏡を取り出し、サラは上体を乗り出します。茶色くぬめる物体をマリアが箸で摘み上げ、皆でためつすがめつ眺めます。まるで科学者の一団が、新発見とうたわれる検体の真偽を吟味するかのように。

その様子を眺めているうちに段々笑えて来て、私の中でしこっていた何かが溶け始めるのを感じました。今の仕事は楽しいし大好きだけど、僕は何か大事な事をなおざりにして来たんじゃないか。忙しいことが能力の証であるかのような錯覚に囚われ、自分のペースで人生を楽しむことを知らず知らずのうちに放棄して来た。他愛もない話で仲間たちと盛り上がる。たったそれだけのことで、幸せを味わえるっていうのに。

皆が敬遠していた軍艦巻きを口に放り込み、尊敬のどよめきを浴びるエド。ホタテを食べようかどうか悩むトリシャをけしかける私。デザートのシャーベットに火のついたロウソクを差してウェイターが運んで来て、ハッピーバースデイ!と目の前に置かれた瞬間、ふっと火を吹き消すジャック。え?もう消しちゃったの?とずっこける仲間たち。

そんな風に2時間が過ぎ、締めには黒胡麻のクレームブリュレを堪能して大満足の一同でした。

「古くからの仲間たちにこうして大事な誕生日を祝ってもらえるなんて、僕は本当に幸せ者だよ。日本では88歳が特別なマイルストーンだと教えてくれて、この会を企画してくれたシンスケには、特に感謝してる。有難う!」

立ち上がって私の右手を両手で強く握り締めるジャック。びっくりするほど長い握手でした。私は何だか胸が一杯になって、店を出る時みなに告げました。

「僕、歩いてオフィスに戻るよ。」

「え?今FRED呼んだわよ。あと5分で来るって。」

とマリア。

「うん、でも何だか歩きたい気分なんだ。じゃあね!」

もうすぐ夏を迎えるサンディエゴの午後七時半はまだ日が高く、建ち並ぶビルの一階を埋めるオープンバーやテラス式レストランの人混みが通りに滲み出して、街をアップビートのノイズで満たしています。笑顔でそぞろ歩くカップルやグループとすれ違いながら、静かに幸せを噛みしめていた私。仲間たちのお蔭で、久しぶりに元のリズムを取り戻せそうな気がしていたのです。そうだ、誰かの都合で急がされていてはいけない。自分の歩調で人生を楽しむんだ!

快いペースを保ち、オフィスを目指してひたすら歩きます。そのうち頭の中で、斉藤和義の名曲「歩いて帰ろう」をハミングしているのに気づきました。これ、ほんとにいい歌だなあ…。

帰宅後にあらためて歌詞を調べてみて、じわっと来ました。特に最後のところ。

急ぐ人にあやつられ 言いたい事は胸の中
寄り道なんかしてたら おいてかれるよ いつも
走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく
僕は歩いて帰ろう 今日は歩いて帰ろう