ある朝出勤してエドと会った際、私が苦労の末にプリマベーラで作り上げたスケジュールを搭載した最初のプロポーザルが、競合四社と較べても最低の成績で落選したというニュースを聞かされました。不思議に悔しさは感じませんでした。深夜残業と週末出勤を繰り返した末のこととは言え、駆け出しのスケジューラーである私の出した成果が顧客を唸らせるほどの出来だとは到底思えなかったので。ただ、このプロポーザルのためにわざわざウィスコンシンから転勤してきたPMのジムや、私がもたもたする間じっと辛抱して付き合ってくれたサディアに対しては、申し訳ない気持ちで一杯でした。
ケヴィンの部屋を訪ねてプロポーザルの惨敗を伝えます。技術提案ページの一部を担当していた彼もさぞかしがっかりするだろうと思いきや、あっけらかんとこう答えました。
「気に病むことはないよ。今回のは新規の顧客開拓だからな。一発目でモノに出来ることなんてほとんど無いんだ。こういうのは積み重ねが大事で、会社だって二回までの負けは想定済みだよ。」
落ち着き払った友の態度に、微かな嫉妬を覚える私でした。既にいくつかプロジェクトを担当している彼は、当面の食い扶持に不安がありません。一方私は折角つかんだ新しいポジションで結果が出せなければ、またも失職の憂き目に会うかもしれないのです。
夏も近づき、二件目のプロポーザルも選に漏れたことを知らされた時は、更に緊張が加わりました。この数か月前から、社内では統廃合の果ての首切りが始まっていました。一年に一社のペースで他社を買収して来た結果、良く似た技能を持つ人が仕事を奪い合うケースが増え、本当に実力のある者だけが生き残る、まさに労働市場における自然淘汰が社内で進行していたのです。三件目のプロポーザルに取り掛かりながら、「三度目の正直」という言葉を頭の中で繰り返し唱える私でした。
そんなある日、ケヴィンがネットで見つけた情報を転送してくれました。PMP(プロジェクト・マネジメント・プロフェッショナル)の試験対策講習会がサンディエゴで開かれる、というもの。三日間の集中講座で、費用は約1500ドルです。暫くして、彼が私のキュービクルにやって来ました。
「リンク有難う。これ申し込むの?」
「俺は今回見送るよ。シンスケにどうかなと思ったんだ。」
「いやいや、1500ドルは大金だよ。こんなの出せないって。」
「会社の補助が受けられるかどうか聞いてみればいいじゃないか。」
「え?そんな制度あるの?」
「確か、まだあったと思うぞ。社員の資格は会社にとっての武器でもあるんだ。理に適った投資だと判断できれば、きっと払ってくれるだろう。もちろん却下される可能性も充分あるから期待し過ぎは禁物だけどな。」
毎週末の早朝、スターバックスの片隅でこつこつ独学を続けていた私。自分の理解度を客観的に測る術が無く、このまま試験日を迎えて果たして大丈夫なのだろうか、と不安を抱えていました。何か大事なポイントを見逃していないか?いわゆる「受験のコツ」も学ばぬまま本番に臨もうとしているんじゃないのか?「試験対策講座」みたいなものがあったらいいのに、とずっと思っていたのです。だからこの社外トレーニングは、喉から手が出るほど貴重なチャンス。けれど、その代金を払って欲しいと願い出るのは気が進みませんでした。金額の多寡はもちろんのこと、実はエドの心証を害することが心配だったのです。
PMPというのは、プロジェクトマネジメントに携わる者の能力を証明する資格だと言われています。私の所属するプロジェクトコントロール・グループは、全社のPM達をリードしたりサポートしたりする役割を担っているので、社内でこの資格を持つべきは誰かと問われれば、真っ先にこのグループ名が挙がるはず。それなのにエドも、彼の上司のスキーもクリスも、そして大ボスのアルですらPMPを持っていないのです。一体何故なのか。そんな資格など役に立たないと思っているのか。あるいは逆に、彼らほどのベテランですら手が出ない高みなのか。ひょっとすると、新参者の私が受験しようとしていること自体、面白く思っていないかもしれない。担当業務も満足にこなせていないくせに何を思い上がっているんだ、と。トレーニングと称して三日も仕事に穴を開ける?更に1500ドルもの大金を出せだと?どこまで調子に乗るつもりなんだ?
「考え過ぎだよ。駄目でもともとじゃないか。聞くだけ聞いてみたらいいだろ。」
苦笑するケヴィン。
その日の夕方、慎重に言葉を選び、エドに宛ててお願いメールを書きました。すると、
「分かった。会社のサポートがもらえるかどうか、さっそく上に掛け合ってみる。」
と短い返事が届きます。その翌日、彼が私のキュービクルに現れました。そして、
「絶対一発で合格するなら、という条件で全額補助の許しが出たぞ。」
とウィンクします。
「有難うございます!」
エドが特段気分を害している様子は見受けられません。安堵する私でしたが、心の隅に一抹の不安は残りました。顔に出さないだけで、本当は苦々しく思ってるかもしれないじゃないか、と。
七月中旬、ヨットハーバーを望むシェラトンホテルの会議室で席につきました。見ず知らずの社会人たち約十名と机を並べ、中年女性講師の講義を受けます。かつてある有名企業で長年プロジェクトマネジャーを務めました、と笑顔で自己紹介する彼女。授業が進むにつれ、私は強烈な衝撃を感じ始めていました。彼女が淡々と差し挟むヴィヴィッドな挿話の数々が、それまで掴みどころのなかった抽象的概念を、次々と生々しい疑似体験に変えて行くのです。
「あるレポートの作成に十日間かかるとスケジュールに描かれているとします。これ自体に疑問を持つ人はあまりいませんね。でも、プロジェクトマネジャーの立場でよく考えてみて下さい。締切に遅れた場合、責任を取るのはあなたですよ。このレポートが、来月予定されているおたくの社長演説の元ネタになるとしましょう。どうです?。急に不安になりますね。十日間で本当に大丈夫だろうか?問題は、どうやってこのタスクの所要時間を見積もったのか、です。見積もりに必要な情報は何でしょう?過去の経験?それもいいでしょう。しかし一番大事なことは、現実にその仕事を誰がするのか、です。隣の部のジョンが担当者だとして、期限内に仕上げる技量が彼にあるのか。そもそもその期間中、彼自身のスケジュールは空いているのか?ひょっとして休暇とぶつかってはいないか?ちょっと待てよ、ジョンの得意分野はフィールドワークで、確か以前、レポート作成作業を嫌がってたな。そうだ、若手のエミリーならちょうど別のプロジェクトを終えたところで都合がつくかもしれないし、レポート書きの経験が豊富でスピードも速い。今からチームにエミリーを投入しておいたらどうか?これまでにあの二人が一緒に働いたことは無いかもしれない。よし、すぐに二人を引き合わせ、それぞれの上司とも話して了解を得ておこう…。」
「このように、チームメンバーやその関係者から事前に出来るだけコミットメントを引き出しておく作業が、実効的なスケジュールを作成するための決め手なんです。PMの仕事は九割がコミュニケーションだという話は、皆さんご存知ですね。あなたがチームメンバーと話もせず、自分一人で作り上げたスケジュールを一方的に送りつけて静かに成果を待つPMだとしたら、プロジェクトは成功するでしょうか?チームの人たちは、熱意をもって仕事に取り組むでしょうか?どんなに付き合いの長い相手であっても、所詮は他人。コミュニケーションの量や質が乏しければ、疎外感や猜疑心が芽生えるものです。プロジェクト期間中ずっと、コミュニケーションを絶やさないこと。出来るだけ顔を合わせて話す。それが無理なら電話をかける。それぞれの性格や能力、刻々と変化するワークロードなどを理解し、相手にも自分という人間を知ってもらい、信頼関係を築き続ける努力を怠ってはいけません。プロジェクトのスケジュールというのは、チームメンバーとのたゆまぬコミュニケーションの上に作られるべきものなのです。」
それはまるで、手品師が目の前で鮮やかなカードマジックを繰り広げていくのを、口をぽかんと開けて見とれるような陶酔体験でした。教える行為のクオリティって、ここまで高めることが出来るのか、という驚きに震えつつ、三日間の集中コースを終えたのでした。
そしていよいよ十月半ばの土曜、受験日の朝。テストセンターは、家から車で20分の距離にある、ユーカリの大木に囲まれたショッピングモールの中でした。受付けを済ませ、鞄とポケットの中身とを残らずロッカーにしまい、コンピュータが数十個設置された窓のない部屋へ足を踏み入れました。既に何人か、静かに受験を開始しています。指定されたブースに腰を下ろし、モニターと向きあう私。天井の監視カメラがこちらを睨んでいます。画面の注意事項をざっと一読した後、スタートボタンをクリック。静寂の中、モニター右肩のデジタル時計が、04:00:00から一秒、また一秒とカウントダウンを開始します。深呼吸をひとつした後、四択問題に取り組み始めました。
スタートから約三時間半。最後の問題を解き終わったところで、
「合否の結果を見ますか?」
という文字が現れます。Noボタンを押せば、この日の試験は無かったことになります。つまり、出来が悪かったかもしれないと不安であれば、その記録を抹消し、後日再挑戦も可、ということ。
大きく深呼吸をした後、Yesボタンをクリック。
「ハロー?」
携帯電話の向こうで、ボスのエドが応えます。手が震えていました。
「シンスケです。お休みのところすみません。」
「うん、構わないよ。どうした?」
「受かりました、PMP。」
「おおそうか!やったな!」
週が明けて月曜日の朝、出勤したその足で、彼のオフィスを訪ねます。すっくと立ち上がって歩み寄り、私の手を力強く握るエド。
「良かったな。本当におめでとう。」
満面に笑みを浮かべます。
「プロジェクト・コントロールの仕事に就いてたった半年でPMPを取っちまうんだからな、たいした奴だよ。俺もそのうち取らなきゃと思いながら、ずっと先延ばしにしてたんだ。でもこれで決心がついた。半年以内に受験することにする。いい刺激をくれて有難うな。」
自分のキュービクルへ行って腰を下ろし、コンピュータが立ち上がるのを待ちながら、ボスの言葉を静かに噛みしめる私でした。
なんてでっかい人なんだろう。あそこまで手放しで称えてくれるなんて…。彼の反応を色々予想してビクついていたことが、どうしようもなく恥ずかしくなりました。そうだ、自分には相手の気持ちを想像し過ぎて物が言えなくなる傾向がある。これからは、心を開いて話をしよう。黙ってメールを送り付けるより、立ち上がってドアをノックしよう。
アメリカの試験のシステムって先進的だね。
返信削除日本の技術士の試験なんて1日に400時詰原稿用紙何十枚分もの小論文をひたすら書き続けるという前近代的なもの。受験中腱鞘炎になりそうな右腕の疲労を感じながら「蒼穹の昴」に出てくる科挙制試験を思い出してたヨ(笑
PMP試験って、ある程度の常識人で知識を大量に詰め込む体力さえあれば受かる気がします。技術士試験は受ける方も大変だけど採点する側も辛いよね。異常に辛抱強い人だけがパスするキワモノの資格。確かに科挙っぽい。蒼穹の昴、懐かしいねえ。
返信削除自分の書いた小論文を読み返してみると、ごくたまーに「うわっ、凄っげえイイこと書いてんジャン」みたいな出来のときがあるよね。集中力が高まっている時って、自分の能力以上のことができたりするということかなと思うのだが、蒼穹の昴の中で主人公の文秀が自分でも判らないうちに論文が出来上がっていて科挙試験を通るくだりでフムフムと感じたりしたヨ。
返信削除カッコいい話だねえ。気が付いたら天衣無縫の大論文が完成していた…。70年来の落第生が吐血しながら託して来た論文を夢の中でコピーしてたりして。
返信削除