「エクセルの質問していい?」
と身を乗り出します。
「喜んで!」
ぐるりと移動して横に座ると、彼女はモニター画面のワークシートを指さし、課題を説明し始めました。
都市計画部門のゲイリーが、朝一番でクライアントから依頼を受けた。夕方五時締め切りで、あるプロジェクトの財務情報を提供して欲しい、と。データを加工して要求通りのフォーマットに当てはめよ、というシンプルなお題なのだけど、過去に提出したレポートとの矛盾は絶対避けなければならない。ところがあいにく、担当PMのダグラスが休暇で留守中。このプロジェクトに日常的関与のないゲイリーは困り果て、普段ダグラスのサポートをしているシャノンならきっと何とかしてくれるだろう、とすがって来たのです。
歯医者の予約が入っているので午前中しか時間の無い彼女ですが、そんなゲイリーの期待に応えようとさっそく取り組み始めます。しかし、送られて来たエクセルファイルを開けてみてびっくり。過去に提出したレポート内のデータのほとんどは、誰かが手入力したもので、元データとのリンクや計算方法が一切不明なのです。これでは矛盾の有無を確認するための手がかりが無い。出し抜けに創作料理をレシピ抜きで差し出され、今から全く同じ材料を使って別のものを調理しなさい、はいスタート、とストップウォッチを押されたようなものです。
画面上のスプレッドシートをざっと眺めた後、これはもはやエクセルがどうこう言う以前の話だな、と悟った私。そして彼女に放ったのが、このセリフ。
“Clear as mud.”
「泥のようにすっきりだね。」
これは、前の週の電話会議中に仕入れた新イディオムです。数か月前に口火を切った、工期9年の巨大プロジェクト。PMのアンジェラ、そしてプロジェクト・ディレクターのティムとの定例会議中、二人が発したのがこのフレーズ。ごく最近終結を迎えたクライアントとの度重なる交渉の結果、契約額の分配方法が異常に複雑なものとなった。その経緯と概要を淡々と解説した後、ティムが静かにこう言ったのです。
“Clear as mud.”
するとアンジェラも、心からの同意を示す落ち着いた声で、
“Clear as mud.”
と繰り返します。そして、「シンスケのヘルプが必要だ」と私を持ち上げる二人。
へ?と思考が止まる私。「泥のようにクリア(すっきり)だ。」が何を意味するのかが、すぐに呑み込めなかったのです。どうして泥がクリアなの?
電話を切った後さっそくネットで調べたところ、これは「さっぱり分からない、ちんぷんかんぷん」という意味でした。泥という不透明な対象に「クリア(透き通っている)」という形容詞をぶつけることで分かりにくさを強調した、皮肉混じりの表現なのですね。
フレーズの意味を理解した途端、体内にアドレナリンが激しく噴き出すのを感じる私。よっしゃ任せろ!と。お題が難解であればあるほど、誰よりも速く鮮やかに解いてみせたくなる。周囲の者が膝を打ち、「なるほど!」と感嘆の声を漏らすほど美しく簡潔な解説を提供したい衝動に駆られるのですね。それはまるで、泥の中から砂金を掘り出す職人の性。
今回シャノンが与えられたお題も、まるで単色1000ピースのジグソーパズルのようで、一見して解決は不可能。
“Clear as mud!”
「泥のようにすっきりよ!」
私のセリフを繰り返す彼女。これはいくら何でも乱暴過ぎるわ、出来るわけ無いじゃない、と憤慨してもおかしくないレベルの理不尽さです。しかしふと見ると、シャノンの目はキラキラ輝いています。何が何でもこの難題を時間内に解いてみせる、という意気込みが全身に漲っているのです。それを見て思わず吹き出す私。
「まったく君って人は…。泥が深いほど燃えるんでしょ。」
と冷やかすと、ニッコリ笑うシャノン。
「その通り。これはどろどろよ。でもエクセルの計算式さえ上手く当てはめれば、解法は見つけ出せそうな気がするのよ。」
果たして彼女は昼までに分析を終え、見事にゲイリーの要請に応えて会社を出たのでした。
さて木曜の夕方、今度はシャノンの隣の席からカンチーが、
「エクセルの質問があるんだけど」
と懇願のまなざし。直ちに彼女の席に回ってワークシートをチェックします。タイトル行の各所に三層構造のセルがあり、別の列では三行が結合され単一セルになっている。表全体にフィルターをかけると、自動的に全ての列のトップ・セルが選ばれてしまう。最下行のタイトルセルにフィルターをかけるにはどうすれば良いのか?
一見シンプルなお題ですが、実際いじってみるとこれがなかなかの難物。彼女の隣にしゃがんで色々試したのですが、うまく行きません。
「5分ちょうだい。」
諦めて席へ戻り、ネットで検索を開始します。ところがここで、さっきから向かいの席で我々の会話を聞いていた新人のアンドリューが「ちょっと見せて」とやって来て、カンチーのコンピュータ上で試行錯誤を始めます。おいおい、彼女にヘルプを頼まれたのは君じゃないぞ。何を出しゃばってんだ?とちょっぴりイラつく私。しかし日頃チームメンバーの自由な発言や議論への参加を奨励している手前、ここで独占権を主張するのはさすがに大人げない。で、若者に負けじと作業を急ぐ私。するとなんと、今度はシャノンも興味をそそられたようで、「問題は何?」と横から首を突っ込んで来ます。げげっ。砂金の存在を嗅ぎつけた二人が、川にずかずか踏み込んで来たぞ…。
約束の5分が過ぎようとした時、アンドリューが遂に答えを見つけました。カンチーと二人でニコニコしています。彼の解答が、これ。
「タイトル行のセル結合を一旦すべて解除して、最下行のセルを使ってフィルターをかけた後、最初に結合していたセルだけ元に戻す。」
う~む、なんなんだその泥臭い手口は。君が乱入して掘り出したのは、断じて砂金なんかじゃないぞ。せいぜい銅か錫ってとこだ。こっちが見つけたかったのはそんなんじゃなく、光り輝く真にエレガントな解法なんだ!と胸中で舌打ちする私。でも、とりあえずカンチーが仕事を継続するために必要な答えは得られたので、作業を終了して皆で川を上がるしかない。
いいじゃん、うちのチーム。下剋上結構。自ら進んで泥に飛び込む、気合の入った猛者どもの集団が出来て来たぞ…。
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