2018年10月14日日曜日

Wean Off 乳離れ


「あ~っ、ほんっと悔しい!」

火曜の晩、帰宅途上の車中でも家のリビングでも、ため息混じりに16歳の息子が何度も長い腕を頭上で振り回しました。強豪校の水球チームに、いいところまで行きながら敗れたのです。息子の通う高校がディヴィジョン3の中堅なのに対し、相手校はディヴィジョン1の上位。有名クラブチームのコーチを擁する伝統校です。Jリーグで言えば、J1の浦和レッズにJ3のSC相模原が接戦を演じた、くらいのニュース。辛くも逃げ切った相手校の選手たちは、試合後にプールサイドの隅でコーチからこってり絞られていました。

「その光景はちょっと気持ちよかったんだけどさあ、でもやっぱ悔しいよ。」

と息子。高校進学後間もなく彼が体験入部した頃は、まだ下っ腹がぽっちゃりしていて、とても水球のような激しいスポーツを続けられるとは思っていませんでした。初めの二年間はあまり出番も無く、試合に出してもらっただけでニコニコしていました。勝っても負けても、大して気にかけてすらいなかったのです。しかしオフシーズンにクラブチームへ通ううち、肉体の変化と共にメンタルもみるみる変貌を遂げて行き、今では高校水球部の主力選手に。親友二コラをキャプテンに、部の設立以来最強のチームが出来上がりました。学校の規模が小さくプールも無いのに、有名私立校や伝統強豪校のチームと互角に渡り合えるようになるなんて、誰も想像していなかったことでした。現在、最終学年のシーズン終盤。週に平均三試合を戦っていて、今のところ上位に食い込めそうな勢いです。

五月からフルタイムで働き始めた妻は、社長の了解を取って勤務時間に融通を利かせてもらい、平日日中の試合でもほぼ欠かさず観戦を続けて来ました。高校時代はバレー部でスポ根ドラマ的青春を過ごした彼女にとって、試合を重ねるごとに強くなる息子のチームを追うことは、それほど優先度の高いイベントなのですね。私もいつからかプールサイドに三脚を立ててビデオ撮影を担当するようになり、帰宅すると息子がその映像をYouTubeにアップしてチームで共有するようにしています。パソコンで再生しながらデータのダウンロードをしている息子の背後で、

「あ~!そこ!(シュート)打てる!」

などと近所中に響き渡るような大声で叫ぶ母親に、

「ママ、ちょっとうるさいよ。もう終わったゲームなんだから…。」

とたしなめる息子。

話変わって翌日水曜の朝。向かいで働く部下のシャノンが上体を傾け、コンピュータモニターの陰から顔を出しました。

「ヴァルがね、今度レイと食事に行くんですって。」

ヴァルというのは同僚ヴァレリーの愛称で、数ヶ月前に引退した元上司のレイと久しぶりに会う、というニュース。

「リンドンがレイの近くに住んでてね、ある日奥さんと偶然会ったんですって。そしたら、意外な話を聞かされたって言うの。で、それをリンドンから伝え聞いたヴァルが、さっそくレイと会うことにしたってわけ。」

レイの奥さんによれば、旦那が最近落ち込んでいる、というのです。引退から数か月、誰ひとりとして連絡して来ない。長年一緒に働き成長を助けて来た部下達が、まるで彼など最初から存在しなかったかのように知らん顔だ、と。

「私、何だかすごく気の毒になっちゃった。だって、あんなに周りから慕われてたでしょ。部下たちはきっと淋しがってすぐ声をかけて来るだろうって期待があったんじゃないかしら。皆の方は、レイは引退生活を楽しんでるだろうから邪魔しないでおこうって気持ちでいたと思うのよね。」

思わず同意して頷いた私でしたが、気が付くと胸の中で、「いや、仲間と言っても所詮は行きずりの関係。一旦職場を離れれば赤の他人なんだ。」という残酷な認識が芽生えていたのでした。生涯の大半をかけて緻密に張り巡らせて来た蜘蛛の巣の中心から、ある日強風に乗ってひょいと飛び降り、見知らぬ茂みに着地する年老いたクモ。引退というのはそういうものなんだ。苦労して紡ぎあげて来た仕事の成果もプライドも、楽しかった思い出も全て捨て去り、また一から何かを始めなければならない。それはきっと、わくわくすると同時に心にぽっかり巨大な穴が開くような、衝撃体験なのかもしれません。

「そういえば、サンタバーバラ支社のティム知ってる?彼も引退しようとしてるんだよ。」

と私。私がサポートするプロジェクトで過去二年間ディレクターを務めて来たのですが、数カ月前から週20時間勤務にシフトしていて、あと一、二ヶ月で完全にリタイアメント生活に入ろうとしているティム。PMのアンジェラが月曜の午後、「週刊レポートの宛先からティムを抜いてくれる?」とメールで頼んで来たのです。その際彼女が書いた英文が、これ。

“He’s trying to wean off the project.”
「彼はプロジェクトをwean offしようとしてるのよ。」

Weanというのは、初めて見る単語です。急いでネットで調べたところ、これは「ウィン」と発音。Wean offで「時間をかけて何かを引き離す」になるようで、たとえば

“I’m weaning myself off cigarettes.”
「少しずつ禁煙してるんだ。」

みたいに使われるフレーズ。アンジェラの文章は、こういう意味になりますね。

“He’s trying to wean off the project.”
「彼はゆっくりとプロジェクトから手を引こうとしてるのよ。」

その日の昼食時、隣に座ったシャノンにこの単語について質問してみました。

Wean offってさ、そもそも母乳で育てて来た赤ちゃんを乳離れさせるって意味らしいんだけど、それがゆっくり時間をかけて何かを切り離すって感じに使われるのは、ちょっとしっくり来ないんだ。昔日本で聞いたんだけど、赤ん坊を乳離れさせる方法として、乳首にマスタード塗るってのがあるんだって。そうすると一発で目的達成出来るらしいよ。」

あ、今「乳首」などというちょっと生々しい単語出しちゃったな、やばかったかな、と一瞬後悔した私ですが、さすがにベテランお母さんのシャノン。全く動じることなく、少し笑ってからこう言いました。

「赤ちゃんの方はそれで済むかもしれないけど、母親の方がむしろ大変なのよ。おっぱいってそう簡単に止まらないの。じっくり時間をかけて、もう母乳は作らなくていいんだよって身体に教え込まなくちゃいけないのよ。」

なるほど。「乳離れ」という字面からずっと子供サイドの意識しかなかったけど、これって母親側のチャレンジでもあったのですね。Wean off というのは、まさにこの視点で使われるフレーズで、長期間依存して来た対象との関係をゆっくり断つ、ということ。シャノンの説明を聞くまで、ティムは自分に頼り切りだったプロジェクトを優しく切り離そうとしている、と言いたいのだと思ってました。実際はティムの側が、プロジェクトとの別離に伴う苦痛を和らげようと時間をかけているのかもしれない、と思い直したのでした。

さて昨日土曜の朝は、二コラを拾って一家でサンディエゴ州立大のプールへ。ディヴィジョン1の強豪U高校との対抗戦です。いつもくそ生意気で強気な二コラが、「ものすごく緊張してる。昨日は2時まで眠れなかった。」と珍しく顔をこわばらせています。色々あってU高校から転校して来た彼にとって、これは因縁試合。弱小高校チームをここまで強くした、そしてそれを古巣相手に証明する日がとうとうやって来たのだ、と気合が漲っています。

「絶対にダーティーなプレイはしないでくれ。クリーンに勝つことに意味が有るんだ。」

とうちの息子に言い含める二コラ。U高校の現コーチは、かつて息子が通っていたクラブチームのコーチも務めていて、彼から「お前はずっとベンチ・ライダー(控え選手)でいたいのか?」と怒鳴られ奮起した経験があり、その恩返しをする意味でもこの試合には勝ちたいのだ、と言う息子。

「絶対に負けられないぞ。」

と二人、後部座席で呪文のように唱え続けます。

会場入りし、いつものように三脚とカメラをセットする私。液晶画面越しにきらめくトパーズ色のプール。試合開始のホイッスルと同時に両側から12人の若者たちが一斉に水しぶきを上げ、中央ライン目掛けて泳ぎ始めます。ボールを激しく奪い合う者、各ポジションで有利な態勢を勝ち取ろうと水中の格闘技を戦う者…。相手チームはレベルが高く、図抜けたスター選手もいましたが、息子のチームは一丸となって終始アグレッシブかつクリーンなプレイを展開。二コラは鬼神のように超絶シュートを決めまくり、息子も巨漢選手の猛攻撃を必死に食い止め、見事10対6でU高校を撃破したのでした。ディヴィジョン1の高校に初めて勝ったこと、二コラが元チームメイト達に一泡吹かせたこと、終了後に相手コーチが息子を「うまくなったなあ」と褒めてくれたこと。大満足の収穫で会場を後にし、他の選手たちと一緒に近くのベトナム料理店へ繰り出します。二年生のアントニオのお父さん、ドンと一緒にテーブルを囲んだ時、彼が

「ディヴィジョン1に初勝利だって、知ってた?」

と目を見開き顔を輝かせます。我が子の部活動に対する入れ込みようにかけては、私の妻を遥かに超えているドン。シングルファーザーの彼は、息子といられる時間を目いっぱい楽しもうと、早期退職までしちゃったのです。彼が大学に行ったらまた仕事を見つければいいじゃないか、と。

「でも、その日が来ることを考えただけで、泣けて来るんだよね。」

携帯電話をいじって、今ではすっかり逞しくなった息子が幼かった頃の写真を何枚も見せてくれるドン。

「成長が早過ぎて嫌になるよ。」

と、とスマホ画面をじっと見つめながら溜息をつくのでした。

水球シーズンがあと二、三週間で終わってしまうことの苦痛をドンと分け合った妻。最終日に父兄を招待して行われる引退試合「シニア・ナイト」では、絶対泣いちゃうわ、と声を詰まらせます。

愛する者との絆が強ければ強いほど、乳離れは辛くなる。どんなに時間をかけたって、いやむしろ時間をかければかけるほど、痛みは増すのかもしれません。

8 件のコメント:

  1. 気になってしょうがないカサブタを、ゆっくりゆっくりジワジワと剥がすのも wean off なのかしらん。

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  2. このカサブタが無い人生なんて考えられない!てくらい深い愛着を持つ場合には使えるね。周りから変態扱いされることを気にしなければ。

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  3. この調子では、息子さんが大学へ去って行った後のEmpty Nest Syndromeが心配ですね。

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    1. いや、それはもう絶対にさけられないと思います。落ち込んでアル中とかにならないよう、妻をしっかり支えて行く所存です。

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    2. キミはアル中にはならんだろうから安心だが。。。我々の年代になると、男性更年期ってのもあるらしいから気をつけて。
      男性ホルモン減少には筋トレが効くらしいゾ(笑

      細君はこれを機会にママさんバレーで運動を再開するとか・・・米国にもあるんだろうか? 日本だとあちこちの小学校の体育館で夜電気がついてるなぁ、と思うと近所のママさんバレーやってることがよくあるよね。

      しかし、名門チームから転校してきて落ちこぼれチームを一流の舞台まで引き上げるなんて、ドラマみたいなことがホントにあるんだね。近年だとこのドラマが大ヒットだったよね。
       http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d1520/

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    3. 撮りためた水球試合のビデオを編集して「キセキ」みたいなBGMを重ねたら、うちの奥さんの涙腺は一瞬で決壊することでしょう。若者たちが一丸となって戦っている姿は、たとえ赤の他人であってもそれなりの感動を覚えるもので、そこに息子やその仲間が入ってるとなると相当ヤバいんだよね。そしていよいよクライマックスの最終日が…。

      僕は大丈夫だと思うけど、一応腕立てとスクワットくらいは日課にしようと考えてます。

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  4. きっと知っているとは思うが、スクワットはやり方を間違えると膝を悪くしたり、効果が上がらなかったりするらしい。中高生の頃に一般にやられていたスクワットはあまり上質のモノじゃあないみたいだよね。
     https://smartlog.jp/57677

    昨今の健康ブームでこんなのを紹介するサイトが結構あるね。日課としてやると段々気持ちよくなってくるんだよねー

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    1. そんなに種類がたくさんあったとは知らなかったぞ、スクワット。今夜はいきなり「ピストルスクワット」に挑戦してみようと思う…。

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