2016年9月5日月曜日

アメリカで武者修行 第36話 説得したわけじゃないんです。

ある日、老ジョージが私のキュービクルにやって来ました。
「来週から、非常勤の相談役のような立場になる。このオフィスに顔を出すこともほとんど無くなるだろうから、君にPMの座を引き継がないといけない。」
高速道路設計プロジェクトは訴訟状態にもつれこみ、未だに終結出来ずにいるのです。
「とは言っても、大物の課題はほぼ解決済みだから安心したまえ。PB社のケンがクラウディオの後を引き継いでいるから、JV側の業務は彼がほとんどやってくれる。やっかいなのは下請け契約の終結だが、そこは君の得意分野だろう。頼んだぞ。」

二年前、苦しい職探しの末にようやくこのプロジェクト・チームに潜り込んだ時点では、自分がいずれPMになるかもしれないなどと、想像もしませんでした。銃声が消えた焼野原の戦場を見渡し、所属部隊で生き残った兵は自分一人なのだと、ようやく気付いたような格好です。

数日後、ダウンタウンにあるPB社のケンを訪ねました。彼は韓国系アメリカ人。JVチームのプロジェクト・ディレクターという肩書です。髪に少し白い物が混じってはいますが、年齢は私とほとんど変わらないでしょう。終盤でいきなりプロジェクトに飛び込んで来た彼は、細かい経緯を知りません。私の持つ断片的な記憶と、彼がクラウディオから引き継いだ書類上の知識を寄せ集め、二人でプロジェクトの終結に取り組むことになったのです。

大会議室のテーブルに、まるでトランプの七並べのようにずらりと書類を並べ、つぶすべき大小百以上の課題を二人でひとつひとつ洗います。彼はリストを見ながら、一件ずつ内容のおさらいをして行きます。その中に、喉に刺さっていつまでも抜けない魚の小骨のような、悩ましい一件がありました。
「これは、どういう話だったっけ?」
と、手にしたリスト越しに、ケンが私の顔を覗き込みます。
「現場担当者から口頭で追加作業を頼まれたという測量業者に対し、文書による事前の合意が無いという理由で、6千ドルあまりの支払請求を拒否したんです。先方の担当者アンディが、下請けをイジメる酷いJVだ、州政府に訴えてやる、と、脅迫めいた手紙を寄越して来たため、当時私の上司だったフィルと一計を案じ、元請けのORGに対して追加請求をしました。ところがその後、元請けとの訴訟騒ぎになったため、この件は脇に追いやられてしまったんです。それで未だに下請け契約が閉じられない、というわけです。」

現場事務所の食堂で、テーブル越しにすがるような目で6千ドルの支払いを懇願するアンディの顔が蘇りました。
「払ってくれるまでは契約終結書にサインしない、と彼が言い張ったらどうしましょうか?」
「難しいね。シンスケはどう思うんだ?」
「個人的には、全額支払うべきだと思ってます。こっちはちゃんと成果品を受け取っているんですからね。なのに対価を払わないというのは、道義的に許されないでしょう。でも契約担当の立場で言えば、やはり突っぱねるべき話です。法的には、契約外の仕事に報酬を払う必要はないからです。我々自身も、同じ仕打ちをORGから嫌と言うほど受けて来ましたからね。」
元上司のリンダから「タフになりなさい」と日々どやしつけられて来たお蔭で、感情を捨ててビジネスマンとしての判断をする習慣が身についていました。とは言え、これは疑いようも無く理不尽な行為です。日本の公的機関で14年間も働いて来た私には、辛い葛藤でした。
「よく分かった。それじゃあ半額の3千ドルを譲歩の限界点としよう。それでも手を打たないと言い張るようだったら、一旦退いてくれ。」
ケンが妥協案を出してくれたことで、ほっとしていました。これで、「喧嘩両成敗」という理屈を持ち出して穏便に契約を閉じるオプションが出来たのです。

薄曇りの金曜日、住所を頼りにアンディのオフィスを訪ねました。鞄の中には、サイン欄に付箋を貼り付けた下請け契約終結書二通、それから三千ドルの小切手が入っています。土捨て場と見られる広大な空き地に面した、灰色の工業団地。舗装の無い駐車場で車を降り立つと、タイヤに巻き上げられた砂煙が霧のように立ち込めていました。数社の会社名がひしめく雑居ビルの入り口で、受付嬢と見られるブロンド女性に名前を告げます。彼女は暫くの間、ガムを噛みながら眠たげな目で私の顔を見つめた後、
「今呼んで来ます。」
と奥に引っ込みました。土埃でまだらに汚れた紺色のソファに浅く腰かけ、アンディを待ちます。段ボール箱やスコップ、錆びた測量道具などが乱雑に積み上げられた狭い待合室の壁には、ハクトウワシが力強く飛翔する写真がかけられていました。写真の下に、くっきりとした活字体で、SUCCESS (成功)と印字されています。額縁が右側に大きく傾げているのが気になり、立ち上がって水平に戻しました。

その時、ノーネクタイにYシャツ姿のアンディが元気良く現れました。
「ハーイ、シンスケ、よく来てくれたね。」
握手の手を差し伸べ、屈託なく歓迎の笑顔を浮かべます。遺恨のかけらも見せぬ明るい振る舞いに、まさかこちらの油断を誘っているのでは、と裏の意図を勘繰って反射的に身構える私。

小ぶりな会議室のドアを開けて私を招き入れたアンディが、会議机のパイプ椅子を引くと、そこに段ボール箱が載せられているのに気付きました。決まり悪そうにこれを床に下ろし、私の着席を促します。
「さっそくだけどアンディ、メールに書いた通り、今日は下請け契約を閉じるために来たんだよ。」
と単刀直入に切り出して、書類をテーブルに拡げる私。
「うん、分かってる。どこにサインすればいいんだい?」
とアンディは、書面に視線を走らせつつ、シャツの左胸ポケットに挿してあった万年筆を右手でひょいと取り上げます。まるで過去のいざこざなど、とうの昔に記憶から消し去ったとでもいうように。
「アンディ、わざわざ蒸し返すこともないかもしれないけど、追加業務の扱いについては、あらためてJV内部で話し合ったんだ。」
彼がペンを置いてさっと右手を上げ、セリフの続きを制します。
「シンスケ、今日は見せたいものがあるんだ。」
アンディはくるりと椅子を回すと、背後の棚に置いてあったクリップボードをつかみました。
「これを見てくれよ。」
書類のトップに書いてある太字のタイトルが、真っ先に目に飛び込みます。

Field Change Request Form
「現場変更要求書」

「六千ドルの件では、社長に散々絞られたよ。暫くは、君たちJVのやり口を恨んだもんだ。でもね、頭を冷やしてよく考えたら、追加業務を始める前に文書で確認を取らなかった僕らにも非があるんだな。そこで僕が作ったのが、この様式だ。あれ以来、現場に行く人間には必ずこれを持たせるようにしてる。作業中にクライアントから変更指示を受けた場合、これをパッと差し出してサインを貰ってるんだ。こいつのお蔭で、二度と痛い目には合わなくなった。六千ドルは高い授業料だったけど、今じゃ、あの一件があって良かったとさえ思ってるんだ。」
苦い経験を梃に、大幅な業務改善を成し遂げた。逆転ホームランをお見舞いしてやったぞ、という誇らしさが、光線のように彼の顔から放射しています。
「うん。これは素晴らしいね。こんな書類を差し出されれば、追加業務を頼む側も曖昧な指示が出来なくなるしね。」
参考にするから一枚持ち帰っていいか、と尋ねられるのを待つかのように私の顔を暫く見つめていたアンディは、それほどまでの賞賛を私から引き出すことは出来ないと悟りながらも、感心は本物であることを確認して満足したようで、二通の契約終結書に素早くサインしました。そしてにこやかに立ち上がると、さっと右手を差し出しました。
「これからも、末永くお付き合いを頼むよ、シンスケ。」
彼の手を握り返すまでのほんの一瞬、思考が目まぐるしく交錯しました。今ここで三千ドルの小切手を鞄から取り出せば、望外の出来事にアンディは感激するだろうか。いや、むしろプライドに輝いた彼の顔に、泥を塗ることになるかもしれない。いや待てよ、小切手を見せずとも、用意したオプションをほのめかして彼の反応を見るくらいはするべきじゃないか…。

砂煙越しに小さくなっていくアンディの姿をバックミラーの中におさめながら、ゆっくりと車を走らせる私。オフィスに戻って会議室の扉を内側から閉め、ケンに電話で首尾を報告しました。
「そうか。よくやったな。小切手は破棄しておいてくれ。こっちの帳簿からも消しておくから。それにしても、よく説得出来たな。」
「いえ、説得したわけじゃないんです。」
「まあいいよ。とにかくこれで一件落着だ。」

電話を切って椅子を回転させると、窓の外が刻々と夕暮色に染まって行くのを、暫く眺めていました。次に鞄のジッパーを開け、受け手を失った小切手を取り出して机の上に載せ、部屋がすっかり暗くなるまで見つめていました。


5 件のコメント:

  1. シンスケさん、はじめて投稿致します。ロンドンビジネススクールでMBAを学んでいるものです。1年前にふと検索でひっかかって以来、過去のポスト全て含めて拝見しております。いつも非常に楽しく、かつ勉強になる内容で、アップデート楽しみにしております。どうぞお身体にお気をつけて。

    返信削除
  2. ビジネス・スクールの宿題で大忙しでしょうに、わざわざ時間を使ってコメント頂き有難うございます。全て読んで頂いているなんて感激です。勉強頑張って下さいね!

    返信削除
  3. 全く違った話で失礼するが、
    昔日本で流行ったロボットコンテストがアメリカではアメリカ風の進化を遂げているみたいだね。リンク先の番組の後半部分を見てみてチョ
    http://www.miomio.tv/watch/cc287703/

    番組でつけているBGMはエヴァンゲリヲンなんだが、オイラの頭の中にはチキチキマシンの主題歌が流れていたヨ

    返信削除
  4. 残念ながら、リンク先は視聴出来ませんでした。なんか怪しげなポップアップ・ウィンドウが立ち上がるのでビビッて閉じました。そういえば先日NHKで、日本のものづくり技術と人工知能の融合によってロボット産業の急速な発展が見えて来た、と言ってました。楽しみだね。

    返信削除
  5. それはスマんかったね。YoutubeにUPされてる動画はこんな感じ。
    https://www.youtube.com/watch?v=rpKRMKqIgJc

    バトルボッツ、日本でも放送して欲しいナ。
    番組で紹介されたヤツの方がコンパクトにまとめられてて面白かったので。先のリンクを貼ったのだが、人気番組はすぐに見れなくなるみたいヨ。

    返信削除