先日、中堅PMのアレックスと会議室に腰を据え、本社副社長パットとのウェブ会議を開きました。PMトレーニングの準備が大詰めを迎えていて、この会議の主目的は、アレックスが準備したパワーポイント・スライドの詳細調整。
毎週月曜の朝、全米のPM達はパットから定型メールを受け取っているのですが、ここに貼られたリンクをクリックすると、自分の担当プロジェクトの最新コストレポートへ飛ぶ仕掛けになっています。膨大なデータをピボットテーブル化したフォーマットなのですが、どこをどう触ったら知りたい情報が出て来るのか、直感的には分からないデザイン。まるで寄木細工のパズルを、使用説明抜きでいきなり手渡した格好です。受け取ったPM達がひとしきり格闘した挙句、フラストレーションを溜めたまま「なんだこの役立たずなレポートは!」と放り出すという、憂慮すべき事件が多発しています。
「上層部から、レポートの使用法を解説するトレーニングを一刻も早く実施しろっていう強烈なプレッシャーがかかってるの。」
とパット。本社プロジェクト・コントロール部門は、立ち上げからまだ二年ほどしか経っていません。部下も予算もほとんどあてがわれていない彼女は、何をするにも私やアレックスのような有志のボランティア活動を当てにするしかない。これまでの我々の貢献に対する感謝の言葉を述べつつも、事態の緊急性を訴える彼女。
東海岸に住んでいるのでまだ直接の対面は果たしていないものの、過去何十回にも及ぶ対話で絆を深めて来たパット。今ではまるで家族のように思えるほどの存在です。そんな彼女の立場を脅かす事態は、もはや他人事ではない。無慈悲で理不尽なレイオフが頻発している昨今、ピンチの芽は早めに摘んでおかないと、取り返しのつかないことになるのです。
「今月末までに絶対完成させよう!」
と一致団結した我々三人。細かな内容の吟味に入ります。
「あのさ、質問していい?」
とまず私が口火を切ります。アレックスのスライドのしょっぱなに「週刊コストレポートの意義」を謳うくだりがあるのですが、「Aberration(アバレーション) をタイムリーに発見して対応する」という一節で私の思考が止まってしまったのです。
「アバレーションって、どういう意味なの?」
こんな単語、見たことも聞いたことも無いぞ…。誰でも知ってる言葉なのかな?
「そうね、これは変えた方がいいかもね。」
と、単語の解説をすっ飛ばして修正を促すパット。アレックスもこれに応え、
“Yes, it’s a bit esoteric word.”
「そうだね、これはちょっとエソテリックな単語だね。」
と呟いたのです。ん?エソテリック?なんだそりゃ。おいおい、こっちは「アバレーション」の意味が分からないから解説をお願いしているのに、更にもう一枚謎を上乗せして来るのかよ。
どういうわけかパットもアレックスも、私が彼等と同レベルの英語力を備えていると誤解しているようで、まるで私がその意味を知った上でわざと遠回しに、
「大衆にも理解出来るようもっと平易な単語を使うべきではないかな、諸君?」
と提案したものと勘違いしたようなのです。こうなると、さすがにもう「エソテリックって何?」とは聞けません。無表情で頷き、追究を諦めるのでした。
ここ数年、こういう不思議な誤解を受ける頻度は上がっています。勤続15年を超えて周りからベテラン視されるようになり、「英語学習中の外国人労働者」というイメージがだいぶ薄まって来ているようなのです。バリバリのアメリカ人から、「ほら、70年代のテレビドラマの〇〇でこういうギャグがあったでしょ!」と同意を求められて面喰うこともしばしば。おいおい、なんで僕が幼少期からこの国に住んでたって決めつけるんだよ?どっからどう見ても外国人でしょ。
冷静に考えてみれば、度々経験するこうした「買い被り」は、私の英語力が向上していることの証に他ならず、素直に喜ぶべきなのかもしれません。しかし、これは若い英語学習者の多くが予想もしていないであろう展開なのです。
「英語をマスターしたい」と強く思っていた二十代、金髪で青い目のベッピンさんと楽しく会話ができればもうそれでゴール達成でした。しかしそのゴールラインを超えた時、まだまだ先に道があることに気付くのです。
英語で授業を受ける
英語でスピーチする
英語でトレーニング講師を務める
英語で国際政治論を…
年齢を重ねるに連れて社会における立場も変わり、周囲の要求レベルもせり上がって行くため、「まだ英語をマスターしてない」状態はいつまでも続くのです。語学の学習というのは、進んでも進んでも頂が見えない霧の中の登山みたいなものなのですね。
さて、アレックスとパットとの会議が終了し、席に戻ってさっそくネットで調査。
Aberration(アバレーション)とは、対象が常軌を逸脱すること。今回のケースでは、プロジェクトのコストが暫く一定のトレンドを見せていたのに、ある週になって突然数値が跳ね上がったりマイナスになったりする、そんな「特異値」を即座に見つけて対応することが、このレポートを使えば簡単に出来ますよ、という文脈でアレックスが使ったのですね。
Esoteric(エソテリック)とは、選ばれた少数の者だけに伝えられる「奥義」ともいうべき高い難度を指す言葉で、「難解な」「深遠な」と訳されるようです。アレックスはこう言いたかったのですね。
“Yes, it’s a bit esoteric word.”
「そうだね、ちょっと難解な単語だね。」
日本でも、忖度(そんたく)とか誤謬(ごびゅう)とか瑕疵(かし)などに代表されるインテリの好む難語がありますが、きっとそういうのを「エソテリックな単語」というのでしょう。
話変わって金曜の朝。部下たちを集めて定例のPMP試験対策講座を開きました。今回はリスクマネジメントがテーマ。リスクの洗い出しに始まり、定性分析から定量分析へと移るプロセスを重点的に説明します。定性分析においては、個別リスクのもたらすインパクトと発生確率をプロジェクト・チームで議論し決定するのですが、この際に気をつけなければいけないのは、事象そのものや発言者の置かれた状況などが、バイアスとしてその判断に影響を与えてしまうということ。例えば、
Urgency(緊急性)ー これが大きいと、リスクのインパクトも発生確率も大きめに見積もってしまいがち。
Detectability(察知しやすさ)― 情報が簡単に手に入る事象は意識に上りやすく、それゆえリスクの見積もりにもバイアスがかかりがち。
など。中でも私が気に入った言葉が、これ。
Propinquity(プロピンクイティー)
テイラーもシャノンも、そんな単語は初耳だと言います。
「これはね、距離感の話なんだ。例えば同じリスクを語るにも、影響が及ぶのが自分自身である場合と、誰か身近な人である場合、そして赤の他人の場合とではそのインパクトや発生確率の見積もりが変わるきらいがあるだろう。そういう時、プロピンクイティー・バイアスがかかってる、て言うんだ。」
週刊コストレポートのトレーニング資料を早く完成させないとパットの首が危ない!と焦るのも、彼女が親しい存在だから。「プロピンクイティー」が強いため、リスクの判断にバイアスがかかってしまうわけですね。
もちろん、私がこんな単語を最初から知っていたはずもなく、トレーニングの前日に慌てて意味を調べておいたのです。ノンネイティブのアジア人が超難解な英単語の意味をアメリカ人相手にしたり顔で解説している光景はちょっと笑えるなあと思ったので、わざと教授然とした口調で演説してみました。まるで外国人の芸人が、
「ソンタクというのね…、」
と難語を解説するみたいに。
ところが、これに対して部下たちはクスリともせず、真剣な表情で聞きながらメモを取っているのです。あれあれ?渾身のボケをスルーされたぞ。
いか~ん!完全に買い被られてる!