2018年8月5日日曜日

Elephant Memory エレファント・メモリー


先日、オフィス三階の大会議室で開かれる月次会議に向かうため、、ボスのテリーと話しながらエレベーターで降下していた時のこと。途中停止階で乗り込んで来た長身の白人男性が、一旦ドアに正対してからこちらに素早く向き直すのを視界の隅にとらえました。今、明らかに二度見したよな…。テリーとの会話が途切れるのを待って視線を移すのと、男性が再びこちらを振り返るのとがほぼ同時でした。

「あの…。僕ら、どこかで会ってるよね。」

眉間に皺を寄せ、記憶の糸を手繰り寄せようと懸命に意識を集中させつつ慎重に微笑む男。その瞬間、私の脳は超高速回転を終えていました。

「ビジネス・スクールで一緒だったんじゃない?フィルでしょ!」

アーバインで大学院に通い始めた頃、一学期間だけ同じクラスにいたフィル。きっとそうに違いない…。

「その通り!おお、やっぱりか!」 

と、興奮を滲ませるフィル。

「このビルで働いてるの?」

「うん、君も?」

「ああ、数年前からね。」

アジアからの一留学生だった私の顔を、彼が憶えていた。これは驚きでした。

「ええっと、君の名前は…。」

決まり悪そうに救いを求めるフィル。

「シンスケだよ。」

「そうだ!シンスケだ!」

エレベーターが三階に到着してしまったので素早く名刺を手渡し、近いうちにランチでも行こう、と言って別れたのでした。

テリーと会議室に向かいつつ、どうにも落ち着かない気分に襲われていた私。18年前に数カ月間同級だったものの、格別親しかったわけでもない人物の名前を自分が憶えていた。しかもそれがすっと口をついて出た。このことに我ながら驚嘆しつつ、なにか不気味な感じさえ味わっていたのです。僕ってこんなに記憶力良かったっけ?いやいや、そんなはずはない。最近は大事なことをどんどん忘れて行くし、特に固有名詞なんか記憶の沼の底に無数に沈殿していて、いくら釣り糸を垂らしたところで届く気配すら無い。なのにどうして「フィル」などという、取り立てて引っ掛かりも無い名前を即座に釣り上げられたのか?

さて金曜の朝、若い部下のテイラーと話していた際、彼女がこんなことを言いました。

「うちの父って、私が何十回も話したことですら片っ端から忘れていくの。夕食の席とかで、友達や同僚のエピソードを話すでしょ。そしたらまず間違いなく、Who?(誰のこと?)って聞き返すのよ。母の方は、何年前かに一度だけ話した友達のエピソードだって鮮明に憶えてるわ。ああ、その子とはあそこでご飯食べてこんなこと言われたんでしょ、って感じで。父は良く、私達に向かってこんなこと言うの。」

“You have an elephant memory.”
「君にはエレファント・メモリーがあるな。」

え?何その表現?と笑いつつ、急いでネットを調べる私。昔から象というのはどんなに細かいことでも正確に記憶し、決して忘れることがないと言われているようで、その超絶記憶力を「エレファント・メモリー」と呼ぶのだとか。テイラーのお父さんが言いたかったのは、こういうことですね。

“You have an elephant memory.”
「象並みの記憶力だな。」

そういえばうちの義母も、何年も前に娘から聞いたエピソードを詳細に憶えていて、こないだの一時帰国で久しぶりに会った高校時代の友達がね、みたいな話を聞いても、「それってどの子だっけ?」みたいな野暮なことは言いません。抽斗から丁寧に取り出した古い記憶に新たなストーリーを継ぎ足して収納し直す作業を、さりげなくこなすだけ。

記憶に関して男性からこの手の話を聞くことは滅多に無いので、「エレファント・メモリー」というのは女性特有の能力なのかもしれない、と思う一方、フィルの一件もあったことだし、ひょっとすると私にも「象の記憶」は眠っているのかもしれない、と考えるのでした。これはすごいことだぞ。刻まれた記憶の回収メカニズムさえ解明して使いこなせれば、今後何かを思い出せずに苦しむなんて事態からオサラバ出来るじゃないか…。

テイラーが半ドンを終えて去った後しばらくして、一人の白人男性が廊下を歩いて来るのに気付きました。眼鏡をかけた、中肉中背の壮年。全く見覚えがありません。ところが先方は私の目を見ながら、真っ直ぐこちらに向かって近づいて来るのです。

How are you?(元気かい?)」

とにこやかに握手を求める男性。え?何?知り合い?瞬時に頭を回転させますが、どこの誰だか皆目見当がつきません。元同僚?そもそもうちの会社の人なのか?向こうは明らかに、再会を喜んでいる様子。う~ん、このままだと沈黙の長さが気まずさの限界値に達してしまう…。その時思わず口を突いて出たのが、こんなセリフでした。

「しばらく見なかったけど、どこ行ってたの?」

一瞬無難な切り返しに思え、我ながら良く機転が利いたもんだと自己満足に陥りかけたのですが、よくよく考えればこれ、ちょっと前まで傍にいた人にしか使えない質問です。ほんの刹那、不審な表情が男性の顔に浮かびます。

「サンディエゴ空港の新規プロジェクトを勝ち取ったからね。それで今日、こっちに出向く必要があったんだ。」

と彼が応えます。このサービス・ヒントでたちまち記憶が呼び覚まされるだろうと踏んだのかもしれませんが、私の脳波はピクリとも動きません。空港プロジェクトのチームメンバーに、こんな人いたっけ?

「そうそう、本当に良かったね!とんでもなく大きなプロジェクトだもんね。」

と調子を合わせながらも、途方に暮れる私。う~ん、呆れるくらい何も浮かばないぞ。誰だ、この男?

「レズリーいる?彼女から契約書のサインを頼まれてるんだけど、PDFに電子サインをするためのソフトを持ってなくてね。」

と畳みかける彼。

「彼女は今日、出社してないよ。ソフトのアップデートは出来ないの?」

「いや、それをやってる時間は無いんだ。ファイルを君にメールしたら、プリントアウトしてくれる?そしたらペンで直にサイン出来るだろ。」

この時まで、彼の方でも実はこちらの名前を憶えていないんじゃないか、と勘繰っていました。だとすれば、ここら辺りで名前を聞いて来るよな。そしたら五分五分とは言えないまでも、記憶の弱さを責められるいわれもない。

ところがあろうことか、男性は私の名も尋ねずに踵を返し、廊下の向こうのビジター用オフィスに入って行ったのです。そして間もなく、彼からメールが届きます。なんとこれが、オレンジ支社のマイク。北米地域の航空部門を束ねる超大物でした。今回獲得した空港プロジェクトのクライアントに会って契約書にサインするため、サンディエゴを訪れたようなのです。そういえば彼には三年ほど前、オフィスに呼ばれて十分ばかり質問に答えたことがあるけど、普通そんな短い会話だけで相手の顔と名前を憶えるか?

慌てて彼の座るビジター用オフィスへ走り、

「マイク、これって裏表印刷した方が良いんですか?」

と、さも最初から彼の名前を憶えていたようなふりをする、姑息なボケ象。

「ああ、有難う。二部プリントしてくれないかな。相手に返送する分とうちの保管分ね。」

ニッコリ笑う、巨象のマイク。

つくづく、大勢の人の上に立つ人間って記憶力が半端じゃないよな…。エグゼクティブとの実力差を思い知らされた、金曜の午後でした。


4 件のコメント:

  1. アガサ・クリスティーのミステリーで、好きな作品のタイトルが”Elephants Can Remember"です笑。

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  2. ポアロシリーズ長編32作目!名探偵のスゴイ記憶力を語る回かと思いきや、全然違ったのですね。

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  3. 人の顔と名前を覚える能力もさることながら、エラくなる人は「地獄耳」であることが多いような気がするね。

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    1. 映画「ウォールストリート」でゴードン・ゲッコーが言ってたな。「世の中で最も大事なのものが何かわかるか?情報だよ。」この手の人たちは、情報を大量に集めて分析し、それを憶えちゃうんだよね。偉くなるだけのことはあるよ。

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