木曜日はサンクスギビング(感謝祭)の祝日でした。大ボス・テリーのホーム・パーティーに招かれ、近くに住む日本人の友人母娘と五人で参加。アメリカの感謝祭というのは日本の元旦に近い位置づけで、家族大集合してターキー料理を楽しむのが一般的です。事前に同僚達に予定を聞いたところ、「夫婦それぞれの両親の家へ隔年で行く」とか「兄弟持ち回りでホストを務める」というパターンが多く、心理的・肉体的・金銭的負担のためか、必ずしも心待ちにしているわけではない様子。たとえ親子や兄弟でも離れて暮らすうちに段々とカルチャーが変わって来るもので、折角集まっても大して話が弾まず、時にはくすぶっていた紛争に再び火がついて大荒れになることすらあるのだと。「楽しみだけどちょっぴり気が重い時もある行事」、というのが共通イメージのようです。
私が家族や親戚と遠く離れて暮らすことを知ったテリーは、哀れに思ってか誘ってくれるようになったのですが、去年参加した時には二十人以上の出席者ほぼ全員が彼女の血縁者で、さすがに居心地の悪さを感じました。しかしさすがはテリー、細かい気配りで、同じ年頃の子供がいるという夫婦の席に我々を案内し、会話を楽しませてくれたのでした。
今年は更に参加者が増え、総勢32名。午後三時半頃食事の準備が完了し、テリーの号令で五歳の子供から老人まで全員パティオに集合します。そして隣の人と手を取り合い、大きな輪を作りました。
「皆集まってくれて本当に有難う。これから順番に、自分の名前、それから他の出席者との関係を言ってくれる?全員の自己紹介が済んだら、お祈りをして食事開始ね。じゃ、お父さんから。」
一人、また一人とゲストのスピーチが続きます。
「○○です。テリーのいとこです。」
さて僕は何を言えばいいかな、と考え始めた時、ふと右の視界に気になる動きが映りました。おそらく三十代半ばでしょう、アメフトでもやってるんじゃないかと思わせる太い首にスポーツ刈りのイケメン白人男性が、天を仰ぎながら微かに首を振り、溜息をついたのです。そしてクスリともせず、手を繋いだ隣の女性に囁きます。
「あ~あ、始まっちゃったよ。こういうの、長くなるんだよな。料理が冷めちまうじゃねえか。」
和気あいあいのパーティーで、みんながちょっとずつ心に抱いているかもしれない冷めた本音を露わにしたこの男。俄然興味をそそられた私は、それから彼の発言に耳をそばだてるようになりました。
「もういいだろ。さっさと次行こうぜ。」
誰かの話が長引きそうな空気を察知する度に、本人にギリギリ届かない程度の微妙なボリュームで呟く男。彼の順番が来ると、
「クリスです。今日はターキーを捌くために呼ばれました。」
ぶっきら棒にそう唱えて黙り、隣の女性に目配せで発言を促します。
「ジュリーです。クリスのガールフレンドです。お招き有難うございます。」
それから三人ほど経て、私の番が来ました。
「シンスケです。テリーの部下で、彼女から30フィート離れた席で働いてます。」
クリスの気に障らぬよう、手短に切り上げてさっさと隣にバトンを渡します。
「トレースです。僕もテリーの下で働いてます。」
と軽くおどけるテリーのご主人。どっとウケる集団。
全員の自己紹介が終了し、最長老と見られる白髪の白人男性が落ち着いた声でお祈りを始めます。遠すぎて何を言っているのかほとんど聞き取れませんでしたが、神様に対する日々の感謝を連ねていることは分かりました。この感じ、去年初めて参加した時はちょっぴり抵抗ありました。僕らクリスチャンじゃないけどいいのかな。知らない人と手を繋いで輪になるってのもちょっとな、と。でも今年は二回目なので、落ち着いていました。皆にならって目をつむり、少し俯く私。右側では妻が何の躊躇も見せず、しっかりとうなだれている。ふと気になって右目の端でさっきの男性クリスをちらりと見ると、相変わらず憮然とした表情のまま、目もつむらず顎を上げています。そして食事開始の合図を聞くと、「やれやれ」と小声で溜息をつき動き始めました。
ゲストの長い列に並んでフォークを手に取り、キッチンカウンターに置かれた十種類以上の大皿料理(ターキー三種類、サラダ、キャロットゼリー等)を少しずつ載せて庭へ出ます。そしてパティオに据えられた大テーブルを囲んで腰かけると、そこにいた人々との会話が始まりました。私の正面に座ったテリーの娘テイラー、そしてその横にいた彼氏に、今の仕事の内容やバックグラウンドを聞き出します。テイラーは先月まで博物館で働いていたのですが、非営利組織のマネジメントに興味を持ち、修士課程に通い始めました。お母さんのテリー同様、相手の目をしっかり見つめ、情熱込めて語る彼女。一方彼氏は物静かで、テイラーの話に相槌を打ったりデザートを運んで来たりして、彼女を喜ばせます。
テイラーがオハイオの大学に行っていた頃の寒い冬の話を出したところ、左の方からジュリーの声が飛び込んで来て、生まれ故郷ウィスコンシンの尋常じゃない寒さのエピソードで対抗します。私の妻もミシガンでの大学院生時代の話を持ち出しますが、それを凌ぐ極寒ストーリ―をぶつけてくるジュリーの勢いに押され、そのうち黙ってしまいました。
陽が落ちて冷えて来たから、とテイラーが彼氏を従え屋内に入ってしまったため、気が付くと大テーブルは、お喋りトーナメントを勝ち抜いたジュリーの独壇場になっていました。その間彼女の隣で、無表情のままうつむきスマホをチェックしたり靴をいじったりしているクリス。この人、本当にターキーを切り捌くためだけに呼ばれたのかな、と勘繰ってしまうほどテンションが低いのですね。しかし本当はそうじゃないことを、私は知っていました。実はこのちょっと前にキッチンを通りがかったところ、ピカピカに光る長いナイフ数本を茶色い革で巻き取るように収納している現場に出くわしたので、すごいの持ってるんだね、と感心したところ、
「今日のために買ったんだ。使うのは初めてだよ。」
と微かに顔を赤らめたクリス。あ、この人単にシャイなのね、と悟った次第。それにしても、ニコニコ顔が通行手形のホーム・パーティーで露骨な仏頂面を貫き通す彼。こんな生き方も潔くていいな、とちょっぴり羨ましく思っていた私でした。一度そういうキャラを作ってしまえば、どこに行っても本音で過ごせるかもしれないじゃないか、と。
セールスの仕事をしているというジュリーは、自分をはるかに上回るハイテンションのボスに仕えているといいます。電話会議で参加者に画面を見せながら司会進行している時でも、用事があれば構わずがんがんメールして来るのだと。そしてジュリーが返信しないと、一分もしないうちにテキストが入り、それでも反応無しとなれば携帯に何度も電話して来る。
「彼女に悪気は無いのは知ってるの。でもそんな調子でせっつかれると、こっちも鬱憤が溜まるじゃない。」
そんなストレス発散のため、毎日欠かさずジムに通っているというジュリー。スマホのアプリで記録している自分の脈拍などのデータを我々に見せてくれました。
「え?158って高くない?」
「もともと私、すっごく心拍数が高いのよ。子供の頃から水泳やってるし。」
透き通るような青い目を見開き、あけすけに私生活を語り続けるジュリー。そのうちウィスコンシン出身者に特有のなまりの話、それから土地によって違う固有名詞の使い方や独特のスラングやイディオムに話題が移った時、妻が、
「シンスケはそういう話、大好きなのよ。」
とこちらを振り返ります。ジュリーはここでぐっと身を乗り出し、「いいのあるわよ!」と目を輝かせました。
「クリスって、時々私も知らないようなイディオムを使うの。」
ぴくっと反応して隣のクリスが顔を上げます。「たとえばね」、とジュリー。
“Six of one, half a dozen of the
other.”
「六個と半ダース」
え?何それ?今何て言った?と聞き返す我々。ここでクリスがおもむろに説明を始めます。
「どっちのやり方で数えたって結果は同じだろ。二つの選択があって悩んでる人に、どっちに転んでも大して結果は変わらないよって言いたい時に使うんだ。」
我々と目も合わせず、いかにも詰まらなそうに吐き捨てるクリス。
「ほらあと、あれあったじゃん。犬のやつ。」
とジュリー。
“Sometimes you’re the dog, sometimes
you’re the tree.”
「犬の時もあれば木の時もある。」
ん?そりゃまた聞きなれないフレーズだな。どういうこと?と我々。
「犬は木におしっこかけるでしょ。かける立場とかけられる立場、両方を味わうことがあるって意味よ。つまり、人生良い時もあれば悪い時もあるってね。」
ジュリーが解説します。ほお~っ、なるほどね。
「木じゃなくてHydrant(消火栓)と言う場合もあるけどな。」
と肩をすくめて自分の靴を見つめながら補足するクリス。ジュリーによれば、彼はこの種の「斜に構えた」イディオムの宝庫らしいのです。表面を繕ってスムーズな人間関係を築くための努力などとは無縁の生き方を貫く男。日常生活で飛び出す慣用句群も、自然と真理を突いたものになっていくのでしょう。
午後六時近くなり、帰り支度を始めるゲストがちらほら出て来ました。電車で彼女とオレンジ郡へ帰るというクリスは、腕時計に目をやった後すっくと立ち上がると、周りの折り畳み椅子をてきぱきと片付けたりゴミを拾ったりし始めました。暫く快調に喋り続けていたジュリーもそれにようやく気付いて立ち上がり、我々とお別れのハグを交わします。そんな風にして、今年の感謝祭は終わったのでした。
翌朝妻から、やぶからぼうに「またやったわね」と、厳しい顔でたしなめられた私。え?僕、何かやらかした?と記憶を巻き戻しますが、何も蘇りません。
「ジュリーとさよならした時、身体のこと言ったじゃない。」
あ、そうだ。我々とハグをしようと彼女が立ち上がった時、185センチくらいあることに気付いて、「うわ、こんなデカかったんだ。」と思わず口に出してしまったのです。しかも英語で。他人の身体的特徴についての発言を極度に嫌い、この手の失言が飛び出す度にきっちり叱ってくれる妻。おかげで段々と社会性が身について来ており、感謝に堪えない私ではありますが、どこかちょっぴり窮屈に思っているのですね。
本音で生きられたら楽だろうな、と…。