2018年6月17日日曜日

Kafkaesque カフカエスク


カマリヨ支社のケンから電話が入ったのは、金曜の12時ちょっと前でした。

「さっきのメール、読んだ?」

彼とは、「最近同じ巨大プロジェクトにチームメンバーとして参加している」間柄。私の記憶が正しければ、まだ会ったことも話したこともありません。彼自身がPMを務めるプロジェクトに深刻な問題が発生していて、その解決に助けが欲しいというメールをこの数分前に受け取ったところ。でも彼のプロジェクトに関わりは無いし、予備知識ゼロです。そんな僕に一体何を求めてるんだろう?そもそもケンがPMをやってることすら、この時初めて知ったのでした。

「参っちゃうよ。下請け会社の奴が怒り心頭でさ。支払いがこれ以上遅れたら機械を停めるって言うんだ。所帯は小さいけど、あの会社の技術が無ければ俺のプロジェクトは成立しない。それほど重要な存在なんだ。返信する前に、まずは過去の請求書がどういう状況にあるかを調べたいんだ。どのシステムを開けばいいのか教えてくれないか?」

これで彼が連絡を取って来た理由が分かりました。我が社でPMとして認定されるには、専門分野での優秀さのみならず、財務会計分野や各種オンライン・システムに精通していることが要求されます。でも現実にそんなスーパーマンがいるはずもなく、多くのPMたちは誰かのサポートを頼まざるを得ない、というわけ。同じプロジェクトに関わるうちに、ケンは私が社内システムに詳しいことを知ったのですね。

「まずそっちの画面を見せてくれる?」

彼のコンピュータ・モニターをシェアしてもらい、電話で「そこクリックして。右側の表にハイパーリンクがあるでしょ。」とイントラネット内を丁寧に誘導する私。数分かけて下請け会社の請求書をひとつひとつ確認したのですが、問題の肝は、「何故我が社からの支払いが滞っているのか」です。これには複雑な事情があるんだ、と言うケン。

「三カ月前にクライアントのPMパトリックから、彼等の会計システムが刷新されると言われたんだ。だから既に期限切れの支払いも少し遅れるし、新しい請求書を送って来られても移行期のドタバタで紛失してしまうかもしれない、少し待ってくれ、と。で、言われるままに待ってたんだけどそこから連絡がぷっつり途絶えるんだな。何度メールを送ってもとんと返事が来ない。うちが支払ってもらえなければ下請けにも払えないだろ。イライラしてたら先月になって、知らない女性から突然連絡が入ったんだ。パトリックは会社を去って、私が引き継いだ、と。更に現契約は打ち切りになり、彼等のクライアントが引き継ぐことになったので、おたくと彼等とで新契約の締結をしないといけない。今後請求書はそちらへ送ってくれ。じゃあ過去の請求書はどうなるのか?と尋ねると、それは新しい契約書に基づいた新プロジェクトを立ち上げて、その下で払うことになる。じゃあ下請け契約も全部やり直さなければいけないじゃないか、ということになってバタバタと慌てて処理したんだ。ところが、新プロジェクトのスタート日が請求書の日付より後に設定されていたため、システムにはじかれちゃったんだ。」

このあたりで、集中力がだいぶ減退して来ているのに気付いていました。昼休みに突入してから随分経っていて腹ペコだし、事情が込み入っていて理解するのに根気が要るのです。ケンはここから更に、我が社の会計システムの複雑さとサポート態勢の不備に対する不満をぶちまけ始めます。

「一旦設定を終えた新プロジェクトのスタート日をさかのぼらせるのには苦労したよ。おまけに変更の電子決裁がようやく終わったっていうのに、その情報が支払いシステムに伝わっているかどうかが分からないんだ。問い合わせしたくても、インドかどこかで管理してるみたいで、連絡先すら分からない。オンラインで請求書の承認をしようとしても、エラーメッセージが出るだけで何の説明も無いんだぜ。一体どうしろっていうんだよ!」

初めて会話する相手によくここまでヒートアップ出来るな、と半ば感心しつつ、満を持して合いの手を入れる私。

“I know how you feel. It’s really Kafkaesque.”
「分かるよその気持ち。全くもってカフカエスク(Kafkaesque)だよね。」

これは先日、同僚クリスティから仕入れた新しい英単語です。彼女もケンと同様、下請け会社への支払い遅延についての不満を漏らしつつ、

「うちの会社ってカフカエスクよね。」

と首を振ったのです。え?なにそれ?と質問すると、

「カフカ調の、とかカフカっぽい、って意味よ。」と

クリスティ。

「フランツ・カフカの小説で描かれるような、悪夢みたいに複雑で不合理な世界を指すのよ。」

組織が拡大するにつれ、個々の社員の存在感はどんどん薄れてきている。その一方で、社内手続きの煩雑さ、システムの難解さ、意思決定プロセスの不透明さは増している。たとえば自分が現在取り組んでいる社内レポートは、そもそも誰の指示によるものなのか。その情報は、誰が何の役に立てているのか。どうして夕方締め切りのレポート要求が今朝届くのか。何も分からず、聞こうともせず、ただただ指示通り一心不乱に作業している社員たち。ひとたび問題が起きると、誰に何をどう問い合わせればいいのか分からず途方に暮れるのよね、と。

「何でエスクっていうの?ライクじゃ駄目なの?」

と私。

「エスクの方が洗練されて高尚な感じがするでしょ。」

とクリスティ。ふ~ん、なるほど。「ロマネスク」もそうだね。他にどんな例がある?と尋ねると、暫く固まった後、(物知りの同僚)アンディに聞いて来る、と言って立ち去りました。そして間もなく戻って来て報告します。

「ルーベネスク(Rubenesque)って言葉があるって。ルーベンスっていう中世の画家がいるでしょ。ふくよかな女性の裸体で有名な。ルーベネスクっていうのは、ぽっちゃりした官能的なタイプのことを指すみたいよ。」

私がケンに放ったセリフは、こう和訳出来ると思います。

“I know how you feel. It’s really Kafkaesque.”
「分かるよその気持ち。全くもって、カフカ的に複雑怪奇だよね。」

仕入れたばかりのクールなフレーズをドンピシャの場面で使ったことで、してやったりの私。しかしあろうことか、ケンはこれを無反応でスルー。あれ?伝わらなかった?そもそもこの単語、高尚過ぎてあまり流通してないのかも…。動揺する私を気にかける様子も無く延々と毒を吐き続ける、顔も知らない電話の主。おいおい、もう12時半だぞ。助けたいのはやまやまだけど、ランチタイムが無くなっちゃうじゃんか。午前中に終わらせようとしてた仕事も片付いてないし…。

その時、ケンが急に言葉を切りました。そしてこう私に告げたのです。

「ごめん。ちょっとボーイズ・ルーム(男子便所)に行ってくる。すぐ戻る。」

ガタガタっと席を立つ音。そしてドアの閉まる気配。え?嘘でしょ。まさか僕を電話口で待たせたままトイレ休憩?

三分近い静寂の後、まるで何事も無かったかのように受話器を取り上げ、溜息混じりの泣き言を続けるケン。財務部門のお偉いさんに対して特別措置依頼メールを書くことを勧め、電話を切ったのは1245分でした。

遅いランチへ出かける前、椅子に腰かけたままひとしきり考えました。今のケンの行動は、アポ無しで病院に飛び込んで診察料も払わず医者に助言を乞い、挙句に突然尿意を催したからと中座するようなもんだよな。あっけに取られるあまり咄嗟に反応出来ませんでしたが、やっぱりどう考えても非常識だろ…。

これって「何エスク」?


2018年6月10日日曜日

Cogs in a wheel 歯車のコッグ


月曜の午後。人類学チームのクリスティがやって来て、協力会社に対する我が社の冷酷な仕打ちについてひとしきり語りました。でも私みたいな一般社員には何もしてあげられないのよね、と溜息をつき、こんなセリフを呟いたのでした。

“After all, we are all cogs in a wheel.”
「結局私達ってみんな、ホイールのコッグなのよ。」

聞いたことのない言い回しです。特にCog(コッグ)という単語は初耳だったので、解説をお願いしました。

「ほら、大きな機械の中で動くホイール(歯車)があるでしょ。その一枚一枚の歯がコッグよ。つまり、私達ひとりひとりは組織全体から見たらちっぽけな存在だってこと。」

なるほど。つまりこういうことですね。

“After all, we are all cogs in a wheel.”
「結局私達ってみんな、歯車の歯なのよ。」

日本語にも、「俺たちは組織の歯車に過ぎない」という表現がありますが、これは更にそのスケールを落としたバージョンですね(歯車には「回転する」仕事があるけど、その歯ひとつひとつはただそこに立って役割をこなすだけなので)。

「なんか、じわじわと気が滅入って来る言い回しだね。」

と私。後であらためてa cog in the wheelの意味を調べてみたのですが、標準的な解説の中に、気になる表現がありました。

“Someone or something that is functionary necessary but of small significance or importance within a larger operation or organization.”
「機能的には必要だが大きな組織の中では重要性の低い存在」

少なくとも解説前段では、その存在の必要性が語られている。歯車の歯がいくつか欠ければ機械全体が停止する可能性もあるわけで、そう考えればこのフレーズも、ポジティブに使える場面があるんじゃないか?

「無いわね。」

その日の昼食時、ランチルームで左隣に座っていた同僚バレリーに尋ねてみたところ、即答で断言。

「生まれてこの方、ポジティブに使われるのを聞いたことなんて一度も無いわよ。」

すると右隣から、若い同僚のローレンがスマホを見つめつつ会話に参加します。

「確かにネットの説明を読むと、ネガティブばかりじゃないようにも感じられるわね。でもやっぱり、ポジティブな意味で使われることなんて無いんじゃないかしら。」

折角新しい英語表現を仕入れたのに、卑屈で厭世的なニュアンスがあるのなら口にするのは抵抗があります。なんとかうまく明るい印象の使用法を見つけられないもんかな、とひとしきりもがくのでした。

その翌日火曜の昼前、元ボスのエドが職場に現れました。今や完全な自宅勤務になっていて、オフィスで姿を見ることは滅多にありません。随分ご無沙汰ですね!と握手すると、

「デスクを取り上げられちまったんだから仕方ないだろ。」

と笑います。社員数が急増した時期、オフィススペースを確保するためリモートワークが推奨されたことがありました。エドはそのキャンペーンに乗っかったわけです。

「毎日ひとりぼっちで働くの、淋しくないですか?」

と私。

「通勤苦から解放されて、むしろほっとしてるよ。朝起きるとコーヒー淹れて、直ちに仕事開始だ。第一、オフィスには顔なじみの社員がほとんど残ってないだろ。わざわざ足を運ぶ動機も無いじゃないか。職場に顔を出すのは、もうこういう時だけだよ。」

そう、今日は久しぶりのランチ・パーティーだったのです。

かれこれ十年以上続いている、仲間の誕生日に皆で昼食をおごる「バースデー・クラブ」。組織の吸収合併や大量レイオフという名の疾風怒濤をくぐり抜け、エド、マリア、リチャード、そして私の四人で今日まで続けて来ました。今回の主役は、50歳という大きな節目を迎えたリチャード。ダウンタウンのイタリアン・レストラン「ソレント」に、この後合流したマリアと四人で出かけたのでした。

「シンスケは今、何人部下がいるんだ?」

「五人です。」

「おいおい、随分景気がいいな。このままどんどんエラくなって手が届かない存在になっちまうんじゃないか?」

と、リトルイタリーに向かって歩きながら冷やかすエド。数カ月前の組織改変でエリカとマリアを手放すことになった彼は、長年育てて来た部下を理不尽に奪い取られた男の悲哀を滲ませるどころか、彼女たちの勤務評価をしなくて良くなったその身軽さを楽しんでいるよ、と笑うのです。まるで幾多の試練を乗り越えて来たベテラン大工が、皮肉混じりの冗談をテンポよく飛ばしつつ仕事に打ち込む姿を見るような清々しさ。自分もこういう風にならなくちゃな、と元ボスへの尊敬を新たにするのでした。

パスタやポークチョップなどに舌鼓を打ち、誕生祝にと店から提供されたデザートのティラミスを皆でつついた後のことでした。

「俺、辞職したんだ (I resigned)。マリアから聞いてる?」

テーブルを挟んで向かいの席から、リチャードが爆弾発言をかましたのです。隣ではエドとマリアが額を突き合わせるようにして、こまごまと仕事の話をしています。

「いつ?」

ショックのあまり固まったり、落胆の溜息をついたり、と色々なリアクションがとれる場面ですが、一瞬のためらいを経て淡白に聞き返した私。

これには理由があるのです。

89歳の元同僚ジャックが、ひと月ほど前ふらりと私を訪ねて来た時のこと。ひとしきり近況報告を交わした後、

「リチャードがうちの会社に来るの、聞いてるよね。」

と口走ったのです。突然のレイオフを受けた後、ほとんど間を置かずに小さな競合会社への再就職を果たしたジャック。仕事量はうなぎのぼりで大忙しだよ、と新天地の繁栄に嬉しい悲鳴を上げる彼が、長年大きな信頼を寄せて来たリチャードの引き抜きを試みるのは当然でしょう。今の部署で設計技師として大活躍を続けて来たものの、ハードワークに見合った報酬を受けていないことに対する不満をしょっちゅう口にしていたリチャードにとっても、これは渡りに船というところ。

「あ、今のは聞かなかったことにして。」

私の顔色からこのニュースが初耳であることを素早く察したようで、慌てて顔をこわばらせたジャック。えらい秘密を打ち明けてくれちゃったよなあ、と困惑する私でした。

そんな背景があったので、ランチパーティーでのリチャードの告白にも対応を迷ったのですね。しかし、

「三週間ほど前に辞職届を提出したんだよ。」

という彼の返答に、ふと違和感を覚えます。

「え?それってどういうこと?」

辞める二週間前に届けを出すのが通例なので、普通に考えればとっくに退職日を過ぎているのです。

「ボスに止められたんだよ。給料の大幅アップをするから残ってくれってね。彼が上層部に掛け合って、その日のうちに転職話は無かったことになっちゃった。」

おお~!それは良かったな!と意外な急展開を喜ぶ私。長年の仲間が欠けるのは寂しいけど、新天地で彼がより幸せになるのなら仕方ないじゃないか、と諦めていたのです。

「あ、思い出した!」

エドとマリアにも注意を促し、くすぶっていた質問を投げかけます。

「食事の前に、a cog in a wheel(歯車のコッグ)ってイディオムの話したでしょ。今回リチャードに起こった事件は、機械全体に対するコッグの重要性を証明してるよね?だからこれってやっぱり、ポジティブにも使える言い回しだと思うんだ。」

するとエドが、

「もちろんポジティブに使える表現だよ。機械を操縦し続けようと思えば、コッグがきちんと機能していることが絶対条件になるだろ。」

と真顔で応えます。そして間髪入れず、ニヤリと笑ってこう付け足したのでした。

“We’re not the ones who’re running the machine for sure.”
「機械を操作してるのが俺たちじゃないのは確かだけどな。」