木曜の昼前、生物学チームの同僚ジョナサンを訪ねました。巨大なデスクトップモニターを前のめりで睨みつけ、業務に打ち込んでいる様子。眼鏡の左の弦には名刺が縦長に貼り付けてあり、まるで塀のように彼の目の辺りを覆い隠しています。そっと向かい側に回って上体をゆっくりと左右に揺らしてみたところ、ようやく私に気付きました。
「なんで名刺貼ってんの?」
そう問われて初めて真面目に名刺本来の役割を考え始めた、とでも言いたげな様子で眼鏡を外し、しげしげと見入るジョナサン。
「廊下を通行する人が視界に入るのが嫌なんだ。こうしてないと気が散ってね。」
緊急の仕事に追われているわけではないということを確認した後、iPhoneを取り出し、その朝撮った家庭菜園の写真を彼に見せます。
「ちっちゃい苗木だったトマトが、こんなに生い茂っちゃったよ!まるでジャングルでしょ。」
二ヶ月前の週末、半日かけて我が家の裏庭に素敵な花壇を作ってくれたジョナサン。彼の力作がどのような成果をもたらしているか中間報告しなきゃ、と思ったのです。水遣りは早朝が良いこと、枝が土に着かないよう添木を足すことを忘れないように、などと基礎的な注意事項を述べた後、彼がこう補足しました。
「根元が鬱蒼としているようだったら、低い位置の葉っぱを少し摘んでおくといいな。地面付近の空気の通りを良くしておけば、病気の元になる菌類の繁殖を防げるからね。鳥も出入り出来るようになって、害虫を食べてくれるし。」
ジョナサンの博識ぶりに、あらためて感心する私。
「なるほど、生態系を利用するってことか。ほんとに何でも知ってるねえ!」
すると、それまで隣のデスクで仕事しつつ我々の会話を聞いていた同じく生物学者のジョンが、
“He’s a smarty pants.”
「彼はスマーティパンツだよ。」
と笑いました。そして、
「いや、むしろsmarty plants(スマーティプランツ)と言うべきかな。」
とふざけます。パンツとプランツ(植物)で韻を踏んだのですね。
昼休み、ランチルームで部下のカンチーと並んで弁当を広げていた時、突然この「スマーティパンツ」が気になり始めました。「スマート」は「賢い」だから、スマーティパンツがそういう意味であることは大体想像がつきます。しかしそれがポジティブに使われるのか、それともネガティブな含みがあるのかが分からなかったのです。
「うちの可愛い甥っ子は幼いわりに物知りだから、彼を評してスマーティパンツって言う時があるけど…。」
「てことは、褒め言葉なんだね。でも、なんでそもそもパンツなのかな?」
「さあ、何故かしら?」
そこへちょうどジョナサンが通りかかったので、
「ほら、あそこにスマーティパンツがいるよ。」
と指さします。彼がニヤニヤしながらやって来て、ランチルームの真ん中に置き捨てられていた椅子の背をつかみ、それに抱きつくようにして腰かけます。
「スマーティが賢いっていうのは分かるけど、なんでパンツなの?」
という私の質問に、眉間に皺を寄せて固まるジョナサン。ちょうどそこへ生物学チームの大ベテランであるビルが弁当を手にやって来て私の左斜め横の席に腰を下ろしたので、同じ疑問をぶつけます。気が付くと、カンチー、ジョナサン、そしてビルの三人が左手にそれぞれスマホを持ち、顎を引いて一心不乱に検索を開始していました。
「語源はどこにも出ていないな。」
とジョナサン。
「おそらくだけど、パンツ(ズボンのこと)ってのは男性の総称なんじゃないかな。Fancy pants(気取った男)って言う言葉もあるからね。 」
「誰が対象でも使えるの?失礼にはならない?」
「基本的にはからかうトーンだから誰でもってことは無いけど、冗談が通じる相手だったらオーケーだよ。テリー(我らの大ボス)ならきっと大丈夫だろうな。でも社長に対して使うのは危険かもな。頭の良さをひけらかす奴、という嫌味にも使われるから。」
とビル。う~ん、これは用法の線引きがなかなかに難しいフレーズだぞ…。
“He’s a smarty pants.”
「彼は物知り博士なんだよ。」
てなとこがこの場合の妥当な和訳でしょうか。
そこへ、品質管理部門のベテランで私との付き合いが長いクリスが現れたので、「スマーティパンツ?」と彼を指さして皆の反応を見ます。面喰った表情で「え?僕のこと?」と周りをキョロキョロ見回すクリス。近づいて来た彼に、ここまでの我々の討論について説明すると、
「NPR(公共放送局)のA Way with Wordsって番組知ってる?あそこに電話して聞いてみたらいいんじゃない?」
と提案します。それは「英語に関する何でも相談室」で、リスナーからの質問に二人の専門家が答えてくれる、というスタイル。イディオムの語源や耳慣れない英単語の意味を丁寧に解説してくれるのですが、そもそもネイティヴ・スピーカーからの疑問に答える番組なので、出て来る表現のほとんどが初耳。私のような英語学習者にはややハードルが高いのです。
「十年くらい前、電話してみたことがあるよ。」
とビル。え~っ?こんな身近に出演経験者がいたんだ!と驚き、
「なんて質問したの?」
と尋ねます。
「質問じゃなくて確認だったんだけど、俺の主張にあいつら結局最後まで同意しなかったんだよ。十年経った今なら、きっと納得すると思うがな。」
彼の主張というのは、「Issue(イシュー)はProblem(プロブレム)から対決の要素を排除して丸くした言葉だ」というもの。
“There is a problem,”問題があります。
「問題」と言ってしまえば、そこに意見の対立や衝突が想定される。
“There is an issue.”イシューがあります。
「問題点、争点」とも訳されるこのIssue。一歩引いて客観的に事態を眺めた感じになる、というビル。なるほどね、と感心する私でしたが、ジョナサンとクリスは賛成も反対もせず、この話題はそのまま潮が引くように消えて行きました。
「僕がここに来た本当の理由なんだけど、」
とクリスがあらためてビルの近くに立ち、声を潜めて話し始めました。
「○○プロジェクトのリスク・レビューをしている最中なんだけど、何か聞いてないかと思って…。」
プロジェクト・スコープの一部に、現場へ出かけて行ってある種のカエルを空気銃で撃ち殺す、という仕事があるんだが、それが議論になっている、とクリス。
「奴等は外来種で、ありとあらゆる生物を食べるんだ。小型のカエルまで食っちまう。放っておけば、そこら一帯の生態系はあっという間に壊滅だ。だから奴等の個体数を減らしていくしかないんだよ。」
とビル。
「でも、業務内容がハンティングっていうのは前代未聞でね…。」
「おいおい、銃と言ったって本物じゃないんだぜ。人間に対する殺傷能力は無いんだ。問題ないだろう。」
「いや、本社のリスクマネジメント・チームが、我が社の加入している保険は狩猟を対象としていないから、ということで問題視してるんだよね。」
苛立ちを露わにしたビルが、クリスに対して吐き捨てるように言いました。
“I have issues with those
smarty pants.”
「そのスマーティパンツ達とはイシューがある。」
後で調べたところ、I have issues with someone とはムカつきを帯びた表現で、「誰々の意見や考えには反対だ」という意味だと分かりました。私の訳は、これ。
“I have issues with those
smarty pants.”
「その知識人どもには賛同しかねるな。」
昨日の昼、同僚ディックとランチに行った際、issueとproblemの違いについて尋ねてみました。Problem
をオブラートに包んだのがIssueという解釈は合ってるか?というと、それは違う、と真っ向から否定するディック。
「Issueは何かに深く内在する事柄で、それがProblemとして認識されるとは限らない。Issue の一部がProblemとして表面化して初めて解決を検討すべき対象になるけど、Issueは大抵Issueのままで存在し続ける。」
なるほどね。
「そもそも誰がそんな説を唱えてたの?」
と尋ねるディックに、これはビルの主張なんだよと答えました。十年前にビルがこの自説を引っ提げてA Way with Wordsというラジオ番組に出演し、専門家に嚙みついたというエピソードを話したところ、
「いかにもビルのやりそうなことだな。」
とディック。過去に彼との間で起きた様々な事件が脳裏に蘇って来たようで、暫く思い出し笑いを浮かべていたディック。ぼそりとこう締め括りました。
“I have issues with him
because of that.”
「彼と反りが合わない理由はそれなんだよ。」