オレンジ支社へ出張した際、弁当を食べようとランチルームへ入ると、同僚ベスが一人で座ってブリトーにかぶりついていました。隣のテーブルに腰掛けて弁当箱を開け、軽く世間話を交わしていたところ、彼女が週末の出来事を話し始めました。
ロサンゼルス郡に住むベスには三人のお子さんがいるそうなのですが、末娘がサンディエゴの大学に進学することになり、週末に彼女を夫婦で送って来たというのです。アメリカの大学というのは全寮制が多く、「子供が大学に通い始める」イコール「独り立ち」という公式がアメリカ人の意識に浸透していると言っても良いでしょう。ロスからサンディエゴなんて車で2時間の距離なので、ものすごく遠くへ去ってしまうわけではないのです。でもこれで我が家から子供の声がすっかり消えてしまうとなると、夫婦の心にぽっかり穴が開いてしまうのですね。
「私、自分があれほどエモーショナルになるとは予想もしてなかったの。帰り道ね、二人ともすっかり落ち込んじゃった。意外だったのがうちの夫の反応で、普段はとってもドライなのに、」
そうしてベスが次に発したセリフに、箸を持つ手が止まります。
“He was upset.”
「彼、アップセットだったの。」
え?アップセットって、怒った時に使う言葉じゃなかったっけ?この文脈で、ご主人が怒ってたとは思えないんだけど…。
翌日、ダウンタウン・サンディエゴ支社へ行った際、同僚ステヴにこの質問をぶつけてみました。
「これはまた厳しいとこ突いて来たなあ。」
と唸るステヴ。
「たとえばさ、君のボスがやって来て “What did you say to Hillary? She’s upset.” (ヒラリーに何を言ったんだ?彼女はアップセットだぞ。)と言われたら、ヒラリーが怒ってるか悲しがってるか、どっちだと思う?」
暫く考えた後、彼がこう答えます。
「俺の経験から言うと、75パーセント怒りで25パーセントが悲しみかな。必ず両方の感情が入ってると思うよ。」
「ふ~ん、そうなの。日本語にはそんな言葉存在しないと思うなあ。悲しいのか怒ってんのか、どっちかしかないもん。」
そこでふと、腑に落ちない点に気づきます。「ベスの旦那がアップセットだった」という場合、75パーセント怒りというのはおかしくないか?
「なるほど。その場合、割合は逆転してるね。90パーセント悲しみで、10パーセント怒りかな。」
「ちょっと待ってよ。怒りなんかないでしょ、このケースで。」
私が反論すると、
“He’s angry at the world.”
「世の中に対して怒ってるんだよ。」
と、拳を振り上げて見せるステヴ(この場合のWorld とは、自分の周りで起こっている出来事の総体と解釈しました)。そこへ、さっきから我々の会話を楽しそうに聞いていた同僚シャノンが割り込んできます。
「もっと娘とたっぷり話をしておけば良かった、なんで俺は子供との時間をもっと大切に過ごさなかったんだろう、って自分自身に対して怒ってるっていうのも有るかもね。」
なるほど。悲しくって同時に腹を立ててる時に使うフレーズなのね。
席に戻って仕事をしてたら、ロス支社のマドンナからメールが入って来ました。
「昨日辞職届けを提出したの。二週間後に退社するわ。今まで色々有難う。」
ええっ?なんで?慌てて返事を書いて、動機を尋ねます。
「ディレクターのジェイソンが辞めてから仕事量が倍増してたでしょ。そのすぐ後に、産休に入ったヘザーのプロジェクトが全部私に回ってきたじゃない。とてもじゃないけどまともな成果を出せないわ。ずっとサポートを頼み続けてたのに、結局誰も動いてくれなかった。もう限界よ。」
なんてこった。上層部は何もしてやらなかったのか!そんなことで優秀な社員をまたひとり失うなんて…。マドンナとはずっと良いチームワークを組んで来ていたので、本当にがっかりでした。
再びステヴの席へ行き、マドンナの件を聞いてるかと切り出すと、
「うん、知ってる。残念だね。」
と苦々しい表情になって首を振ります。そこで私が、
“I’m upset!”
と小さく叫びました。彼はすぐに親指を立て、
“That’s correct!”
「それ正解!」
と答えてくれました。
“You are sad, and a little
bit angry at the world.”
「悲しい気持ちもあるけど、ちょっとばかり周囲に対して怒ってるんだよね。」
これでアップセットの意味を会得しました。