2017年5月14日日曜日

Healthy Skepticism 健全な猜疑心

ある日の早朝。強烈な陽光を真正面から受けつつ、オフィスを目指して車を走らせていたサングラスの私。高速を降りてダウンタウンに入ったところで、赤信号につかまります。停車してぼんやりしていると、三歳くらいの女の子の手を引いたメキシコ系の女性が、左からゆっくりと横断歩道を渡って行きます。二人とも髪をきちんと束ね、黒っぽい上品な服を着て、まるでピアノの発表会にでも行くような「ハレ」感を漂わせている。おぼつかない足取りながら、母親の右手をしっかりつかみ、まっすぐ前を見て真剣な表情で向こう岸を目指す女の子の横顔を見送りながら、思わず微笑んでいた私。その時でした。女の子が不意にこちらを振り向き、小さな右手を挙げてバイバイのジェスチャーをしたのです。予想もしなかった展開。私も反射的に右手を挙げ、バイバイを返します。横断歩道を渡り終えた女の子が顔を上げて何か喋り、母親がこちらを振り返って微笑むのを視界の端におさめつつ、車を発進させます。

サングラスをかけた私は、どう贔屓目に見ても「怪しい東洋人」です。こんな不審人物にも心を許す少女の無防備さに感動し、ホンワカした気分で出勤したのでした。あの子がこの先、無闇に人を疑うような人間に成長しないといいけどなあ…。

さて、その日の朝一番は、副社長のパットと久しぶりに電話で情報交換。我が社のトップ約700名が一堂に会するリーダーシップイベントに出席するため、出張中だという彼女。

「チクるようで嫌なんだけど、一応耳に入れておいた方がいいと思ってね。」

と私。なるべく早く伝えたいことがあったのです。

火曜日、私がリードするプロジェクト・コントロール・チームの定例電話会議で、カマリヨ支社のジェシカが発言しました。

「デンバーからステファンという人が来て、うちのメンバーと個人面接して行ったの。プロジェクトコントロール・チームのスキル・セットを調べるって言われたんだけど、ハードコアな建設部門の業務経験に絞った質問ばかりなの。まるで、あんたのやってることはプロジェクトコントロールなんかじゃないって否定されてるみたいで気分が悪かったわ。」

これに呼応するように、サンタマリア支社のカレンが、

「うちにも先週来たわ。私は良い印象を受けたけど。だって彼、私達のキャリアパスを明確にするって言ってくれたのよ。先行きが見えない仕事だって半ば諦めてたのに、明るい未来を提示してくれたんだもの。すごく嬉しかったわ。」

これはそもそも、パットの号令で全米展開されている運動です。組織のあちこちで人知れず眠っているプロジェクトコントロールの人材を発掘し、ひとりひとりの強み・弱みを明らかにし、必要なトレーニングを提供。さらにはネットワーク化してコラボレーションを図ろう、というもの。

「ところがね、意外なことが起きたの。」

とカレン。

「ステファンがうちのオフィスに来た次の日、担当支社を行脚中だったL副社長を囲んでのディナーがあったのね。たまたまそばの席に座れたから、話題提供のつもりでこの件を話したのよ。そしたらみるみる顔が赤くなって、ものすごく怒り始めたの。俺に断りも無く、誰かが裏組織づくりを企んでいるのか!ってね。」

呆気にとられたカレンは懸命に釈明を試みたのですが、L氏の怒りはおさまらず、翌日サンタバーバラ支社を訪れた際にもこの「陰謀説」を持ち出して、けしからぬ暴挙だと憤懣をぶちまけたのだと。

「まあ何てこと!って言いたいところだけど、驚くには当たらないわ。」

とクールな反応のパット。

「この活動を始めた当初から、全米のエグゼクティブには根回しの大切さを何度も伝えてあるのよ。でも必ず誰かしらはコミュニケーションを怠って、こういう誤解の種を蒔くのよね。」

出張中にL副社長とバッタリ会うことがあったら、ちゃんと話しておくわね、情報有難う、とパット。それにしても、一社員の一言から咄嗟に悪だくみを疑って部下たちの面前で怒りを露わにするなんて、リーダーとしての品格を落とす態度よね、と溜息をつきます。側近に寝首を搔かれる可能性を日頃から憂えているからこその、この反応。普段はニコニコしてるけど実は疑心暗鬼なんだなあ、とちょっぴりL氏を可哀想に思った私でした。

「あ、そういえば、フィルって人から連絡あった?」

と話題を変えます。9月にダラスのトレーニングで知り合ったフィルは、原子力潜水艦の元乗組員にしてリスクマネジメントのプロ。先日私が全米対象のウェブトレーニングで紹介したエクセルのワークブックについてメールで意見をくれたのですが、それに返信する際、是非彼のアイディアを取り入れたい、とモンテカルロ・シミュレーションの指導を仰いだのです。

モンテカルロ法というのは、乱数を使って確率論的に数値計算を行う手法です。現在私の使っている計算モデルは、「プロジェクト・チーム全員の給料が年間3パーセント上がると仮定するとコストはこれくらい上昇するから、利益率の見込みは○○パーセント。」というシンプルな論法ですが、これを「給料の上昇率は人によって違う。ゼロパーセントの人もいれば10パーセントの人もいる。様々な可能性を考慮した場合、利益率の見込みはこれくらいの確率で○○パーセントになる。」と述べることで、より説得力を増すのですね。ダラスのトレーニング中、フィルがエクセル上でモンテカルロシミュレーションを回してリスクマネジメントをしていると聞き、今度あらためて聞かせてね、とお願いしたきりになっていたのです。

フィルが力説するのは、「大抵の人間は直観で動く。実際には大した可能性もインパクトも無い些末な心配事でも、過大に見積もって心を悩ませ、時間を無駄にする傾向がある。統計や確率の知識を使って本当に大事なことを見極められれば、冷静に、そして効率的にリスクに対処出来る。」ということ。モンテカルロシミュレーションはエクセルの標準ツールを使って回せるので、やろうと思えば誰にだって理性的なリスクマネジメントが出来るのだ、と。

一時間以上かけてフィルに手ほどきを受けた後、この手法の適用可能性の大きさに気付いて興奮を隠せない私。

「こんな便利なものを取り入れない手は無いよ。まずは僕のプロジェクトコントロール・チーム内で広めて、日常的に使うようにしてみるよ。」

「有難う。そう言ってもらって嬉しいよ。俺は過去数年、会社のキーパーソンと思われる人たちにさんざん売り込んで来たんだよ。みんな口では素晴らしいって言うんだけど、誰一人として実際に取り入れようとはしないんだ。俺にはその理由が全然分からない。」

そう言いながら、彼の声には抑揚がほとんど感じられません。リスクマネジメントを突き詰めるとこういう人間が出来上がっちゃうのかもな、と笑えて来るほど喜怒哀楽が欠如している。「嬉しいよ」というセリフも後半の不満も、ほぼ棒読みなのです。何かを売り込もうという人の口調がここまで冷静だったら、売れる商品も売れないぜ。

「これは難解過ぎる、とても手に負えそうもないぞ、って普通はビビるでしょ。単純に、どうプレゼンするかが勝負の分かれ目だと思うな。そうだ、パットって知ってる?プロジェクトコントロール担当の副社長なんだけど、話してみるといいよ。彼女が気に入って全社に広めれば、すごいことになる。今からワークブックに何か名前を付けといた方がいいな。フィルズ・フォーキャスト・ワークブックとかさ。」

はしゃぐ私に薄いリアクションを返した後、パットに連絡を取ってみるよ、とぶっきらぼうなフィル。本当に実行するかどうかは疑わしいな、と思いながら電話を切ります。

「ああ、一昨日電話があったわよ。モンテカルロ法の話をしてくれたわ。」

とパット。彼女の声に、フィルの売り込みが成功した様子は感じ取れません。

「彼、口下手だけど、すごく真剣で良い人でしょ。彼が薦める方法論を取り入れて、僕のチームで使ってみようと思うんだ。」

とフォローする私。ここでパットが、思い出したように言います。

「今後、プロジェクト・コントロールの分野に進むべきかどうか考えてるんだって。今のポジションにあまり将来性を感じてないみたいなの。」

「それは素晴らしいね。きっと強力なチームメンバーになるよ!」

とニュースを歓迎する私に、

「でもまだ迷ってるのよ、彼。だってまだプロジェクトコントロール・グループなんて、組織化を模索してる段階でしょ。誰かの一言であっけなく雲散霧消する可能性だってあるじゃない。」

と水を差すパット。

“I think it’s a healthy skepticism.”
「ヘルシー・スケプティシズムだと思うわ。」

Healthy skepticismとは、「健全な猜疑心」という意味ですね。確率・統計の知識を駆使し、常に冷徹な意思決定をするフィルの人となりを描写するのに、これほどぴったりした言葉は無いな、と感心しました。「プロジェクトコントロール」の意味も知らぬまま今の職に飛びついた私には、縁遠いフレーズです。よくよく考えてみれば、僕って結構感情的な人間だよな。L副社長のことを笑えないほど、他人の意図を疑って一喜一憂したりもするし。フィルみたいに、世の中をクールな目で見つめられるようにならなきゃ…。

昨日の夕方、一念発起してブックオフまで車を走らせ、確率・統計の本を買い漁りました。もう一度基礎から勉強し直し、ヘルシー・スケプティシズムを養おうと思います。


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