2017年12月31日日曜日

アメリカで武者修行 第39話 いい奴ではいられない

アパートから海に向かってニ十分ほど車を走らせ、フリーウェイの高架をくぐると、青空をバックに無数の椰子の木が立ち並ぶ、パシフィックビーチという平らな街が開けます。碁盤状の通りに囲まれた閑静な住宅群の中、子連れの家族が次々に吸い込まれて行く一軒の建物。見た目にはごく普通の家屋なのですが、扉を開けると子供の泣き声や水の跳ねる音が反響しています。

ここはMurray Callan (マレイ・カラン)という名の、幼児・児童を対象にした水泳教室。塩素剤を使わない小型温水プールに、濃紺のスイムスーツに身を包んだ若い男女のインストラクターが五人ほど腹までつかって立っている。ここへまだオムツ姿の子供を連れ、沢山の親が入れ替わり立ち代わりやって来るのです。一体どんなトリックがあるのか、さっきまで建物中に奇声をこだまさせていた赤ちゃんも、両脇を抱えられてささっと二回ほど水をくぐらされると、ピタリと泣き止んで真顔になるのです。まるで予防接種前に見苦しく取り乱したものの大した痛みも感じず注射を終え、全てを無かったことにしようと平静を装う少年のように。そして通い始めて一年もすると、水中で両目をしっかり開けて記念写真を撮られるまでに成長する、というのが売りのようで、入り口付近の壁にはそんな愛くるしい写真が所狭しと飾られています。

この教室の情報をどこからか見つけて来た妻が、間もなく二歳になる息子を通わせようと提案し、彼のスイム・レッスンがスタートしたのでした。私も都合がつく限りレッスンに同行したのですが、若いインストラクター達は実に辛抱強く、子供一人一人の性格や身体能力を見極めつつ指導に当たっていました。毎週数組の親子とスケジュールが重なっていて、その中に車椅子で現れる4歳くらいの白人少年がいました。全身の筋肉が硬直する病気に罹っているようで、父親らしき人がプールサイドで見守る中、いかり肩の男性インストラクターに支えられて懸命に水を掻いています。その様子をぼんやり眺めながら、しみじみ感心していた私でした。単に泳ぎが得意だからというだけで、誰にでも身体障害者に水泳指導が出来るわけじゃないだろう。きっと彼らは特殊なトレーニングをみっちりと受けているに違いない。組織として積み上げて来た「知の資産」が、市場における強力な差別化要素になっている好例だなあ、と。

さて、PMP取得から一週間ほど経ったある朝、私のキュービクルにエリカが現れました。
「エドが私達を呼んでるの、すぐ来れる?」
二人でボスの部屋へ入ると、
「新年度に向けて、担当業務の振り分けを見直したいんだ。」
エドが横長の紙を我々に手渡しました。表中には、仕事のタイトルと詳細説明が列記されています。
「今から読み上げて行くから、担当したい項目が出た時に手を挙げてくれ。」

リスク・レビュー、イシュー・ログ、チェンジ・ログ、リスク・レジスターのガイドライン作成や既存文書の更新など、プロジェクトマネジメント関連の社内ルールを全て統一フォーマットで作り上げる、というのが新年度の目標だ、とエド。
「あ、これ、是非やらせて下さい。」
私が飛びついたのが、Lessons Learned (教訓集)作成の仕事でした。
「知識を蓄積して共有する仕組みって、うちの会社に有りませんよね。このテーマ、すごく興味あるんです。」
「同感だが、未だに存在しないってことは、それだけハードルが高いからかもしれないぞ。大丈夫か?」
「ビジネススクール時代、一番好きな科目がKnowledge Management (知識管理)だったんです。プロジェクトを通して毎日膨大な知識や知恵が産み出されているっていうのに、それが個々の社員の頭の中にだけ留まっているなんて、勿体ないじゃないですか。」

高速道路プロジェクトに携わっている間、毎日沢山の学びがありました。他のメンバーだって同様だったことでしょう。なのに結局それを誰とも共有することなく、チームは解散してしまいました。もしもこれが特異な事例でないとすれば、会社は日々、膨大な知的財産をどぶに捨てていると言わざるを得ないのです。
「よし分かった。来週中に行動計画書を作って提出してくれ。」

全項目の振り分けが終了し、エドの部屋を後にします。エリカのキュービクルへ行って担当作業のおさらいをしていた時、胃の辺りが苦しくなっているのに気付きました。情熱のままに「教訓集づくり」担当に立候補しちゃったけど、何から始めたらいいのか見当もつかないぞ。しかもこれ、よく考えたら全部英語でやんなきゃいけないんだ。エラいことに足を踏み入れちゃったな…。早くも弱音を吐き始めた私に、
「まずは経験豊富なPM達にインタビューしてみたらどうかしら。長年の仕事の中で、知識の共有ってテーマは間違いなく議論の対象になってると思うの。ベテランならきっと、何かしら方法論を編み出してるはずだわ。」
とエリカが提案します。
「確かにそうだね。有難う。知ってる中で一番キャリアが長いのは、ジョージだな。早速彼と話してみるよ。」
しかし、だいぶ前から非常勤扱いになっているジョージがいつ出社するのか、知る由もありません。
「シェリルに聞いてみたらどうかしら。きっとそういう情報、管理してると思うわよ。」
総務のシェリルは人事関係も所掌しているので、彼女のコンピュータにそういうデータがあるだろう、と推測するエリカ。

「あのね、ここだけの話なんだけど…。」
急に眉をひそめ、小声になる彼女。
「私、ジョージってすごく苦手なの。人を人とも思わない態度っていうか、特に女性蔑視がひどいのよね。彼のプロジェクトを一度サポートしたことがあるんだけど、その時もかなりぞんざいに扱われた印象が残ってるわ。」
滅多に人の悪口を言わないエリカから、これほどあからさまに辛辣なコメントが飛び出したのは意外でした。確かにジョージは常に殺気をギラつかせていて、そう簡単には懐へ入れません。ベトナム従軍を含めた長い海軍勤務で自然に沁みついた「凄み」がそうさせてるんだ、と私は解釈していました。でもだからと言って個人的に侮辱を受けた覚えは無いし、むしろ「プロフェッショナルはかくあるべし」とまで心酔していたのです。相手が男か女かで態度を変えるような人物じゃない、女性蔑視なんてするわけないよ…。私のジョージ観を素直に語ったところ、
「シンスケは男だから分からないのよ。」
と、あくまで主張を曲げないエリカ。その頑なさには何か、簡単に口に出来ないような辛い記憶の裏付けを窺わせるものがありました。よくよく考えてみれば、自分はジョージのことを何も知りません。どこに住んでいるのか、家族はいるのか、他の社員にどう接しているのか、本当に女性のことを見下しているのか…。それ以上エリカに反駁するための材料が見つからず、黙ってジョージを探すことにしました。

さっそく廊下を進んでシェリルのオフィスを覗いてみたのですが、彼女が出勤した形跡は在りません。今日現れるかどうかの手がかりがどこかに無いかと、そのまま戸口に立ってホワイトボードや壁掛けカレンダーを見回していたところ、背後に人の気配を感じます。
「シェリルは今日お休みよ。」
振り向くと、おかっぱ頭のシェインが立っています。
「お、いいところに現れたね!」

今では支社全体の経理を担当している彼女ですが、高速道路プロジェクトの現場で共に戦った同志。最近までジョージと残務整理を続けていたので、もしかしたら彼のスケジュールを抑えているかもしれない、と思ったのです。
「ジョージならちょうど今日の午後、オフィスの片づけに来るって言ってたわ。どうして?」
まだ連絡がつくうちに、彼の脳みそに蓄積された輝く英知を少々お譲り頂きたいのだ、と言うと、
「そのことなら、びっくりするような話があるのよ。」
と、遠くを見るような目になるシェイン。

高速道路プロジェクトが火の車になり、会社から新PMとして送り込まれたジョージ。その彼が就任早々、一人も首にすることなく毎週のコストを三分の一に減らした、というのです。俄然興味をそそられた私は、身を乗り出します。
「どんなマジックを使ったの?」
「それがね、聞いたらなあんだって拍子抜けするような話なの。」
「いいから早く教えてよ。彼は何をしたの?」
「ジョージ本人はほとんど何もしてないのよ。ただ私に、あることを頼んだだけ。」

彼がシェインに依頼したのは、チームの一人一人に「先週あなたはこのタスクに○時間チャージしたが、具体的にどんな成果を出したのか説明して欲しい。ジョージに報告しなければならないので。」というメールを出すこと。
「え?それだけ?」
「そうなの。そしたら次の週から、プロジェクトにチャージされる時間数が激減したのよ!」

なるほど。あの鬼司令官が自分の仕事ぶりを厳しくチェックしているとなれば、一時間で仕上げられるタスクに二時間チャージするわけにはいかない。自然と控えめな数字におさまるでしょう。
「でも、私が本当に驚いたのはそこじゃないの。」
チームから届いた最初の返信をまとめてシェインが報告に行ったところ、ジョージがこう言ったというのです。
「私がそれを読む必要は無い。ただ時々、同じ質問を皆に送りつけてくれ。」
つまり、あのジョージが目を光らせているぞ、というメッセージが伝われば充分で、その先までマイクロマネージするつもりは無い、ということですね。
「なるほど。勉強になったよ。とっておきのネタを有難う!」

午後三時頃、長い廊下沿いの一番奥の部屋から、光が漏れているのに気が付きました。もしかして、と慌てて灯りの方を目指します。果たして、デスクに山積みされた書籍やフォルダーの向こうで、ジョージが戸棚からファイルを取り出し頁をめくっているところでした。相変わらずの険しい表情。
「君か。入りたまえ。」
腹に響く大声で私を招き入れます。ドア脇の椅子に腰かけると、作業を続けながらこう言いました。
「この棚と机を片付けたら、もうここに来ることは無いだろう。完全に引退だ。」
こんな場面で一体何と言えばいいのか分からず一瞬戸惑ったのですが、リタイアメントへの祝辞とこれまでの指導に対するお礼を急いで述べました。そして、
「今、仕事から生まれた教訓集を作って全社で共有する仕組み作りに取り掛かっているんです。お知恵を拝借出来ればと思ってここへ来たんですが、お時間頂けますか?」

彼は厳しい表情を崩さず、分厚いファイルフォルダーを一冊棚から抜き取って左手の上で開き、親指をペロリと舐めて頁を何枚か捲った後、私に差し出しました。
「これは私が、海軍関係の建設プロジェクトを管理していた頃のファイルだ。日々チームメンバー達から上がって来た教訓をまとめたもので、毎朝全員にコピーを配布していたんだ。」
一見すると工事日誌のような体裁ですが、表の中には作業上の教訓が細かく書き綴られています。次のページも、また次のページも。
「これを毎日、ですか?」
「ああ、毎日必ず何か新しい学びはあるはずだ。そういう意識で取り組んでいなければ、良い仕事は出来んだろう。」
暫く懸命に字面を追っていた私ですが、専門用語満載の文章で、内容が全く理解出来ません。違うんだよな。こういうのじゃないんだよ僕が求めてるのは。全くの部外者が読んでも即役立つような、「秘訣」とか「極意」みたいなのを期待してたんだよ…。
「あの、私は何か、凝縮された知のエッセンス集のようなものをイメージしていたんですが。」
と、正直に感想を述べる私。
「例えば、PM心得五カ条、みたいなものでしょうか。」

笑っているのか不快なのか、どちらとも言えないしかめ面になったジョージが、
「プロジェクトごとに環境や条件が大きく異なるってことを忘れちゃいかん。教訓を誰の仕事にでも当てはまる金科玉条みたいな物まで煎じ詰めようとすれば、その過程で本当に有効な成分を搾りカスと誤って捨ててしまう危険性がある。些細な出来事の中にこそ、教訓は眠ってるもんだ。具体的に書かれていなければ、実戦に役立つ教訓にはならんだろう。」
あらためて、この大ベテランを敬う気持ちが湧きました。
「有難うございます。こんなお話の後で浅薄な質問をするのは気が引けますが、今後お会いする機会も少ないと思うので、恥を承知で聞かせて下さい。プロジェクトマネジャーとして働く上で、一番大事なことは何だとお考えですか?」
さすがに百戦錬磨のジョージでも、ここまで素朴な質問にはぐっと詰まって考え込むだろうと思いきや、表情も変えずにこう即答したのでした。
「君が誰かに何か仕事を頼むとしよう。その時、それがどんなに簡単なタスクだったとしても、必ず明確な締め切りを与えることだ。何月何日何時まで、と。相手が了解したら、目の前でそれを書き取る。そして後日、約束の時刻ぴったりに現れて成果を求める。もしもまだ出来ていないと言われれば、いつなら出来るのかを聞き、またその時刻に現れる。これを一度の例外も無く実行する。そのうち相手は君の言動に一貫性を認め、いい加減な対応をしなくなる。そして、君から頼まれた仕事は最優先で進めるようになるだろう。」

毎日彼の下で働いていた頃のことが、鮮やかに蘇って来ました。確かにジョージは、どんな仕事の指示書にも締め切りの日時を書き込んでいました。それを見る度に、じわりとプレッシャーを感じたものです。
「そうされた相手は、あまり愉快じゃないでしょうけどね。」
と冗談めかして笑う私に、彼が静かにこう締めくくったのでした。

“If you want to be good at management, you cannot be a good guy.”
「マネジメント職で成果を上げたかったら、いい奴ではいられんよ。」

翌日の午後、廊下の終わりまで行ってみると、彼のオフィスは空っぽになっており、入り口の名札も取り払われていました。

数カ月後の週末、妻と一緒に息子を連れて水泳教室へと続く歩道を歩いていたところ、前方で路肩に寄せてゆっくりと停まった車のドアが開き、老夫婦が降り立ちました。緑の格子縞ボタンダウンシャツにジーンズの男性。太い首、短く刈り込んだ銀髪。その後ろ姿に、ハッとします。
「ジョージ!」
反射的に早足になって追いかけると、振り向いた彼が小さく驚いて私の手を握ります。
「おおシンスケ、久しぶりだな!」
別人かと見紛う程の柔和な笑顔。相手を一瞬で凍り付かせるあの強烈な目力も消え、ただ涼し気に笑っているジョージ。息子を抱き上げ追いかけて来た妻を紹介すると、彼女とゆっくり握手を交わした後、横にいた老婦人の背中に優しく手を添え、
「ワイフのローズベリーだ。」
と微笑みます。たった今美容院から出て来たように、カールした白髪をアップにまとめた奥様は、どこかヨーロッパの皇族との血縁を思わせる、穏やかな佇まい。二人がお互いに交わす視線には、きっと半世紀は連れ添って来たに違いない、深く静かな絆が感じられました。
「君もこの水泳教室に来ているのか?」
「ええ、この子を通わせているんです。」
「そうか、うちも孫が習ってるんで、今日は様子を見に来たんだよ。」

もう少し話を続けたかったのですが、レッスン開始の時刻が迫っていたため、歩調を速めて一緒に扉をくぐり、またいつか、と慌ただしく挨拶を交わして別れました。妻と二人で息子を着替えさせ、担当インストラクターに引き渡してふと顔を上げたところ、プールを挟んで向かい側、例の車椅子少年がちょうどレッスン準備を整えたところでした。その横にはいつものように父親らしき男性が立っていたのですが、彼が話している相手に目をやると、なんと、さっき入り口でさよならを告げたジョージ夫妻だったのです。

そうか、彼の孫というのは、あの少年だったのか。

二十数人の子供たちの叫び声や水のはねる音が反響を重ねるプールの向こう側、息子さんや奥様と言葉を交わすジョージ。その表情には一片の険しさも認められず、かつて私を理詰めで追い込んだあの鬼司令官とはまるで別人です。「充実した老後を過ごす一人の男性」へと変貌を遂げた元上司の穏やかな笑顔を眺めながら、自分の直感は正しかったんだ、と嬉しくなりました。彼はプロとして、厳しいマネジャーを演じていたに過ぎない。周りに好かれることよりも、任務を遂行することを優先させただけなんだ。

レッスンを終えた息子を着替えさせ、再びジョージの方を見やります。プールサイドでお孫さんを囲み、家族で親密に話をしている様子だったので、声をかけるのを思いとどまった私。心の中で軽く会釈をし、そのまま水泳教室を後にしたのでした。

そしてこの日を最後に、ジョージと会うことは二度とありませんでした。


2 件のコメント:

  1. すてきなエピソードですね。『七人の侍』の久蔵みたい。
    Thank you for sharing.

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    1. コメント有難うございます。う~ん、残念なことに、「七人の侍」を観たのはだいぶ昔なので、細部を全然おぼえてない!!久蔵、気になります。近いうちに再鑑賞してみます。

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