四年前、オレンジ支社に週三日のペースで通っていた頃のこと。ある日、同僚のアンが辞職するというニュースを聞きました。才気煥発のハードワーカー。皆から信頼される存在でした。環境系のサイエンティストとして入社した彼女にスケジューリングやコスト分析の基礎を教え込んだところ、目覚ましい吸収力で成長し、あっという間に私の右腕になったのです。
しかし当時はプロジェクトコントロールの役割が組織内で定義も擁護もされておらず、どぶ板方式で顧客ベースの拡大を図るしか無かったため、仕事量の見通しがなかなかつきませんでした。そんな先の見えないプロジェクトコントロール・チームに本腰を入れることに迷っていたアン。それでもコンビとして広く認知されるまで辛坊して実績を積もうと目論んでいた私に、このニュースはショックでした。
そんな彼女、そもそもオーストラリア出身で、いつかは両親の住むシドニーに戻ろうと考えていたとのこと。ご主人のマイクも南半球への移住に乗り気だったこともあり、娘シエナの出産を契機に引っ越しを決意したというのです。出張前にメールで連絡を取ったところ、シドニーから電車で四時間離れた郊外に新居を建てたばかりだと言います。私が二週間シドニーに滞在すると言うと、週末に泊まりに来てよ、と誘われました。
視界の限り広がる樹海、エメラルド色の湖岸からそそり立つ褐色の岩山。そんな車窓の景色を眺めつつ、時にうたたねしながら、土曜の午後二時過ぎに「ビクトリア・ストリート」という改札口も無いひなびた田舎駅に降り立ちました。目も眩むような強烈な日差しに、慌ててサングラスを取り出す私。線路を跨ぐミニ歩道橋の先に目をやると、フェンス際の路面に白線を引いただけの簡易駐車スペースがあり、そこに今風の大きなサングラスをかけ、軽く背伸びしながら手を振るタンクトップ姿のアンを発見しました。歩道橋を渡り、四年ぶりのハグで再会を喜びます。茶色い三菱パジェロの助手席ドアを開けると、足元にカラフルなおもちゃが散らばっています。後部座席には、後ろ向きと前向きのカーシートが並んで取り付けられている。え?子供二人?
なだらかにうねる広大な牧草地の真ん中を十分ほど進むと、丘の上ののどかなニュータウンへと誘われました。宅地造成はほぼ完了、約7割が戸建て住宅で埋まった状態。アンの新居は、完成ほやほやの一軒家。ドライブウェイの舗装が済んだばかりだというので、足跡を付けないようこわごわ歩みを進めてお宅に入ると、ご主人のマイクが握手で出迎えてくれました。意外にも、頭髪にちらほら白いものが混じっています。そういえば彼と会うのは6年ぶりくらいか…。居間へ進むと、テレビで幼児用教育番組が流れています。向かいのソファに、政治家の討論を傍聴しているみたいな険しい表情で、金髪の少女がクッションに埋もれるようにして座っています。挨拶する私に一瞥をくれた後、表情を崩さずそのまま視線をテレビに戻しました。
「シエナ、シンスケに挨拶しなさい。」
とたしなめるアン。口の端を結んだまま前方を凝視し続ける少女。
「大きくなったねえ。君がまだ赤ちゃんの時に会ったことがあるんだよ。」
と私。それでもやっぱり無視。
彼女の気を引くのを早々に諦めた大人三人。ダイニングに立ったまま、四年のギャップを一気に埋めようと、焦り気味に質疑応答を開始します。
アンは現在、地元の役所で開発許可の仕事に就いていて、週三日勤務。産休も有給もたっぷりで、給料も悪くない。マイクはこの国での職歴がゼロのため、仕事探しにはえらく苦労した。携帯電話を買おうと入った店のマネジャーから誘われ、ひとまずその店でセールスの仕事をしている。やってみたら意外に向いてるみたい…。
外国での職探しが大変なのは当然だけど、ロスで映画関係のビジネスに関わっていたマイクがいきなり携帯電話のセールスをする、というその柔軟さには頭が下がる思いでした。
「コンサルタントの仕事に戻りたいと思ったことは無い?」
と尋ねると、アンがきっぱりと答えます。
「もう二度と、Utilization(稼働率)のプレッシャーに苦しむのはイヤ。」
自分の勤務時間をチャージ出来るプロジェクトの数が減れば稼働率も下がる。その状態が暫く続くとあっけなく首が飛ぶ。それがコンサルタント業の掟です。一定以上の稼働率を保つには、無理してでも多数のプロジェクトにコミットし、常にオーバーワーク状態に身を置かないといけない。
「役所に勤めることで、やっとそのプレッシャーから解放されたんだもの。もうあんな生活には戻れないわよ。」
一方で、役所勤めの欠点は、知的レベルも士気も高い同僚や上司が少ないことだと言います。コンサルタント時代はキツかったけど、毎日が刺激的だった、と。
「あれだけのスキルを身に着けておいて、プロジェクトコントロールの仕事をしないのはもったいないよ。インディペンデント・コンサルタントになってもらって、仕事がある時だけ頼むという契約が出来たらいいんだけどね。」
と私が提案すると、
「その手があるんだったら、是非やりたいわ。」
と、急に目を輝かせるアン。
「アメリカから仕事回してくれるとか?」
その時、何か可愛らしい声が廊下の向こうから聞こえ、マイクが立ち上がります。間もなく彼が、手足のむちむちした金髪の男の子の手を引いて戻って来ました。
「トーマスよ。二歳になったばかりなの。」
おお、やっぱりもう一人いたのか!チャーリーブラウンの宿敵ルーシーの弟、ライナスに似ているこの坊や、お昼寝から目覚めたばかりらしく、父親の手をつかんだまま宙を見つめて押し黙っています。もちろんこちらの挨拶にはノーリアクション。しかし彼が突然空腹を訴え始めたため、アンがキッチンに移動しておやつ兼夕食の用意を開始しました。
この後、食べ物に惹きつけられたシエナがテレビを消して弟に合流し、ダイニング・テーブルに全員集合となりました。腹ごしらえを終えると、夕暮れ前に散歩へ行こうという話になり、シエナは補助輪付き自転車に、トーマスはアンの押すストローラーに乗って家を出ます。周辺には緑が溢れかえっていて、大型でカラフルな鳥たちが楽し気に舞っています。ちょっと見て来る、と芝生の丘を駆け上って行ったマイクが息を弾ませて戻って来て、
「あっち側にいたよ。この道を行こう。」
と指さします。皆で勾配の急な坂を登り切ったところ、突然視界が開けました。その一帯だけ住宅建設を待つ空き画地が連続していて、大きめの原っぱになっているのです。マイクの指さす方を見ると、いました、野生のカンガルー集団!五頭が直立不動でこちらを見つめています。じわりじわりと近づいて写真を撮る私。都市部からだいぶ離れているとは言え、こんなにあっさりとカンガルーに出会えるとは思ってもいませんでした。
「あまり近づくと、尻尾の一振りであっけなく命を落とすからね。」
とマイクに忠告されましたが、そんな心配は無用でした。カメラを構えて20メートルほどまで近づいたところ、一斉に背を向けてぴょんぴょん跳ねて去って行きました。
家に戻って暫くすると、外が夕闇に包まれて来ました。裏庭へ出るガラス戸の内側に立って庭を見ていたところ、足元のサッシの隙間から、体長二センチくらいのコガネムシ風の甲虫が一匹、また一匹と忍び込んで来るのに気付きました。やがてそれが、ブンブン羽音を立ててダイニングを飛び回り始めます。マイクが落ち着いて一匹ずつ素手で捕まえ、素早くガラス戸を引いて外へ逃がしてやる、という反復動作がそれから数分続きました。
“They are Christmas Beetles.”
「それはクリスマス・ビートルズよ。」
とアン。え?クリスマスのビートルズ?ビートルスのクリスマス・ソング集みたいな名前だな…。
「正式な学名は知らないけど、毎年この時期になると大量発生する虫なんだ。」
とマイク。家の灯りに誘われて、パティオを埋め尽くすほど飛来することもあるけど、朝になると鳥たちが来て綺麗に掃除して行くそうです。真夏にクリスマスを迎える南半球ならではの話だなあ…。パティオの屋根から吊るされた電球に体当たりを繰り返す夥しい数のクリスマス・ビートルズ達を眺めながら、「この世界には、自分の想像を絶するようなことが無限にあるのだ」というメッセージを、頭の中で呪文のように唱える私でした。
そこへシエナがやって来て、蚊の鳴くような声でこう言いました。
「私のお部屋、もう見た?」
一緒に散歩したことで、ちょっと心を許し始めたのでしょう。
「いや、そう言えばまだだな。もしかして見せてくれるの?」
するとこっくり頷いて、私の前を歩き始めました。彼女の部屋は、ピンクの装飾で埋め尽くされています。クローゼットまで開けて、服のコレクションを披露してくれるシエナ。ここもピンクだらけ。壁にはモミの木のイラストが付いた「アドベント・カレンダー」がかかっていて、クリスマスまで毎朝ひとつずつ小窓を開けてメッセージを楽しむようになっています。
“I have eleven more
sleeps till Christmas.”
「あと11回眠ったらクリスマスなの。」
と、思いつめたような表情で説明するシエナ。サンタは良い子のところだけに来ること、プレゼントは何個頼んでも良いこと、ミルクとクッキーの用意を忘れてもサンタは気分を害さないこと、などを丁寧に解説してくれます。
「この家、暖炉も煙突も無いよね。彼は一体どこから入って来るのかな?」
と意地悪な質問をする私に、サンタは頭が良いし、前もって全部の家の侵入方法を調べてあるから心配要らないの、と落ち着いて切り返すシエナ。ふ~ん。まるで空き巣のエキスパートみたいなプロフィールじゃないか。
子供たちが就寝した後、アンに尋ねてみました。
「あのさ、オーストラリアにやって来るサンタの服装って、一体どうなってんの?」
「アメリカと一緒よ。赤いやつ。」
「でもさ、ここは真夏でしょ。いくらなんでも厚着が過ぎるんじゃない?かなり不自然で無理があるよね。子供たちは納得してるの?」
「それは大丈夫よ。」
とアン。
「こっちのサンタは、常に汗だくだから。」
おお~!そうか、それなら納得。
翌朝、早めに出勤するというマイクと握手を交わして見送った後、子供たちとひとしきり遊びました。サンタの絵を描いてくれる?というシエナの要請に応え、トナカイ一頭に引かれて空を旅するサンタクロースを描いてやりました。すると、彼女が一心不乱に色塗りを開始。その後、彼女がウサギのファミリー人形とその家のおもちゃを運んできて、一緒に遊ぶよう要求します。私は喜んでこれに応じたのですが、途中で二歳のトーマスがやって来て、片っ端から屋敷や家具を破壊し始めました。
“Stop it Thomas!”
「やめてよトーマス!」
と悲痛な叫びをあげる姉の気持ちなどお構いなく、ケタケタ笑いながら狼藉を繰り返す幼い弟を見ているうちに、私も段々可笑しくなって来ました。
「トーマスは壊したいだけなのよ。もう一回作ればいいじゃない。」
というアンの仲裁に、そりゃいくらなんでも五歳の子には受け入れられないでしょ、とシエナが不憫になり、災害復旧のサポートに精を出す私でした。
アンの作ったサーモンのサンドイッチを堪能して時計を見ると、シドニーへ戻る電車の時間が近づいています。
「一緒にシンスケを駅まで送るわよ。」
と、子供たちにお出かけの用意を促すアン。
「今度はいつ来るの?」
と私の顔を見つめるシエナ。
「そうだな。いつか分からないけど、またきっと来るよ。」
と私。
駅に着く頃には、シエナもトーマスも後部座席のカーシートですやすや寝入っていました。
「二人にお別れが言えなかったな。」
車から降りて後部座席の窓から寝顔を覗き込む私に、
「アメリカからシンスケが仕事を回してくれるって話、現実的に可能なのかしら。」
とアンが昨日の話題を蒸し返します。
「為替だとか契約形態とかいろいろ障害はあるけど、きっと数年以内に可能になるよ。」
と答える私。そしてこの二日間、頭の中でゆっくりと輪郭が整って来ていた想念が、簡潔なセリフとなって私の口から飛び出しました。
“Anything can happen.”
「何だってありでしょ。」
ニッコリ笑うアン。
「考えてもみてよ。四年前に君が会社を去った時、僕がいずれオーストラリア出張を利用して会いに来るかも、なんて予想出来た?タイムマシーンであの時に戻って可能性を聞いたって、二人ともほぼゼロパーセントって答えたと思うよ。たった四年の未来が自分の想像を遥かに超えてたんだから、二年くらい先に僕ら、また一緒に働いてたって全然おかしくないでしょ。」
何度も頷いて同意した後、アンが手を広げてお別れのハグをくれました。
「その日を楽しみにしてるわ。来てくれて本当に有難う。」
シドニーへの帰途、車窓に拡がる牧歌的な風景を眺めながら、強い確信を噛みしめていました。オーストラリア出張。アンとの再会。汗だくのサンタ。ニュータウンのカンガルー。そしてクリスマス・ビートルズ…。そうだ、本当に何だってありなんだ。未来はまだまだ面白い!