カマリヨ支社のケンから電話が入ったのは、金曜の12時ちょっと前でした。
「さっきのメール、読んだ?」
彼とは、「最近同じ巨大プロジェクトにチームメンバーとして参加している」間柄。私の記憶が正しければ、まだ会ったことも話したこともありません。彼自身がPMを務めるプロジェクトに深刻な問題が発生していて、その解決に助けが欲しいというメールをこの数分前に受け取ったところ。でも彼のプロジェクトに関わりは無いし、予備知識ゼロです。そんな僕に一体何を求めてるんだろう?そもそもケンがPMをやってることすら、この時初めて知ったのでした。
「参っちゃうよ。下請け会社の奴が怒り心頭でさ。支払いがこれ以上遅れたら機械を停めるって言うんだ。所帯は小さいけど、あの会社の技術が無ければ俺のプロジェクトは成立しない。それほど重要な存在なんだ。返信する前に、まずは過去の請求書がどういう状況にあるかを調べたいんだ。どのシステムを開けばいいのか教えてくれないか?」
これで彼が連絡を取って来た理由が分かりました。我が社でPMとして認定されるには、専門分野での優秀さのみならず、財務会計分野や各種オンライン・システムに精通していることが要求されます。でも現実にそんなスーパーマンがいるはずもなく、多くのPMたちは誰かのサポートを頼まざるを得ない、というわけ。同じプロジェクトに関わるうちに、ケンは私が社内システムに詳しいことを知ったのですね。
「まずそっちの画面を見せてくれる?」
彼のコンピュータ・モニターをシェアしてもらい、電話で「そこクリックして。右側の表にハイパーリンクがあるでしょ。」とイントラネット内を丁寧に誘導する私。数分かけて下請け会社の請求書をひとつひとつ確認したのですが、問題の肝は、「何故我が社からの支払いが滞っているのか」です。これには複雑な事情があるんだ、と言うケン。
「三カ月前にクライアントのPMパトリックから、彼等の会計システムが刷新されると言われたんだ。だから既に期限切れの支払いも少し遅れるし、新しい請求書を送って来られても移行期のドタバタで紛失してしまうかもしれない、少し待ってくれ、と。で、言われるままに待ってたんだけどそこから連絡がぷっつり途絶えるんだな。何度メールを送ってもとんと返事が来ない。うちが支払ってもらえなければ下請けにも払えないだろ。イライラしてたら先月になって、知らない女性から突然連絡が入ったんだ。パトリックは会社を去って、私が引き継いだ、と。更に現契約は打ち切りになり、彼等のクライアントが引き継ぐことになったので、おたくと彼等とで新契約の締結をしないといけない。今後請求書はそちらへ送ってくれ。じゃあ過去の請求書はどうなるのか?と尋ねると、それは新しい契約書に基づいた新プロジェクトを立ち上げて、その下で払うことになる。じゃあ下請け契約も全部やり直さなければいけないじゃないか、ということになってバタバタと慌てて処理したんだ。ところが、新プロジェクトのスタート日が請求書の日付より後に設定されていたため、システムにはじかれちゃったんだ。」
このあたりで、集中力がだいぶ減退して来ているのに気付いていました。昼休みに突入してから随分経っていて腹ペコだし、事情が込み入っていて理解するのに根気が要るのです。ケンはここから更に、我が社の会計システムの複雑さとサポート態勢の不備に対する不満をぶちまけ始めます。
「一旦設定を終えた新プロジェクトのスタート日をさかのぼらせるのには苦労したよ。おまけに変更の電子決裁がようやく終わったっていうのに、その情報が支払いシステムに伝わっているかどうかが分からないんだ。問い合わせしたくても、インドかどこかで管理してるみたいで、連絡先すら分からない。オンラインで請求書の承認をしようとしても、エラーメッセージが出るだけで何の説明も無いんだぜ。一体どうしろっていうんだよ!」
初めて会話する相手によくここまでヒートアップ出来るな、と半ば感心しつつ、満を持して合いの手を入れる私。
“I know how you feel. It’s really
Kafkaesque.”
「分かるよその気持ち。全くもってカフカエスク(Kafkaesque)だよね。」
これは先日、同僚クリスティから仕入れた新しい英単語です。彼女もケンと同様、下請け会社への支払い遅延についての不満を漏らしつつ、
「うちの会社ってカフカエスクよね。」
と首を振ったのです。え?なにそれ?と質問すると、
「カフカ調の、とかカフカっぽい、って意味よ。」と
クリスティ。
「フランツ・カフカの小説で描かれるような、悪夢みたいに複雑で不合理な世界を指すのよ。」
組織が拡大するにつれ、個々の社員の存在感はどんどん薄れてきている。その一方で、社内手続きの煩雑さ、システムの難解さ、意思決定プロセスの不透明さは増している。たとえば自分が現在取り組んでいる社内レポートは、そもそも誰の指示によるものなのか。その情報は、誰が何の役に立てているのか。どうして夕方締め切りのレポート要求が今朝届くのか。何も分からず、聞こうともせず、ただただ指示通り一心不乱に作業している社員たち。ひとたび問題が起きると、誰に何をどう問い合わせればいいのか分からず途方に暮れるのよね、と。
「何でエスクっていうの?ライクじゃ駄目なの?」
と私。
「エスクの方が洗練されて高尚な感じがするでしょ。」
とクリスティ。ふ~ん、なるほど。「ロマネスク」もそうだね。他にどんな例がある?と尋ねると、暫く固まった後、(物知りの同僚)アンディに聞いて来る、と言って立ち去りました。そして間もなく戻って来て報告します。
「ルーベネスク(Rubenesque)って言葉があるって。ルーベンスっていう中世の画家がいるでしょ。ふくよかな女性の裸体で有名な。ルーベネスクっていうのは、ぽっちゃりした官能的なタイプのことを指すみたいよ。」
私がケンに放ったセリフは、こう和訳出来ると思います。
“I know how you feel. It’s really
Kafkaesque.”
「分かるよその気持ち。全くもって、カフカ的に複雑怪奇だよね。」
仕入れたばかりのクールなフレーズをドンピシャの場面で使ったことで、してやったりの私。しかしあろうことか、ケンはこれを無反応でスルー。あれ?伝わらなかった?そもそもこの単語、高尚過ぎてあまり流通してないのかも…。動揺する私を気にかける様子も無く延々と毒を吐き続ける、顔も知らない電話の主。おいおい、もう12時半だぞ。助けたいのはやまやまだけど、ランチタイムが無くなっちゃうじゃんか。午前中に終わらせようとしてた仕事も片付いてないし…。
その時、ケンが急に言葉を切りました。そしてこう私に告げたのです。
「ごめん。ちょっとボーイズ・ルーム(男子便所)に行ってくる。すぐ戻る。」
ガタガタっと席を立つ音。そしてドアの閉まる気配。え?嘘でしょ。まさか僕を電話口で待たせたままトイレ休憩?
三分近い静寂の後、まるで何事も無かったかのように受話器を取り上げ、溜息混じりの泣き言を続けるケン。財務部門のお偉いさんに対して特別措置依頼メールを書くことを勧め、電話を切ったのは12時45分でした。
遅いランチへ出かける前、椅子に腰かけたままひとしきり考えました。今のケンの行動は、アポ無しで病院に飛び込んで診察料も払わず医者に助言を乞い、挙句に突然尿意を催したからと中座するようなもんだよな。あっけに取られるあまり咄嗟に反応出来ませんでしたが、やっぱりどう考えても非常識だろ…。
これって「何エスク」?