「もう最悪!」
水曜の昼。ランチルームで弁当を広げていたところ、若い部下のテイラーが右手をうちわ代りに顔を扇ぎながらやって来ました。テイクアウトの紙袋を隣のテーブルに置くと、ノースリーブの両脇を大胆にひろげて栗色の後ろ髪をさっとかき上げ、ポニーテール状にした束を左手でギュッとつかみます。それから露わになったうなじを右の掌でパタパタと扇ぎました。
「久しぶりに、シャノンとバーガーラウンジに行って来たの。外はもう息が詰まるほど暑くて、湿気もすごいのよ。なんだか背の高い人たちに囲まれて、あっちからもこっちからもはあ~って息を吐きかけられてるみたい。」
ここのところサンディエゴは尋常ならざる酷暑に見舞われていて、この土地で生まれ育った人たちですら驚きを口にしています。私は人並み外れて暑さに強いのでさほど苦痛を感じないのですが、それでもテイラーのこの独特な表現には共感を覚えました。今の暑さを描写するのに、これ以上ぴったりした喩えは無いなあ…。
採用してからもうすぐ一年になる彼女。最初の頃はほとんど口も開かず表情も硬かったので、この仕事は向いてないと早々に悟ったんじゃないか、ある日突然辞めちゃうんじゃないか、と心配になったものです。それが最近ではのびのびと行動していて、毎日まるで新刊本のページでも捲るかのように、知らなかった一面がどんどん明らかになって来ています。学生時代サングラス・ショップでバイト漬けだったお蔭で、知り合いの眼鏡の座りが悪い時は素早く調整してあげられること。前の仕事では通勤三日目で追突事故に見舞われ、辞める三日前にも同じ場所で同じ時刻に追突されたこと。常習的な嘘つきの妹がいて、愛憎入り混じった関係が続いていること。
「ちっちゃい頃、暫く歯形が消えないほど強く自分の腕を噛んでから、お姉ちゃんにやられた!って親に泣きついたのよ。Diabolical(悪魔みたい)でしょ。」
こういうやや踏み込んだ私生活エピソードを聞く度に、上司の私にここまで心を開いてくれてるんだ、とちょっと感動させられます。そして同時に、こんなに打ち解けてるんだからと油断するあまり、口を滑らせて何か不適切な発言をしてしまうことへの恐れも首をもたげます。私は昔から失言が多く、特に面白がって調子に乗った時は危険なのです。
四半世紀ほど前、埼玉県H市でニュータウン開発の仕事をしていた頃、市長と市議会議員たちを迎えて造成中の地区内をバスで案内したことがありました。バスガイドを任された私は、出来立ての公園や販売中宅地の説明をします。そのうち議員さんたちの下品なジョークなどで場が温まって来て、私もどんどん饒舌になって行きます。そしてドッカンドッカンと大きな笑いが起こり始め、まるでバラエティー番組のMCさながら、ノリノリの司会ぶりに。そしてツアーも終盤、
「さて、中学校予定地が見えてまいりました。小学校高学年のお子様をお持ちの近隣住民たちは、中学校のオープンを今か今かと首長竜でお待ちです!」
最高潮のテンションでこう言い放った瞬間、空気が凍り付きました。議員たちの視線が、一斉に市長へ集まります。強張った面持ちで、市長が吐き捨てるようにこう言ったのでした。
「おたくの開発が計画通りに進んでいれば、見込みの生徒数も順調に伸びていただろうにね。そうすれば今頃、中学校も開校していたはずなんだ。この件で、毎日議会で吊し上げられているのはこの私なんだよ。」
その晩の飲み会で、隣に座った先輩に「あれはまずかったな」としみじみ呟かれ、暫く立ち直れないほど落ち込んだことは言うまでもありません。
こうした「痛い」体験を何度も重ね、結婚後は妻からの手厳しい指摘などもあって、段々とブレーキのかけ方を学んで来た私。誰かと会話が盛り上がって来ると、もう一人の自分が「おい気をつけろ、調子に乗っておかしなことを口走るなよ。」と釘を刺し始めるのです。だから若いテイラーが個人的な話を打ち明ければ打ち明けて来るほど、身構えてしまう私。
「こないだパドレスのゲームを、兄さんと一緒に観に行ったの。」
木曜の朝、向かいの席のシャノンと世間話をしていたところ、出勤してコンピュータが立ち上がるのを待っていたテイラーが、何の脈絡だったか、会話に飛び入り参加して来ました。彼女のお兄さんは数年前に離婚して、最近はよく一緒に行動するのだとか。
「そしたら、何年もずっと会ってなかった元叔父が通路を歩いて来て、兄さんに気付いたのね。」
この元叔父というのは、数年前にテイラーの叔母さんを信じ難い方法で捨てた人で、家族でその話をするのは今でもタブーなほど悲惨な最後だったそうです。その彼が、見知らぬ女性を連れて同じ球場で野球観戦。それだけでも充分気まずいシチュエーションですが、彼はテイラーとお兄さんに対し極めて明るく振る舞い、こう笑顔で言ったそうです。
「こちら奥さん?良かった、まだ夫婦続けてたんだな!」
実の兄の別れた奥さんと間違えられたテイラー。おえっと嘔吐をこらえる真似をして、
「滅茶苦茶気まずかったわ。」
と苦々しい顔を見せるのでした。この時すかさずシャノンが、
“Foot in mouth!”
と合いの手を入れます。え?今何て言った?フット・イン・マウス、つまり「お口にあんよ」と言ったように聞こえました。赤ちゃんが一心不乱に足の指を舐めてるあのシーンのことか?周りの皆がふわっと笑って次の話題へ移ってしまったので、意味を尋ねるチャンスを逃しました。仕方ないのでノートに素早くメモ。後で同僚クリスティを給湯エリアでつかまえ、聞いてみました。
「悪気無しに相手の気分を害するようなことを口走っちゃうことよ。」
発言の直後、あるいはセリフが終わる前に、言った本人が失敗に気付いて慌てるようなケースでよく使われる、とのこと。あらためてネットで調べたところ、そもそも「Put one’s foot in it(そこへ踏み込む)」という慣用句があり、相手が触れて欲しくない話題を持ち出してしまう「へま」を指すのだそうです。
“I really put my foot in it when I
asked her about her job. I didn't know she had just been fired.”
「すごいドジ踏んじゃった。彼女に仕事の様子を聞いちゃってさあ。クビになったばかりだって知らなかったんだよ。」
そんなわけで、”Put one’s
foot in one’s mouth”は「タブーに触れる失言をして気まずくなる」という意味。つまりシャノンのセリフは、こういうことですね。
“Foot in mouth!”
「おっと失言!」
さて金曜の朝、部下のカンチーが「三階テラスのコーヒースタンドで飲み物買って来ますけど何か要りますか?」と聞くので、じゃあ僕も行くよ、と席を立ちます。私はいいわ、と仕事に没頭するテイラーを残し、別グループの若い同僚レイチェルと三人でエレベーターに乗りました。
テラスへ出てみると、まだ8時を回ったばかりだというのに、既に目も眩むほど強烈な日差し。オレンジ色の帆布生地で作られたキャノピーの下、グレーのポロシャツに膝丈チノパンの若い白人女性が、銀色に輝くエスプレッソマシーンをたった一人で三台同時に稼働させ、額の汗粒を拭いもせず客の注文をてきぱきと捌いています。暫く順番を待った後、女性二人は冷たいドリンクを、私はマキアートをホットで頼みました。それから軒下に出来た細長い日陰に三人で逃げ込み、この暑さは異常だねえと横一列で話し合います。
出来上がった飲料をカウンターで受け取るやいなや、冷房の効いたビル内へ皆でさっさと避難。ほっと一息ついた後、私が二人に尋ねます。
「あの店員さん見た?珍しいタトゥーしてたでしょ。」
言ってしまってから、あ、これはヤバいと息を呑みます。
「あ、あのさ、ところで君達って入れ墨したことある?」
二人とも、キョトンとして首を横に振ります。ああ良かった、気まずい失言になるところだった!これで安心してこの話題を進められるぞ…。
「あの人さ、左ふくらはぎにフランケンシュタインの顔が彫ってあったんだよ。グロいくらい写実的なやつ。どんな事情があってあんな絵柄を選んだのか是非とも質問してみたかったんだけど、こういう話ってたとえ近しい関係だったとしても、なかなか聞けないもんだよね。」
「私、身体にタトゥー入れることは一生無いと思います。」
とカンチーが、神妙な顔で打ち明けます。
「五歳頃だったか、母が唇にタトゥーを彫るって言うんで、お店に連れて行かれたんです。唇の輪郭にひとつひとつ墨を入れられている間ずっと、苦し気に顔を歪めて私の手を握り締めて…。その力強さがすごく怖くて、今でも忘れられないんです。」
それからひとしきり、そもそも痛い思いをしてまでタトゥーを入れようという心理が理解出来ないこと、一時的な熱情から恋人の名をハート付きで手足に彫り、後年悔やむことになる若者たちの話などをしつつ、三人でエレベーターに乗り込みます。そしてオフィス階のエレベーターホールに笑いながら到着した瞬間、ハッと我に返ってカンチーとレイチェルにこう言ったのでした。
「はい君達、タトゥーの話はここでストップね。」
え?どうしたの急に?と豹変を訝しむ二人。そう、この時、突然鮮やかな残像が閃光のように蘇ったのです。テイラーがさっと後ろ髪をかき上げた時、彼女のうなじから数センチ下、ブラウスの襟口に、ピンク色のハートのタトゥーがちらりと顔を出した映像が…。
すんでのところでFoot in Mouthを回避。あぶないところでした。
こちら日本も異常な暑さダヨ、東京で35℃、名古屋では38℃という天気予報が毎日のように流されている。。。
返信削除調子に乗りすぎての失言はリチャード・O氏の得意技だったよね(笑 でも、懲りずにやってると何となくキャラクターとして定着するような気もするのだが・・・
合コン相手に「君って岩石岩子ってイメージだよね」とクスクス笑ってドン引きされ、一同早々に撤収してしまった事件はいまだに忘れられないよ。あと、色白で天パーの女の子に「君って石鹸に陰毛がついてるみたいだね」と言い放って合コンを台無しにしたこともあるな。彼が調子に乗った時の冗談は、もはや「失言」レベルではないでしょう。
削除話は変わって、タトゥーの話。
返信削除昨今の外国人観光客がひしめく浅草を見ていると、欧米の感覚ではタトゥーに対する意識はずいぶん違っているんだろうなーと思ってしまうね。ワンポイントどころか、二の腕一面とかふくらはぎにビッシリなんてのも全然珍しくないからねぇ。。。今回の話の流れも「痛い話」とか「デザインのセンス」が問題視されているだけで、かわいい系のワンポイントタトゥーはそんなに問題とは思っていないのでは?
何度も話すが、ビッグ・ビシャス・グリムスというインディー系のレスラーは、日本に来た時に「俺の首の後ろに Cool!
とか Crazy! って意味の漢字のタトゥーを入れてくれ」と頼んだみたいで、[気違い]というタトゥーを入れていたんだよね(笑 本人的にはゲーリー・グッドリッチの剛力みたいな気分だったのかな。
確かに意識は全然違うようだね。うちの会社にもよくよく見れば、入れ墨の人結構いるよ。極道っぽいデザインじゃなく。
返信削除ゲーリー・グッドリッジは、小川直也戦で負けてくれと金を渡されそうになったが断ったそうだね。理由は「提示額が少なかったから」だって。全然、剛力エピソードじゃないねえ…。
欧米人の漢字好きについてオイラの体験談。
返信削除GWにシチリア旅行に行った、タオルミーナに宿泊してグレート・ブルーで海の幸パスタを食べてた海沿いテラスのレストランに行くため(笑 タオルミーナはイタリアではかなり流行っているリゾートらしく人で溢れ返っていたのだが、そこですれ違った金髪のお姉ちゃんのTシャツにはなぜか「飲食店街」なる文字がデカデカと縦書きでプリントされていた。。。なんだろう Restaurant Area って意味だと判って着ているんだろうか?
どうぞ召し上がれ、ということなのかな。
返信削除ナルホド!惜しいことをした(笑
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