火曜の朝、本社副社長のパットからテキストメッセージが入ります。「ちょっと話せない?」
彼女とは月一回程度、どちらからともなく連絡を取り合って近況報告を交わす間柄。でも今回はやけにインターバルが短いぞ。ついこないだ話したばっかりじゃんか。さっそく電話会議をセットします。
「前回の電話で、EACツールの話をしたでしょ。」
と切り出すパット。
EAC(Estimate at Completion)というのは、プロジェクトの最終予測値のことで、一般には最終予算額を指します。各プロジェクトから吸い上げられたEACが四半期毎の財務諸表に反映されるため、PM達は慎重に計算した数字をシステムに打ち込まなければなりません。算出ステップは次の通り。
EAC(Estimate at Completion)というのは、プロジェクトの最終予測値のことで、一般には最終予算額を指します。各プロジェクトから吸い上げられたEACが四半期毎の財務諸表に反映されるため、PM達は慎重に計算した数字をシステムに打ち込まなければなりません。算出ステップは次の通り。
1.現在に至るまでのコストを精査する。入力ミスなどがあれば直ちに修正する。
2.今後かかると予想されるコストを、論理的手法を用いて計算する。
3.1と2を合算。予算とのズレがあれば原因を究明し、軌道修正可能なら2に戻る。
単純なプロセスのようですが、実はこれが一般のPMにはかなりの難物なのです。会社の財務システムは扱いが容易でない上に、クライアント対応やチームとのコミュニケーションに多忙を極めるPMにとっては、データ分析や入力作業に時間をかけること自体に抵抗があるのですね。そんな、「データ処理のために雇われたんじゃねえぞ」と苛立つ彼等をサポートするのが、我々プロジェクト・コントロールの仕事。私がチームを拡大し続けている裏には、こういう事情があったのです。
2月に全米で使用開始した新PMツールの到来で、ユーザー達はこのEAC更新プロセスが劇的に改善されることを期待していました。これでようやく苦痛から解放されるぞ、と。しかし蓋を開けてみると、改善はおろかむしろ後退したようにさえ見えるインターフェイス。不満を爆発させるPM達に、
「そもそもEAC更新というのは、プロジェクト毎の様々な前提条件を組み込んだ上での試行錯誤を要求される作業なんです。ソフトウェアで一斉に自動化出来るような代物では無いんですよ。」
となだめる私。ツールに幻滅して毒づくよりも、この「試行錯誤」のステップをどこまで効率化出来るかを考えることが重要です。そこで登場するのが、私の作ったエクセルのワークブック。十年前に最初のバージョンを作ってから、会社のシステム変更に合わせて少しずつ改良を繰り返して来た、私の秘密兵器です。
PMツールからデータをダウンロードしてこのワークブックにぶちこみ、PMと一緒に複数の前提条件をひとつずつ変えながら最終コストを計算していく。シナリオが定まったらこれを最終版とし、数字をPMツールに打ち込み、エクセルファイルを添付して一丁上がり。
私のチームはこのワークブックを使って、南カリフォルニアを中心に何百人ものPM達をサポートして来ました。しかし最近になるまで、他の地域のPM達がどうしているかを考えたことがありませんでした。二週間前にパットが、全米のプロジェクト・コントロール担当者に私のワークブックをシェアして欲しい、と持ち掛けて来るまでは。
「あれから内部で色々検討したんだけど、会社としてトレーニングをするからには、上層部の了解を取っておかなきゃ、ということになったの。」
電話の向こうで話を進めながら、パットが私の反応を窺っているのが分かります。
「で、まずフランクに話してみたのね。」
フランクというのは、新PMツールを所管する上席副社長で、全米どころか世界の全支社を統括する重要人物です。思わず唸り声を上げる私に、やっぱりね、そのリアクションを待ってたわと言いたげな、小さい歓声を漏らすパット。
俄然、話が深刻になって来ました。
新ツールの登場で、EAC更新を含めたあらゆるPMプロセスが統合される。これはPM達の生産性を飛躍的に伸ばす革新的なツールなのだ、と標榜する立場にいるフランク。そこで「このツールは不十分で、シンスケの作ったエクセルファイルがその欠点を補いますよ。」と吹聴すれば、彼の顔に泥を塗ることになりかねません。
「安心して。EAC更新が簡単な作業じゃないことは、彼も重々承知しているの。何か補助的なツールが必要だという話はずっとして来たのよ。だからすごく興味を持ってるわ。」
ほっと息をつく私。
「ただね、今回あなたの作ったツールを本社発信のトレーニングで紹介することになれば、それなりの覚悟が必要になるの。」
何万人という社員に提供し、その評判が悪ければ、「本社はこんなガラクタを推薦したのか」という不満を煽りかねない。パットはおろかフランクの信用も地に堕ちるでしょう。
“It must be bulletproof.”
「ブレットプルーフである必要があるの。」
ブレットプルーフとは、防弾性能付きということ。つまり、多少手荒に扱っても誤作動を起こすことのない完璧なツールが要求される、というのです。そして、全米の重鎮たちに予め了解を取ってから紹介する運びになるだろう、その過程で誰かから痛烈に批判されてポシャる可能性は充分ある、と。メンツを潰されたとか、肩書も無い一社員の作ったファイルなんか信用出来るか、などという理不尽な理由で撃墜されることだってあるでしょう。
「どう思う?」
一瞬固まった後、こう答える私でした。
“Exciting but scary.”
「ワクワクするけどビビるね。」
もともと、「こんなんありますけど、ど~でっか?」くらいの軽いノリで彼女に紹介した自作ツールです。こういう展開になるとは夢にも思っていませんでした。緊張感のインクが、脳からじわじわと全身の毛細血管に広がって行くのを感じます。気が付くと、背筋がぴんと伸びていました。
「これを何万人もの社員が使うことで生産性が一気に向上する場面を想像したら、興奮せずにいられないよ。でも出来ることなら、あくまでひとつの解決策としてこのツールを提案する立場を貫きたいんだ。既に他の方法を使ってうまく行っている人に、僕のツールを押し付ける必要も無いでしょ。」
一旦上層部の手に渡ったら我々のコントロールが及ばなくなる可能性を示唆しながらも、私の基本スタンスに賛同するパット。そして彼女が、こんなことを言いました。
“If someone has already
built a better mouse trap, that’s fine.”
「もしも誰かがより優れたネズミ捕りを作ってたのなら、それで結構じゃない。」
ん?ネズミ捕り?私のワークブックをネズミ捕りになぞらえているのか?さっきは「ブレットプルーフ」などというカッコイイ単語まで持ち出したくせに…。
電話を切った後、若い部下のアンドリューに、Build a better mouse trapというフレーズの意味知ってる?と尋ねてみました。
「Reinventing the wheel(車輪の最発明)と同じじゃないっすか?」
Reinventing the wheelとは、既に完成形が出来ている製品を開発する、つまり無駄な作業をする、という意味。
「いや、そうかな。だとすると文脈と合わないな。」
私がたった今パットと交わした会話の内容をかいつまんで話したところ、彼がネットで検索を始め、さっと顔を赤らめました。
「あ、全然違いましたね。」
これは、Ralph Waldo Emersonという人の言葉が誤解含みの変容を遂げて広がった表現だそうで、全文はこれ。
“Build a better
mouse trap, and the world will beat a path to your door.”
「より優れたネズミ捕りを発明すれば、人々がどっと押し寄せるだろう。」
ネズミ捕りというのはアメリカで最も頻繁に改良が加えられて来た製品だそうで、それだけ利用者数が多いということでもある。だから従来品より性能の良い装置を発明すれば、巨大マーケットが反応して大成功に繋がる、という話。つまりパットは、「このワークブックよりも強力なツールを既に誰かが作っていたとしたら、そっちを使えばいいじゃないか」という私のスタンスを、イディオムを使って表現してくれたのですね。
「シンスケのワークブックが、いずれ全社標準になるかもしれませんね。そしたら一躍有名人ですよ。」
と興奮の笑みを浮かべるアンドリュー。
プロジェクトの成功を陰で支え、PM達が笑顔になる。その喜びを糧にこれまで粛々と任務を遂行して来た私。ワークブックを全社にシェアすれば、より多くのPM達を幸せに出来るでしょう。そんな欲求に突き動かされてがむしゃらに進んだ結果、上層部の誰かの逆鱗に触れてバチンと潰される、そんな哀れなネズミになり果てる可能性は充分あります。でも、ここは行くしかないでしょう。
勝負です。
Yes! That's the spirit! Go for it!
返信削除I can feel you're trembling with excitement.
Go, mighty mouse go!
Astonish them with your handmade tool!
Click!
ご声援ありがとうございます!どうなるか楽しみです。
返信削除慣用句が本来の意味とは逆に使われていることは日本でもよくあるよね。
返信削除http://www.womannews.jp/lifestyle/housework_lifestyle/25986/
あんまり固くならずに、新システム使用にあたってのチョットしたコツみたいな形で紹介したら、皆の顔が立つのではないかね。