2021年1月17日日曜日

Water Cooler Moment ウォータークーラー・モーメント


東海岸のパットとは、数年前から時々電話で連絡し合う仲。一度も対面したことが無いにもかかわらず、いつの間にかまるで数十年来の仲間のように忌憚なく物が言える関係になっていました。そもそも彼女が本社副社長として転職して来たのは、我社にプロジェクトコントロール部門を立ち上げて技術標準やトレーニングプログラムを作ってくれ、と当時の上席役員ボブに口説かれてのことでした。ところがそのボブがあっけなく解雇され、更に立て続けに起こった政変の煽りを受け、今や一人の部下も持たず孤軍奮闘。その境遇は(職階の差こそあれ)私のそれと似ており、何かバーチャルで「同じ釜の飯を食っている」ような親近感が湧くのですね。

そんなパットと先月中旬、久しぶりに近況報告会をしました。激動を続ける環境下、何とか健康に暮らしていること。理解ある伴侶のお陰でメンタル面も良好なこと。コロナ対応や大統領選を巡るニュースを見ていて、アメリカ国民のレベルの低さに嫌悪と幻滅を禁じ得ないこと。外国への移住を半ば本気で考え始めたこと。いちいち意見が一致するので、二人で大笑いしてしまいました。

「夫がね、カナダに引っ越そうかって言うの。安直に物を考えてすぐ口に出すのは私達アメリカ人の悪い癖よ、それこそ傲慢な国民性の現れじゃない、って釘を差したのよ。大体こっちがそうしたくたって、きっとカナダの方でアメリカ人はお断りって突っぱねて来るわよって。そしたら夫が真面目な顔で驚いて、確かにそうだなあって…。」

話題は、リモートワークの影響に移ります。社員同士の会話の中身が仕事関係の連絡や報告だけになりつつある。これは長い目で見ると深刻な問題だ。オフィスで顔を合わせていれば、自然と無駄話が増えてくる。実はその無駄話こそが、創造性の源なのだ。誰かの何気ない一言が脳を刺激して、自分だけでは到底思いつかないようなアイディアや行動に繋がる。職場に大勢集まることの真の価値はそこにある、と。

「ちょっと前に、ビジネス改善イノベーションとか何とかいう社内コンテストがあったじゃない。私、応募しかけたのよ。そしたら何ページも細々と記入しなきゃいけない書類が送られて来て、これこそイノベーションを阻む元凶じゃない、と呆れて止めちゃったのね。」

その時パットが提出しようと思っていたアイディアが、Virtual Water Cooler (バーチャル・ウォータークーラー)だとのこと。

「ほら、昔はどこのオフィスにも、冷たい飲料水を出す装置があったじゃない。みんなランダムにやって来て、水汲みがてらお喋りして。そういう場をね、バーチャル空間で作れないかしら、と思ったのよ。」

パットとの不定期電話連絡会は通常45分間としてあるのですが、次の発言は残りあと三分というタイミングで飛び出したのでした。

「私の今のキャリアだって、元はと言えばウォータークーラーでの同僚の一言から始まったんだから。」

こんなエピソードを聞いておいて、すんなり電話を切るわけにはいきません。

「ちょ、ちょっと待って。それ、どんな言葉だったの?」

「え?あ、そうね。う~ん、あと三分で話せるかしら。時間大丈夫?」

およそ35年前の話。大手エンジニアリング・ファームに就職した新婚ホヤホヤの彼女は、ボストンのオフィスで事務員として働いていました。さすがのアメリカでも当時は女性が技術屋として活躍することが難しく、もっとやりがいのある仕事がしたい、どこかにチャンスは無いものか、と欲求不満を溜め込んでいたパット。そんなある日、ウォータークーラーへ水を汲みに行った際、顔は知っているけど名前はちょっと、という程度の同僚と立ち話になりました。もうすぐ転職するというこの男、自分が関わっているオハイオ州の原発設計プロジェクトについて暫く語った後、興奮を顕にした彼女に気づき、シンシナティ支社で人を募集しているらしいよ、興味があるなら、とメモ用紙に連絡先を書いて渡してくれたのです。

メモ用紙を手にデスクに戻って暫く考え込み、それから勇気を出して受話器を取ります。何人かとやりとりした後、ようやくプロジェクトマネジャーとの電話面接をセットしてもらいました。そしてインタビュー当日。相手は良い人っぽいのですが、女性の採用は鼻っから想定していなかったらしく、通り一遍の質問の後、「後日連絡する」と素っ気なくあしらわれてしまったのです。どう考えても不合格だわ、と気落ちして帰宅。ご主人に顛末を話したところ、彼がこんな入れ知恵をします。

「たまたま翌週、夫婦でバケーションを過ごすためにシンシナティを訪れる予定だったので、ご都合が合うようだったらランチを一緒にどうですか、と申し入れてみたらってね。」

シンシナティみたいに退屈な街を観光しようなどという物好きな人間はいないので、嘘はバレバレだった、というのが笑いのポイントだったようなのですが、そういうジョークが分からない私は、このボケをあっさりスルー。

「で、そこで直接PMと会って意気投合して、転属が決まったの。夫と一緒にボストンから引っ越して、この現場でプロジェクトコントロールのイロハを覚えたわ。数年後に終結したそのプロジェクトは会社史上稀に見る大成功を収めて、メンバー全員、各支社から引く手あまた。私も以後、次から次へと大きなプロジェクトを渡り歩いて実績を積むことが出来たの。今ここでこうしていられるのは、そもそも今じゃ名前も思い出せない同僚のWater Cooler Moment(ウォータークーラーでの無駄話)がきっかけだって話。」

なるほど、そいつは凄い。引っ越しも厭わず妻の転勤をサポートした旦那さんの存在も無視できない要素ではありますが、ウォータークーラー・モーメントの価値を実証する印象的なストーリーでした。結局予定を三十分もオーバーして電話を切った私ですが、この時ハッと我に返るのでした。

自宅勤務が一年近く続いているものの、通常通り仕事は出来ているし給料も順調に振り込まれている。以前よりむしろ健康ですらある。でもずっと何かが決定的に欠けている気がしていた。実はそれが、「無駄話」をする機会の喪失だったんだ。職場のキッチンやランチルームで同僚たちと交わす何気ない会話。それがあまりにも刺激的で、ワクワクしながらオフィスに向かっていた毎日。コロナで世界が一変した後、ブログを書く気すら失せてくすぶり続けていたのは、暗いニュースのせいなんかじゃなく、単に日々の無駄話が激減したからなんだ、とあらためて気づくのでした(よく考えてみたらこのブログ、そもそもネタ元はほぼ全部無駄話じゃん…)。

協議事項満載の電話会議でバタバタとスケジュールが埋まってしまいがちな昨今、偶然出くわした同僚と下らないやり取りをするなんて、まず実現不可能です。バーチャル・ウォータークーラーの成功は、「偶発性」という要素が最大の鍵。会社が効率向上を最優先事項のひとつに掲げている今、たとえトップダウンで導入したとしても、全社的な施行にまでは至らず忘れ去られることでしょう。

そこで私が提唱したい代替案は、無駄話を誘発するため同僚との電話会議を午後4時半頃セットすること。この時間になると誰もが疲労して頭も鈍くなり、5時を回った頃には集中力が切れてきます。そこですかさず業務上の話題は締めくくり、ところで最近どうしてる?なんて切り出すのです。リモートワーカーは帰り道を急ぐ必要もないので、いやあ、こないださあ、なんていう力の抜けた会話が始まるのですね。

これに気づいたのが、カマリオ支社のPMブレンダと夕暮れ時に話した時でした。過去一年半近く彼女のプロジェクトをサポートして来たのですが、財務管理ばかりに集中していたため、それまで技術的な内容に触れたことはありませんでした。しかしこの日午後五時を回った時、ふと仕事の中身を掘り下げて説明してもらったのです。

ロサンゼルスエリアで70年以上前に埋められた工場廃棄物による地下水汚染の対策がこのプロジェクトの目的で、人員整理で会社を追われた前のPMから引き継いだブレンダは、それまで技術チームの一員として活躍していました。

「第二次大戦中、兵器を大量生産した際に出た有害な物質が、地中にじゃんじゃん投棄されたのよ。」

同じ課題は全米中にゴロゴロしていて、彼女の担当プロジェクトはそのほんの一部を担っているに過ぎないとのこと。

「当時は将来の環境汚染なんて考える余裕が無かったんだろうね。戦争が終わって経済が回復し、暮らしが豊かになって初めて対策に乗り出す。人間って本当に愚かだよね。」

衣食足りて礼節を知る、という言葉があるけれど、そのポイントを経てようやく長期的視野を持てるようになるのでしょう。

「この手のプロジェクトって、今後アフリカとか中国とかで山程必要になって来るんだろうね。この分野の技術者は引く手あまたって状態が、当分続く気がするな。」

私のこの発言が導火線になり、ブレンダの壮大な「無駄話」がスタートしたのでした。

環境対策のプロジェクトに予算を回す余裕が出来るのは、コミュニティがある程度の豊かさを獲得してからのこと。世界中の多くの国はいまだに底辺の「サバイバル・モード」でもがいている。環境に関心を示すレベルに至る目処すら立たない国はいくらでもある、と。

数年前から西アフリカ地方のドラムとダンスにハマってサンタ・バーバラのダンスクラブに所属している彼女は、クラブ活動の一環で、過去アフリカ諸国を何カ国も訪問して来た。そのたびに大きなショックを受けている。

「たとえば、ギニーの野外マーケットでオレンジを買って食べるじゃない。皮を捨てようと反射的に周りを見渡すんだけど、ゴミ箱なんてあるわけないのよね。そもそもゴミ収集サービスが無いんだから。だから地面に捨てるしか無いの。心理的にはだいぶ抵抗あるんだけど、仕方ないじゃない。そこら中ゴミだらけ。ハエは飛び回ってるし、とにかく不潔極まりないのよ。飲み水を手に入れることすらかなりの難題でね。道路はほとんど舗装されてないし、走ってる車は信じられないくらいのポンコツだらけ。隣町の目的地まで移動するのに14時間。途中で車がエンコして何時間も助けを待ったりしてね。」

現地でドラムを教えてくれたギニー人と友達になり、彼の生活ぶりを聞いたところ、15人家族が食べていくことの大変さを語ってくれたそうです。

「ショックなのはね、百米ドル(約一万円)あれば15人が一ヶ月食べていけるっていうことなの。栄養失調との戦いに家族が勝つのに、たったそれっぽっちのお金で済むっていうのに。」

それ以来、友情と感謝の印として、毎月百ドル送金しているというブレンダ。

「私だって格別高給取りってわけじゃないけど、外食とかちょっと控えるだけで月百ドルくらいの余裕は出るでしょ。それであの家族が救えるんなら、安いものよ。」

気がついたらもうすっかり日は落ちて、私の部屋も暗くなっていました。ブレンダとの電話を切ったのは、6時過ぎ。なんとも長大な無駄話でしたが、私の心は暫く大きく揺さぶられていたのでした。コロナとリストラの煽りを受けて目が回るほど忙しく、自分だっていつ職を失うかも知れないストレスフルな状況で、地球の裏側でたった一度だけ会った人とその家族をサポートしているブレンダ。こんな素敵なこと、僕に出来るだろうか…?

ウォータークーラーの無駄話というのは、水面にポトリと落ちる水滴みたいなもの。そこから広がる波紋の持つ振動数がもしも聞き手の固有振動数と一致すれば、共振現象が起きる。聞き手の心の揺れを増大させ、その後の言動に確実な変化を与える。その人が別の人に無駄話をし、更に共振が起き、と連鎖が広がる。そうしてじわりじわりと世界が変わって行く。世の中って、案外そういう感じで動いてるのかもしれないな、と思うのでした。

さて翌朝、いつものように夜明け前に家を出て、1万歩ウォーキングに向かいます。中央分離帯にユーカリプタスの巨木が連なる片側二車線の大通り沿いを、快調に十分ほど進んだ時でした。暗闇の中、遥か前方の中央分離帯十メートル以上上方から、何か人間のような輪郭の大きな影がすっと落下し、向かい側の車道上に「カツーン」と乾いた音を響かせたのです。そのまま歩みを進めて行くと、後方から走行して来た車が次々と急ブレーキをかけ、ゆっくりとその落下物を迂回して行くのが見えました。気がつくと、私は車道を横切り、問題の地点に小走りで向かっていました。暗い中央分離帯を越えて目を凝らすと、どこか人間の身体つきに似たユーカリの大枝が、まるでたちの悪い酔っ払いのように、二車線を跨ぐ格好で横たわっています。急いで左右を確認すると、車道に降りて両手で枝の両脇を抱え、まるで気絶した人を引き摺るように中央分離帯まで移動させたのでした。よし、これで誰も下らない事故に巻き込まれずに済むぞ、とすっきりした気分でウォーキングに戻った私。

「へえ、すごくいい一日の始まりになったじゃない。」

午後になって妻と買い物に出かけた際にこのエピソードを語ったところ、彼女が感心してくれました。前日にブレンダから聞いたアフリカの話に触発されたことも話し、

「もしも昨日あの話を聞いてなかったら、今朝あんなにフットワーク軽く動けなかったかもな、と思うんだ。」

とウォータークーラー・モーメントの効果についてしみじみ語る私。

その日はトレーダージョーズ(TJ)で生鮮食品ショッピングの後、ウェストビーンズ・コーヒーに寄って焙煎ホヤホヤのフレンチローストを買う、という段取りになっていたのですが、TJのレジに並んでいた時、

「先に駐車場行っててくれる?トイレに行っときたいから。」

と妻。オッケー、じゃあ荷物積み込んで待ってるね、と私。運転席でスマホをいじっていたところ、間もなく戻ってきた彼女が、

「駄目だった。トイレはコーヒー屋で。」

と言うので、あれ?閉まってたの?と尋ねる私。

「違うの。前の人がね、信じられないくらい巨大なのを残して行ったの。」

「え?流せばいいじゃん。」

「一回は流そうとしたわよ。でも、びくともしないんだもの。」

「器具とか使って動かせなかったの?」

「なんで私がそこまでしなきゃいけないのよ?」

いや、次に入った人のためにさ、と言おうとして思いとどまる私。

「で?どうしたの?」

「レジの人に報告しといた。」

ブレンダのウォータークーラー・モーメントからスタートした共振現象の連鎖は、この「水に流せない」話であっけなくその終焉を迎えたのでした。