2019年4月20日土曜日

Bang for the buck 費用対効果

17歳の息子が受験した大学のうち、8校から合格通知が届きました。五月一日の締め切りまでに進学先を絞り込んで手付金を払わないといけないのですが、どこに決めるかがなかなかの難題です。理由のひとつは、各大学がどんなところなのか、本人ですらよく分かっていないという事実。アメリカの「大学受験」はインターネット上の手続きに過ぎず、息子が実際キャンパスに足を踏み入れたことのある学校はたかだか二校です。日本だったら現地まで足を運んで大教室で試験を受けるのが一般的ですが、アメリカの大学にはその「入試」自体がありません(ほぼ書類審査のみ)。広い国土に点在する「自分に合いそうな大学」をネットで調べて願書を出したのはいいが、いざ受かってみると、四年間も暮らす場所だというのに何も知らないということにあらためて気付くのですね。ハラを決める前にちゃんと見ておこうということで、今月初旬から親子で大学見学ツアーをスタートしました。

当局側も心得たもので、この時期に合格者対象の特別イベントをセットしている大学がほとんど。熱のこもった説明会や豪勢な食事会、「イケてる」在校生一団によるパネル・ディスカッション、人気クラス体験受講などの手練手管で、合格者達の気持ちに最後の揺さぶりをかける戦略です。ほとんどは複数校に合格している状態でイベントに参加するので、学校側としてもこの追い込み時期にどれだけ魅力をアピール出来るかが勝負なのですね。

カレッジツアーの皮切りは、コロラドスプリングス。標高6千フィートの山あいにある私立のリベラルアーツ・カレッジC大へ。ここは「ブロック・プラン」と呼ばれるユニークなカリキュラムが特徴で、一年間を8つのブロックに分け、学生は一ブロック(三週間半)に一科目のみ履修します。終わったら試験を受け、数日間休んで次のブロックへ。この方法なら各分野をより深く掘り下げられるし、定期試験の準備勉強で大抵の学生が悩む「優先順位問題」が解消されるのですね。

二週目は、ミシガン州にある創立150年のクリスチャン系私立大H大。最寄りのスタバまで26マイル(フルマラソンの距離)という人家もまばらな牧草地帯に、荘厳なレンガ造りの校舎が立ち並んでいます。一学年370名前後、教授一名につき学生十名という贅沢な環境。北極の近さを思わせる冷たい強風にさらされながらのキャンパスツアー中、ずっと「ここでの四年間はきっと修行僧のような生活だろうな」と想像していました。しかしながら、息子が学問に集中するための環境としては申し分なし、ということで夫婦の意見は一致。歓迎昼食会では参加者全員が食前に両手を胸の前で組み、目を伏せて神に祈りを捧げます。非クリスチャンの私は何とも居心地が悪く、薄目を開けてこっそり周りを窺っていました。我々以外、全員白人。うちの息子が寛容な額の補助金を提示されているのは、珍しいアジア人ということもあってなんだろうな、と一人で納得していました。

H大ツアーの翌日はデトロイトからフィラデルフィアへ飛び、これまた空港から2時間ほど離れた片田舎にある私立大のB大へ。ここはC大やH大の倍くらいの規模で、今回息子が合格した学校の中で唯一、男子の水球チームがあります。大学自体も全米人気ランキングで一番上。しかしながら、学費の高さもトップです。前日のH大と較べてあまりにも規模が大きいため、妻と私は「人酔い」してしまいましたが、息子は「Animal Behaviorのクラスに参加したよ。めちゃめちゃ面白かった。」と気に入った様子。「実際にサルをニ十匹以上飼育してるんだって。いいなあ。」

第三週は、アリゾナにある州立大へ。ここにはHonors Collegeという成績優秀者だけを集めて手厚い教育環境を用意した学校があり、寮も食事もエリート専用、という豪華さ。カフェテリアはビュッフェ形式の食べ放題(ジェラート・コーナーまである)。敷地内には椰子の木に囲まれたリゾート風プールがあり、37度を超える青天の下、ビキニのスレンダーな女子学生たちが何人もビーチチェアに寝そべっていました。ツアーの中盤には白髪のでっぷり太った学長が現れ、落ち着いたトーンでこの学校の良さを語ります。優秀な若者たちに惜しみなく成長の機会を与える一方、上手にリラックスする方法も学ばせる。この十年間、全米のトップスクールと肩を並べる勢いで有能な卒業生を世に送り出しているのは、そのお蔭だと。

候補を絞り込むために決行したこのカレッジツアー、こうして8校中4校を見学してみて親子三人で気づいたのですが、知れば知る程迷いが深くなるのです。その最大の要因は、学費でしょう。今回訪問した4校の年間費用には、日本円にして三百万ほどの開きがあります。そして、息子が行きたい順と学費ランキングは概ね比例しているのですね、残念なことに。

アメリカの大学は、入学者の一人一人にそれぞれ異なる代金を提示します。同じ大学の同じ学部に受かった友達が年間一万ドルなのに対し、自分は五万ドルを要求された、なんてことが普通に起こります。大学側は、受験生やその両親の収入、家庭の資産額、本人の優秀さや特定スポーツ種目での将来性など、色々加味した上で個別に代金を弾き出すのです。お互い値踏みして折り合ったところでカップル誕生、というのは資本主義の理念に適っていますが、そのことが学生側の意思決定を難しくしているのは確かでしょう。

C大を訪問した際、ファイナンシャルエイド・オフィスとアポを取り、「もうちょっとまかりまへんか?」と息子と二人で直談判してみました。三十分の話合いの結果、初年度の費用を数千ドルだけディスカウントしてもらえたのですが、残りの三年間については何の保証もないとのこと。その際、大学生の娘が二人いるという担当者も同情してくれました。

「子供の学費を稼ごうと共働きしたら、増えた収入のほとんどを大学に持って行かれちゃうなんてひどい話よね。私も同じ立場だからよく分かるの。でもうちの大学の場合、決められた計算式を一律に当てはめてるだけだから、あまり融通が利かないのよ。」

そしてこう続けます。

“You may just want to simply go for a bigger bang for your buck.”
「シンプルに、バックに対してより大きいバンに決めるのがいいのかもね。」

このBang for the Buck(バックに対するバン)は、非常に良く聞くフレーズ。Buck というのはお金、Bangは爆発ですが、この場合「効果」と言い換えた方が意味が通るでしょう。語源については「軍隊でどの武器により多く投資するかを議論する際に使われた」など諸説あるようですが、要するに「費用対効果」のことですね。

“You may just want to simply go for a bigger bang for your buck.”
「シンプルに費用対効果の大きい大学に決めるのがいいのかもね。」

そうだね、と一旦納得して立ち去ったのですが、よくよく考えてみると、この件はそう簡単に片付く話じゃない。「費用対効果」の「費用」は分かるけど、「効果」はあくまで将来予測なわけです。どの学校でどんな教育を受けたら大成功だったなんて、数十年後に振り返ってみて初めて分かること。それに、そもそも何を「効果が大きい」と捉えるかだって本人の感じ方次第でしょう。万人が見て文句なしに「費用対効果のでかい大学」なんて、あるわけがない。

今のところ最安値を提示されているミシガンのH大ですが、「あそこに行けば立派な人間に生まれ変われると思う」と言いながらも、四年間の修行生活を想像して早くも苦悶する息子。にもかかわらずこの大学への期待が高いのは、数週間前にある男性と交わした会話がひっかかっているからでしょう。

今月第一週の日曜日、近くのレストランSeasons 52のテラスで、H大主催の「サンディエゴ地域合格者祝賀パーティー」があったのです。立食形式で、グラスを手に周りの人とフリーに語り合う、というスタイル。「フィラデルフィアからたまたま遊びに来ていた」という32歳の卒業生デュークも参加していて、うちの息子に猛烈なプッシュをかけて来ました。彼はH大卒業後、別大学の医学部(Medical School)に進み、今では一日十件ほど手術をこなす外科医だと言うのです。

「医者になれよ。毎日滅茶苦茶楽しいぜ。」

手術の種類ごとにBGMを変え、リズムに乗りながら踊るように施術しているとのこと。

「今じゃうちの看護師は全員、どの曲かけるべきか憶えてくれてるんだ。」

レッド・ツェッペリンなどのヘビーなナンバーが合う手術、クラシックなピアノがぴったりの手術など、それぞれリズムが違うのだと。

H大の良いところは、学費も生活費もとにかく安いってことだよ。金を使う機会が無いからな。辺鄙過ぎて遊びに出かける場所も無い。学食でビッグサイズのサンドイッチに6ドル払うくらいが贅沢の限界だ。金を使わず四年間がっつり勉強して、セーブした分を投資して医学部行けば、すぐに元が取れるよ。」

そして少し声を落とし、

「俺、この歳で年収75万ドル(約8千4百万円)だぜ。中小企業のCEOだってなかなかそんなに稼げないだろ。おまけに俺の住んでるところは税率がとんでもなく低い。でっかい家も簡単に買えたよ。それにさ、これはあまり知られてないことだけど、有給休暇が年間14週間もあるんだぜ。海外旅行し放題だ。」

そうそう、とスマホを取り出し、

「こないだオーストラリアでカイト・サーフィンやってみたんだ。最高だったぜ。」

と波乗り写真を探し始めます。そしてその途上、目のクリクリした金髪巻き毛の幼い少女の写真が出て来て、

「あ、これうちの娘。かわいいだろ。」

と暫し笑顔で見入ります。その時、他のグループと話をしていたハリウッド女優のようにゴージャスな金髪女性が振り返り、我々に合流します。これがデュークの奥さんだとのこと。

H大のキャンパスで知り合って、一学年下の子だったんだけど、そのまま付き合い始めたんだ。彼女は会計学専攻で、今やその道で大成功してる。」

美人の奥さんと愛くるしい娘、度肝を抜くような高収入と旅行三昧の生活。そんな男、現実に存在するのか…。二人の馴れ初めを尋ねたところ、

「デートする場所が無いから、ボロ車の助手席に彼女を乗せて、雪の積もった駐車場をぐるぐる回ってたんだ(これを「ドーナツする」と呼ぶそうです)。そしたらコントロールが効かなくなって、民家の敷地に飛び込んじゃってさあ。もう少しで家の壁に激突するところだった。」

「あれはほんと、ハラハラしたわよねえ!」

大笑いしつつ手に持ったワイングラスを持ち上げ、軽くぶつけて音を立てる二人。

「当時はスマホが無かったから、私のデジカメでツーショットのセルフィ撮ろうとしたら、カメラを落としちゃったこともあったわよね。」

と奥さん。

「サッカーの心得があった俺は、ここぞとばかりに足を伸ばしてふわっと受け止めようとしたんだ。そしたら完全にタイミングを間違えて、思いっきり蹴り飛ばしちゃったんだよ。デジカメはだいぶ遠くに落ちて、粉々に砕けちまった。」

「でも次のデートで車に乗ったら、後部座席に新しいデジカメの入った箱が置いてあったの。その上になんと、バラが一輪添えられてたのよ!私、すっかり感激しちゃって。」

そして奥さんが私に顔を近づけ、

「バラ一輪で、女のハートを鷲掴みよ!」

夫婦は再び見つめ合ってワイングラスを重ね、チーンと音を立てます。

「後で箱を開けたらデジカメは新品じゃなくてRefurbished(整備済み製品)だったけど、バラで帳消し。」

再び爆笑してグラスをチーン。デュークがここで、

「それもこれも、オヤジのクレジットカードで払ったもんだしな。」

とおどけます。ゲラゲラゲラ、再びグラスをチーン。

費用対効果という観点で言えば、デュークは明らかな成功例でしょう。数年間の修行の末に、貴族のような生活を手に入れたのですから。問題は、これがごくごく特殊なケースであることにどうやらうちの息子は気づいていない、ということ。

昨日の晩の食卓で、

「やっぱりH大に決めて、その後医学部に行こうかな。」

と遠くを見る息子に、

「何言ってんの?医学部にいくらかかるか知ってんの?」

と間髪いれず冷や水を浴びせる妻でした。

2019年3月25日月曜日

Kobayashi Maru Scenario コバヤシマル・シナリオ

水曜の昼、ランチルームで一人弁当を広げていたら、同僚ジョナサンが通りかかって立ち止まりました。

「宿題やった?」

そう声を掛けられ、固まる私。え?何か課題を与えられてたんだっけ?慌てて記憶を辿るも、引っ掛かる気配すら無い。

「ほら、Kobayashi Maru(コバヤシマル)のことだよ。」

「ああ、金曜日に話してたやつ!」

先週彼と話していた際、会話の中で彼の口から飛び出した「コバヤシマル」という単語の意味が分からず尋ねたところ、ニヤニヤ笑いながら「自分で調べてみて」と言ったのでした。

「ああ、あの後ネットで調査したんだけど、ピンと来なかった。そもそも何の脈絡でそんなフレーズが出て来たんだっけ?」

ジョナサンに言われて思い出したのですが、先日我々が話していたのは、うちのチームが新人を採用する際に使っている特殊な面接手法でした。送られて来た履歴書のスクリーニング、そして電話面接による第二審査を潜り抜けた候補者は、オフィスの会議室に来てもらって三十分ほど直接面談します。この時、壁の大画面テレビに正対してもらい、斜向かいに私とシャノンが向き合って座ります。候補者の目の前にはラップトップ・コンピュータが用意してあり、正面の大モニターと連動。

「これからちょっとロールプレイをしてもらいます。あなたは晴れてこのポジションにおさまり、今日が仕事の初日です。僕が上司、シャノンはあなたが担当することになったPMです。彼女が色々依頼をしますので、それに何とか応えて下さい。エクセルを使ったデータ処理が中心ですが、分からないことがあったらボスの僕に何でも聞いて下さい。こんな初歩的なこと知らなくて大丈夫かな、なんて恥ずかしくなるような内容でも、どんどん質問して下さいね。念のため言っておきますが、これはエクセルの技能試験ではありません。クライアントが何を求めているかを理解するため集中して話が聞けるか、そして解答に辿り着くまで粘り強く質問し続けられるかどうかを見たいのです。では始めます。」

大抵の候補者は、見ていて気の毒になるくらい動揺します。こんなテストを受けさせられるとは予想もしていなかっただろうし、自分はエクセルの上級ユーザーですなんて履歴書で宣言してしまっている場合、初歩的なミスでボロを出すわけにはいかないぞ、と身構えてしまうのですね。

「ここに過去のコスト・データがあるんだけど、どのタスクに誰が今まで何時間チャージしたか、表にしてくれる?」

「月別のトータルコストを見たいんだけど。」

シャノンが質問を繰り出し、これに候補者が応えて行きます。この間、私は繰り返し「何でもどんどん質問してね」と助け船を出すのですが、彼等の大半は自力で切り抜けようともがいた挙句に自滅して行きます。たまに本物のエクセル上級者が現れたりもするのですが、そういう人に限って基礎的な質問をしたがらないので、クライアントの要求をきちんと理解せぬまま暴走し、見当違いの解答を出して首を傾げられてしまうのです。能力をアピールしようと焦っても不合格、正直に振る舞った結果履歴書に嘘を書いたことがバレても不合格。握手の直後にヨーイドンで始まるので、対策を練る時間も無い。候補者はほぼパニック状態でこのテストに突入して行くのですね。

「まるでKobayashi Maru Scenario(コバヤシマル・シナリオ)だな。」

と、ここでジョナサンが例の一言を呟いたのです。あ、そうだった、あの時使った言葉だね。で、どういう意味なの?と私。

「スタートレックって映画知ってるだろ?宇宙艦隊アカデミーで幹部候補生が受けるシミュレーション・テストなんだ。民間の貨物船コバヤシマルが故障して漂流している。SOSを受けて救助に行くんだが、敵から総攻撃を受ける地域で、行かなければコバヤシマルの乗り組み員は全員殺されるが、救助に向かえば包囲されてこっちも全滅する、という想定。さてどうする?ってね。」

「え~?そんなの絶対無理じゃん。」

「そうなんだ。どう転んでも勝ち目は無いんだよ。このテストの本当の目的は、そういう絶望的な状況で候補生がどんな反応をするかを見極めることなんだ。」

「う~ん、僕らのやってるテストとはちょっと違うな。どれだけ質問してもいいよ、って逃げ道を与えてるからね。」

「でもその質問ですら罠にもとれるわけだろ、候補者から見れば。」
確かに、この採用試験を見事パスしたカンチーもテイラーも、後で聞いてみると密かに敗北感を味わっていたと言っていました。

「絶対落ちたなぁって思いましたよ。だって分からないことだらけだったから。」

彼女達のポジティブで誠実な態度は、図抜けていました。私に対する質問からは、PMからの依頼に出来るだけ的確に応えようという真摯な姿勢が窺えました。そう、解答のクオリティや処理スピードは、後々トレーニングで幾らでも改善出来ます。でもその人の人間性ばかりは他人がどうこう出来るものじゃない。私もシャノンも、まるでダイヤの原石を見つけたように喜んだのでした。

さて金曜のランチタイムには、カンチーと連れ立ってリトルイタリーにあるNA Pizzaまで歩きました。

「昨日の朝、クリスティがいきなり涙目でハグして来たからビックリして、どうしたの、大丈夫?って言ったら、あなたこそ大丈夫なの?って聞き返されちゃって。」

シンスケから話は聞いた、大変な目に遭ったみたいだけど無事で本当に良かった、と涙ぐむクリスティに、あ、そのことか、とようやく気付いて「大丈夫よ。心配してくれて有難う!」と答えたカンチー。

「大変な目に遭った」というのは、先週末に彼女の身に起こった大事件のこと。イタリアから訪ねて来ているという男友達(彼氏ではないとのこと)と二人、最近新車で買った黒いスバルSUVで西海岸を三日間ドライブ旅行していた彼女。日曜の夕方までにサンディエゴへ戻る予定だったのだが、すっかり夜中になってしまい、あと6時間という地点で強烈な睡魔に襲われた。このまま運転し続ければ事故になりかねない、と判断。海沿いのキャンプ場に車を停めて仮眠することにした。夜明け前にふと目覚めたのだが、なんだか車が不自然なほど揺れている気がして身を起こすと、フロントガラスに波しぶきがかかっている。そして、自分の車が海の真っ只中にあることを悟るまでに数秒かかった。キャンプ場なら安心と思っていたら、寝ている間に潮が満ちていたのです。幸いにも車内までは浸水していないが、このまま手をこまねいていれば車ごと沖まで運ばれてしまうかもしれない!

気が動転し、手の震えが止まらない。しかしとにかくこの状況を脱しなければ、とイグニッション・キーを回したところ、うんともすんとも言いません。エンジン回りは既に海水をしたたかに被っており、機能停止状態だったのですね。かくなる上は自力で車を岸まで戻さなければ!ドアを開けて男友達と靴のまま飛び降り、ジャブジャブ音を立てて前方に回ると二人で力一杯押してみます。ビクともしない。タイヤの下半分はガッチリ砂に捕まっており、既に手遅れだったのです。暗闇から迫り来る波を背中に浴びつつ、震えながらビショビショの車に抱き付いている自分達が段々可笑しくなって来て、二人で笑い始めた、とカンチー。

とりあえず一旦岸に上がり、警察に電話します。ここ、しょっちゅう同じことが起こるんだよね、というリアクションに「だったら注意書きの立て札でも置いとけばいいのに」と呆れますが、色々手配してもらった結果、15分ほどでレッカー会社のトラックが到着することになりました。そうこうしているうちにも徐々に潮が満ちて来て、愛車はみるみる波に呑まれて行きます。その瞬間、自分の心が意外にも平静であることに気付き、軽く驚くカンチー。

「何故か分からないけど、まあ仕方ないかって思えたんです。」

このドライブ旅行の前半、長く続いた春の雨を吸い込んで萌え出た緑の山々、そして広大な海とに挟まれたフリーウェイをのんびり走るうち、自分の人生を静かに見つめ直すことが出来た。プライオリティも整理した。身の回りで起こる様々な出来事にいちいち振り回されるのはやめようと決めた。そんなタイミングで起きた今回の事件。

「何かの啓示のような気さえしたんです。」

冷めていくピザを前に、感に堪えない面持ちで語るカンチー。

ローンを組んで買ったばかりの「コバヤシマル」を懸命に救おうとした彼女。健闘虚しく退散を余儀なくされたものの、その際に悲憤慷慨するのではなく、たちまちのうちに静かな諦観に至った。まだ二十代だというのにこの成熟度は何だ?私が宇宙艦隊アカデミーの学長だったら、文句なく合格証書を授与していたことでしょう。

夜が白々と明けて来て、ようやく到着したレッカー会社の男がケーブルを彼女の愛車の後部に引っ掛け、ゆっくり浜へと引き上げて行きます。その時、遠くから三匹の犬を連れた妙齢の女性がやって来ました。カンチーと男友達の傍に立ち止まると、二人が見つめる方角を振り返り、ああまたか、という風に溜息をつきます。

「ここはキャンプ場が波打ち際にあるんだけど、そうと知らず夜のうちに車を停めて寝ちゃう人が結構いるのよね。」

どうやらカンチーの落ち着いた表情を見て、沖で波をバシャバシャ被っている車が彼女のものだとは思ってもいない様子。

「私、毎朝ここを散歩するんだけど、そういう車を発見する度に、窓を叩いて起こしてあげてるのよ。満ち潮になったらここまで海が来ますよ、早いとこ動かした方がいいですよってね。」

それを聞いたカンチーと男友達は、思わず笑いながら声を揃えて突っ込んだそうです。

“You were too late this morning!”
「今朝は遅すぎたじゃん!」

2019年3月16日土曜日

If the shoe fits, wear it. 思い当たる節があるなら素直に認めよう。


金曜の午後、久しぶりに同僚ジョナサンの席へ行って英語の質問をしてみました。

「あのさ、Muddy the waters(水を濁らせる)って表現あるでしょ。あれ、どういう意味?」

先日のウェブ・トレーニングで安全講習があったのですが、参加者のひとりからテキストで寄せられた質問を読み上げた後、講師のデヴォンが慎重に言葉を選びながら答えを返し、それから

“I guess I’m muddying the waters.”
「水を濁らせちゃってるみたいだね。」

と付け加えたのです。

「それは彼が、長々と丁寧に説明し過ぎたためにかえってこんがらがらせちゃったかも、と言いたかったんじゃないかな。正確を期すため聞かれてない情報まで盛り込んだりしてるうちに、どんどん全体像が拡大しちゃうことってあるだろ。当初の質問が思い出せなくなるほどに。」

Muddyというのは濁らせる、という意味。これは分かります。でも、Watersが複数形なのはどうしてだ?これに引っかかって先に進めなかった私(後で調べたら、「複雑だったり危険だったりする難しい状況」を表現する時、象徴的に使われる単語とのことでした)。つまりデヴォンが言いたかったのは、こういうことですね。

“I guess I’m muddying the waters.”
「余計混乱させちゃったかもね。」

更にジョナサンに質問。

Square peg in a round holeって表現があるでしょ。あれさ、どうもしっくり来ないんだよね。何か用例を教えてくれる?」

これは、四角い杭(Square Peg)を丸い穴(round hole)に入れようとする、つまり無理を通そうとする行為のことですね。

「どこで聞いたの?」

とジョナサン。いや、これはしょっちゅうあちこちで聞くよ、と私。

「会社の立派なPMツールは俺のちっぽけなプロジェクトを管理するには不向きなんだ、あれは建設工事みたいにスケールのでかいプロジェクトに合わせて作られたアプリだからな、って不満を言う人達の口からよく飛び出すね。」

「うん、まさにその通り。そもそも合わせることに無理がある二つの対象を何とか組み合わせようとしてる時に使うんだよ。」

「でもさ、何だかこのイディオム、素直に使えないんだよ。だって納得行かないじゃん。」

穴の口径が杭断面の対角線より長ければ問題無く納まるでしょ。もちろん緩くはなるけどさ、と私。

「分かる。俺もそれ、ずっと思ってた。非常に良い疑問だ。そんなフレーズ憶えなくてもいいよ。大体イディオムなんか、使わないに越したこと無いんだ。」

とジョナサン。

「またまたそんなこと言う。僕はね、イディオムを上手に使って彩り良く会話を組み立てたいんだよ。君だって結構、効果的にイディオム使ってる方じゃない。すごい話上手だし。」

「だけど下手にイディオムを持ち出せば、聞く人が首を傾げるようなことになりかねないだろ、今の例みたいに。俺はとにかくイディオム反対派だね。」

「あ、それで思い出した。」

先週、北米西部のトップ・エグゼクティブP氏がサンディエゴ支社にやって来てPMの心構えについてスピーチした際、こんなことを言ったのです。

“If the shoe fits, wear it.”
「靴がしっくり来るなら履きなさい。」

はあ?何だって?

後で調べたところ、これは「自分に対する指摘や批判に少しでも思い当たるところがあるのなら、素直に受け入れなさい。」という意味であることが分かりました。

「シンデレラのお話あるだろ。お姉さんたちは足がデカすぎて、落とし物の靴を履けないってくだり。サイズが合うってことはあなたの靴なんでしょ、認めなさいよ、ってな感じかな。」

「う~ん、でもさ、優秀なPMとはどういう人物か、みたいな文脈でいきなりあんなイディオム出されたら、面喰うよ。」

「それが狙いなんだよ、きっと。俺、P氏のミーティングには出なかったけど、おおかたカッコいい顔でキメ台詞的にこのフレーズを使ったんだろ。」

「そうそう、よく分かったね。とてもじゃないけど、それどういう意味っすかぁ?なんて質問できる雰囲気じゃなかったよ。」

“That’s his Get Out of Jail Free Card.”
「それが彼の刑務所脱出万能カードなんだよ。」

とジョナサン。え?何それ?と私。

「モノポリーってすごろくゲーム知ってるだろ。何かで捕まって刑務所送りになっても、それさえ出せば免除してもらえるっていう切り札があるんだ。P氏も鋭い質問を浴びて詰まったりしないよう、時々曖昧なイディオムぶち込んで聴衆がポカンとしている間に先へ進む、そういう戦法なんだよ、きっと。」

「え~?そうなのかな。だとしたらそれはそれでスゴイね。」

「ま、何度も言うけど、イディオムの多用は禁物だよ。何かを正確に伝えたかったら、きちんと的確なワードを使って平易に喋るべし。」

「本当にいつもご教授有難う。君と話す度に、たくさん学ばせてもらってるよ。」

そうお礼を言って立ち去ろうとする私に、いやいやとんでもない、と少し照れた顔でジョナサンがこう答えました。

“I may turn the tables next time.”
「次回は逆の立場になるかもしれないし。」

そして慌てて、

「あ、今のは意味分かるよね。テーブルを回転させる(turn the tables)、ということから、今度は俺が教わる立場になるかもしれないって言いたかったんだよ。」

と言い訳しました。それからちょっと顔を赤らめ、

「イディオムで締めくくっちゃってゴメン。」


2019年3月2日土曜日

Hangover 二日酔い


先週の火曜日、ランチルームでひとり弁当をむさぼっていたところ、同僚マリアが現れました。オフィスで顔を見るのは数カ月ぶりです。

「やっと会えた!ずっと探してたのよ。」

私の隣に座り込むや否や、まだリチャードとエドにしか話してないんだけどね、と前置きをしてから急に小声になる彼女。

「三月一杯でサンディエゴを引き払うことに決めたの。」

80歳超えの母親をはじめとした親戚一同の住むシカゴに戻ることにした。そもそもサンディエゴには何の身寄りも無かったし、長く身を置いて来た組織が解体され、今の上司は遠くフェニックスにいる。どのみち南米担当だし、どこにいようが仕事のクオリティに差は出ない。良き相談相手である元ボスのエドも去年から完全自宅勤務になり、この支社に出勤し続ける意味が希薄になっている。去年の夏シカゴに出張した際、支社の人たちに状況を話してみたら、是非移っておいでよと気持ちよく引き受け態勢を敷いてくれた。だから四月一日に引っ越すことに決めたのよ、と。

「それは良かったじゃん。さっそく壮行会を企画しなくちゃね。」

と私。その午後、エド、リチャード、そしてマリアに宛て、三月末のお別れランチ会招待メールを発送しました。三人から即出席の返信が届き、マリアは

「企画してくれてありがと!」

と喜んでくれました。

その翌朝、二年半ぶりのハワイ出張へ向けて旅立った私。今回の主目的は、「エクセルを使ったコスト管理法」をホノルル支社の皆さんにプレゼンする、というもの。過去一年半ほどサポートして来た劇場設計プロジェクトが間もなく終結を迎えるのですが、その成功に私の開発した方法論が一役買ったということで、他の社員達にも是非教授して欲しいとPMチームから直々にお招き頂いたのです。

オアフ島に到着したのは夕方四時半。レンタカーでワイキキのコートヤードホテルへ。一旦チェックインしてシャワーを浴びてからウーバーを呼び、オフィス街の外れにあるパシフィックリム料理レストラン「シェフ・チャイ」で開かれる歓迎ディナーへと向かいます。これが、PMのクリステン、それからディレクターのマーティンとの初顔合わせでした。二人とも日本名の苗字なので、バリバリの日本人顔をイメージしていたのですが、見事に予想を裏切られます。マーティンは「グレート義太夫」を彷彿とさせる髭と体格のサモア系、クリステンは十二ひとえが似合いそうな色白垂れ目のロングヘア―で、韓国系(旦那が日系アメリカ人)。過去一年以上、電話やメールでほぼ毎週会話して来たので、勝手に頭の中で見た目の想像が膨らんでいたのですね。食事の間中、イメージの微調整を続けざるを得ませんでした。この二人に加え、カッコよく日焼けしたローカルサーファーのランディ、十数年前から何度も出張先で会っているイギリス出身で財務のプロ、テリー、そして前回の出張で知り合った引退間近のベテランPM、アン。この五人と絶品料理に舌鼓を打ちつつ、プロジェクトの裏話などで盛り上がります。暫くして私は、ふとあることに気付きました。

「あのさ、皆それぞれ所属部門が違うでしょ。部門の垣根を超えてプロジェクトに取り組むことってよくあるの?」

マーティンは交通部、ランディとクリステンは建築部。テリーは環境部。アンは上下水道部の社員です。私の質問を受け、五人とも一瞬、戸惑いを見せます。そして顔を見合わせると、ほぼ全員で「しょっちゅうだよ」と答えました。

ホノルル支社には百名ちょっとしか社員がいない上、プロジェクト・サイトはハワイ四島全部に拡がっています。どの部門に所属していようが、使える人材はどんどん使わないと仕事は回らない。部門や肩書なんてものに囚われてる人はいないよ、とマーティン。これを聞いて急に、我が社がまだ数千人規模だった時代の記憶が蘇って来ました。あの頃は、事務所ひとつひとつがまるで田舎の集落のようなまとまりを見せていたなあ、と。会社が吸収合併による膨張を続け、全社規模での部門採算性を追求するようになった結果、横の付き合いは軽んじられるようになりました。更には極端な人員削減やランチタイムにセットされる会議やトレーニングなどによって、社員は恒常的なオーバーワーク状態。職場の仲間との飲み会はおろか、ランチも、更には世間話に費やす時間すら激減しています。そういえば、同僚達との「日本食の夕べ」を最後に企画したのはいつだったかも思い出せません。ハワイの社員達はその小さな所帯ゆえに、緊密な連帯感を維持出来てるんだなあ、とホンワカした気分になりました。

夜9時を過ぎ、ウェルカム・ディナーはお開きになりました。店を出ると、2月の夜だというのに半袖でもいられる暖かさ。アンはテリーの運転するSUVで走り去り、私はウーバーを呼んで残りの三人にさよならを言ってからホテルへ戻りました。

翌朝ホノルル支社に到着すると、一緒にプレゼン準備をする約束だったクリステンの姿が見当たりません。テキストを打ったのですが、返事もありません。不審に思っていたところ、間もなく彼女から「ちょっと遅れる」というテキストが入ります。仕方ないので無人キュービクルでラップトップを開き、暫く別の仕事に集中していたところ、後ろからトントンと肩を突かれました。振り返ると、そこに魂の抜けがらのようなクリステンが突っ立っていました。肌が荒れて化粧は剥がれ落ち、目はどんよりとし、口が開いて下顎がだらしなく落ちています。

「一体どうしちゃったの?」

女性の顔を見た途端にこんな不躾な質問をすることなど普段は絶対ないのだけれど、思わず口を突いて出てしまいました。

“It’s really a bad hangover.”
「ひどい二日酔いなのよ。」

浅く息を吸って慎重にゆっくり吐き出しながら、やっと答える低音のクリステン。僅かな身体の揺れにも反応して作動する爆弾を胴に括りつけられた人のように、微動だにせずそこに立ち尽くしています。昨夜は私が去った後、ランディやマーティンと連れ立って別の店で飲み直した、と彼女。だいぶ遅くなったので、もう一軒行くと言い張るマーティンを残し、ランディと一緒に最初のレストランに戻ります。彼女は自家用車をこの店の立体駐車場に停めていたのですね。ところが既に閉店作業が始まっていて、車庫係の従業員たちはゲート前でわいわいマリファナを吸っていた。車の鍵はどこにあるのか、駐車場には入れないのかと尋ねたのだが、一向に埒が明かない。あきらめて別の場所に停めてあったランディの車に乗せてもらい自宅に戻るが、途中でスペアキーの存在に気付く。家の前にランディを待たせ、鍵をひっつかんでもう一度ダウンタウンに引き返してもらった彼女。すると従業員が店の照明を落としドアに施錠しているところに出くわす。「車の鍵ならカウンターの上にあるよ」と言うので、ドアを開けてもらって店に入り、遂に自分のメインキーをゲット。そして立体駐車場でマイカーに乗り込み、深夜に帰宅してようやく眠りにつく。

「猛烈な頭痛で目が覚めたんだけど」

とクリステン。旦那がバタバタと出かけて行くのを見送ると、起きて来た三人の子供(五歳、三歳、一歳)に朝食を与え、幼稚園と保育園にそれぞれ送ってから出社した。

「私は何も食べてないし、とても食べられない。」

気の毒さよりも面白さの方が勝ってしまい、ゲラゲラ笑いだす私。これほどベタな二日酔いの人を職場で見るのって、何年ぶりだろう?そもそも夕食後に「飲み直す」という行為自体、すっかりご無沙汰だぞ。日本にいた頃は当たり前に皆やってたのに…。よく考えてみると、他部門の人達と集まって深酔いするほど飲むなんて、少なくとも今の私の職場では想像もつかないことです。自分は会社でどれだけ親密な人間関係を築けているんだろう?と自問せざるを得ませんでした。

口を半開きにしたまま苦し気に息を吐きつつ話し続けるクリステンの顔を眺めながら、なんだかちょっと羨ましく思っている自分がいたのでした。

さて、プレゼンの方は大好評を頂き、出席者たちからの「私のプロジェクトもサポートして欲しい」という依頼も数件頂きました。帰宅日の土曜はフライトまでに数時間あったので、ホノルル支社の人々やウーバー運転手たちからのおすすめ情報をもとに、オアフ島の東海岸をレンタカーでのんびり北上する旅に使いました。

途中、日の出を見たり、有名なシュリンプ・トラックやかき氷店に立ち寄ったり、秘境の滝を訪れたりしました。異常に低い制限速度の道路、高く広い青空、ぬるい風、澄んだ海、深く豊かな緑、鮮やかな赤やピンクやオレンジの花、賑やかな鳥のさえずり、そして地元の人々の穏やかな笑顔。「ハワイ大好き!」という人の多い理由が、とてもよく理解出来た気のする半日でした。

帰宅翌日の日曜日、この「のんびりハワイ」の記憶は、まるで二日酔いのように私の脳に沈殿し続けました。そして何度も、口を半開きにしてぼんやりしている自分に気付くのでした。

ところがその日の夕方、突如とんでもなく激しい後悔に襲われます。慌てて同僚リチャードにテキストを送る私。

「マリアの壮行会だけど、ランチじゃなくてディナーの方がいいと思わない?」

15年近い付き合いのマリアが遠く離れてしまうというのに、たった一時間のランチ会で壮行会を済ませようとしていた私。まるで仕事の打ち合わせみたいに、予定を機械的にカレンダーに組み込む「作業」としてこの件を扱っていた。おい、一体何を考えてたんだ?あのマリアがいなくなっちゃうんだぞ!もうこれで一生会えなくなるかもしれないんだぞ!

「そうだね、きっと彼女もその方が喜ぶと思うよ。」

リチャードから返信が届きます。彼も内心は、なんでランチなんかであっさり済ませようとしてるんだろうって不審に思ってたのかもな、という疑いが初めて頭をもたげます。忙しさにかまけ、友達との人間関係をずっと疎かにしていた私。図らずも、今回の一件でそのことが露呈してしまったのです。すぐにマリアにもテキストを送ります。

「壮行会はやっぱりディナーにしたいんだけど、大丈夫?」

すると彼女からすぐに返信が届きます。

“I would love to do dinner.”
「ディナーいいわね。」

日本食レストランに行きたいな、とマリア。シカゴに行ったら良いところが見つかるかどうか分からないし、そもそもシンスケみたいなベスト・ガイドがもうそばにいないじゃない。あ、そうだ、奥さんや息子さんとも最後にもう一度会いたいな。来れるようだったら連れて来てね!

クリステンのひどい二日酔い顔のお蔭で、人生で本当に大事なことをひとつ思い出せたのでした。

2019年2月12日火曜日

Healthy as a horse 馬並みに元気


同僚サラと久しぶりに打合せした際、調子どう?と切り出したところ、

“Healthy as a horse!”
「馬みたいに健康!」

と笑顔で返して来ました。おおいいね、そういうパワフルな言い回し!とたちまち気に入った私。数年前に実際の馬を間近で見た時、こんなにデカかったのか!と驚嘆した記憶が蘇ります。胸と言い太ももと言い、鍛え上げられた筋肉は圧倒的迫力で、下手に怒らせたらヤバいぞ、と委縮したものです。それにしても、人間の体調を馬で喩えるというのは盲点だったなあ、確か日本語には無いよな、この表現。別の文脈で「馬並み」という喩えならあるけど…。

さて先週は、中学時代から数えて40年以上もの付き合いになる友人Pが東京からやって来て我が家に三日間滞在していました。彼の旅の目的は、伝説のロックバンド「キッス」のファイナル・コンサートに行くこと。去年の秋頃、キッスがサンディエゴに来るぞという情報をつかみ、日本にいる彼に冗談半分で「来る?」とメールで打診した私。まさかねと思ってたら、「行く!」と乗って来たのです。1973年の結成以来不動のメンバー、ポール・スタンレーとジーン・シモンズは、とうの昔に還暦を迎え、間も無く古希。数年前から「もうこれが最後」と毎年のようにファイナル・ツアーを繰り返し信用を落としつつもファンを喜ばせて来た彼等ですが、その年齢を考えれば本当にいつフィナーレが訪れるか分からない。これは行ける時に行っとかないときっと後悔するぞ、という決断でした。キッスファンでも何でもない私は、友人Pの送迎だけ務めることも出来たのですが、「チケット代出すから」というオファーにぐらつき、二人で乗り込むことに決めたのです。

木曜の晩、サンディエゴ州立大学(SDSU)のキャンパス内にあるバスケットボール競技場「ヴィエハス・アリーナ」で7時半開演ということだったので、6時半頃会場入り。入場ゲート目掛けて十列ほどの長い待ち行列が出来ています。周囲には家族連れや若いカップルもいましたが、予想通り大多数は高齢の男性。キッスのロゴ入りTシャツを着た人はもちろん、キッス・メンバーと同じ隈取をした、もはや本人確認不能のイカれた老人ファンも大勢いました。こんな歳になってもまだロックンロールに熱を上げられるのかよ!と呆れつつも感心しきりの私達。

友人Pは数年前からランニングにはまり、ハーフ・マラソンに挑戦するなどして中学・高校時代の体型を維持している健康優良中年です。駐車場から一キロ近く元気に歩いたのですが、アリーナ入口で急に足を止め悩み始めます。どうしたのかと尋ねると、「どのタイミングでトイレに行っておくか」で迷っているとのこと。

どれだけ筋トレや走り込みを重ねても、膀胱まわりの筋肉は鍛えられないようで、頻尿はこの年代の「語られざる常識」なのですね。一旦ライブが始まったらアンコール最終曲終了までは席を外したくない。かと言って喉がカラカラになるほど水分摂取を控えて臨むわけにもいかない(倒れるリスクがあるので)。我々の座席は二階席の前から十列目くらいで、ステージをほぼ正面に拝める絶好のスポットでしたが、会場がすり鉢状になっているため、外のトイレへ行くには心臓破りの坂を登らなければなりません。一旦は腰を下ろしたものの、そわそわが止まらない友人P。「さっき紅茶一杯飲んだだけなのに」と自分のずば抜けた代謝能力に恨み言を垂れつつ、前座の前に早くも二回トイレを往復していました。

さて、夜9時を回っても一向にショーの始まる気配が無く、あれあれ、もしかしてメンバーの体調不良とかで中止になるんじゃないよね、と心配しかけた頃、突然ふわっと照明が落ち、会場のファンが一斉に湧きます。低い声のイントロダクション・アナウンスがこだまし、大音響が炸裂。そして眩い照明。ステージ脇で垂直に吹き上がる火炎柱に合わせて巨大な幕がストンと落ち、黒と銀のまがまがしい衣装を纏った「悪魔の使者たち」が、天井から吊られた三枚の板の上、ギターやベースを弾きつつゆっくりと降下して来ます。お約束の名曲「デトロイト・ロック・シティ」で、ライブがド派手にスタート。観客は瞬時に熱狂の渦に。ステージ奥に三枚の特大スクリーン、天井には18枚の可動式八面体スクリーン。そして四方八方から何十色ものカラー・ビームが放射され、ステージを盛り上げます。

リード・ボーカルのポール・スタンレーは御年67歳ですが、毛むくじゃらの逞しい胸、形よく盛り上がった三角筋と上腕二頭筋、そしてぺったんこのお腹を衣装から覗かせています。カールした黒い長髪を振り乱し、高さ15センチはあろうかと思われる上げ底ブーツで小刻みにステップを踏みながら絶叫するその様は、今まさに荒馬が駆け出さんとするかのような雄々しさ。

その横では間もなく70歳のジーン・シモンズが、ベースで重低音を奏でつつ、トレードマークの長いベロを大蛇のように出したり引っ込めたり。ライブ中盤では血のりをドバっと吐き出したり、松明の火に霧状のガスを吹きかけて人間火炎放射器になったりと、大いに観客を沸かせます。

思ってたのと全然違うじゃん!というのが私の感想でした。途中で息も絶え絶えになり醜態をさらすんじゃないかと高を括っていたら、どっこいこの前期高齢者たち、出だしから全くペースを落とさず、エンジン全開で一時間半演奏しきったのです。アンコール曲の最後は、お馴染み「Rock and Roll All Nite」。

“I wanna rock and roll all night and party every day!”
「ロックンロールしたいぜ一晩中。毎日パーティだ!」

会場のファンも、怒号のような大合唱。う~ん、恐るべし、キッスのメンバーとそのファンたち!どいつもこいつもじじいのくせに、馬並みに元気じゃないか!

興奮冷めやらぬまま建物を出た時、「一応もう一回行っておこう」と二人で男子便所へ向かいます。駐車場に戻るまで距離があるので念のため、と。するとあろうことか、あっと驚く長蛇の列がトイレ前に出来ていたのです。こんなの、行楽シーズンの海老名サービスエリアでも見たことないぞ…。きっと皆ライブ中、どうにか耐えていたのでしょう。膀胱の弾力も限界に達したジジイたちが、もじもじしながら列の進むのを待っています。我々二人の順番がようやく回って来て、手を洗って外へ出ようとした時、背後で悲鳴に似た絶叫が聞こえました。

「俺、74歳なんだよ。頼むから先にやらせてくれ!」

馬並みに元気でも、頻尿だけはいかんともしがたい、というお話でした。

2019年1月27日日曜日

That’s just the way it is. とにかくそういうものなのよ。


「あのさ、お願いがあるんだけど。」

先日の朝、妻にこう言いました。

「起き抜けに夢の話するの、やめてくれる?」

寝ぼけまなこで彼女が語る「たった今見た夢」というのは大抵、何十匹ものネコにどこまでも追いかけられるとか、狭い洞窟にはまって身動きできないとか、聞いてもただ気分が悪くなるだけの支離滅裂なストーリーなのです。

「だってコワかったんだもん。聞いてくれてもいいじゃない!」

ま、気持ちは分かるんだけど、さあこれから新たな一日のスタートを切ろうというタイミングで、思い切り出鼻を挫かれるのはあまり愉快じゃないのです。

嫌な夢を見るというのは、恐らく体調の悪さに起因しているのでしょう。妻は過去数年、慢性的な肩の痛みや突然の激しい腹痛に手こずらされており、医者やマッサージに通って何とか凌いでいます。家具や車と同様、人間にも耐用年数があるようで、いつまでもピンピンしているのは難しい。これは男女問わず、避けて通れない関門なのですね。

先日の一時帰国中、かれこれ四半世紀の付き合いになる遊び仲間のN氏と渋谷で食事した際、

「小便の切れが悪くなるなんてことが自分の身に起こるなんて想像もしていなかった。」

という話題で意気投合してしまいました。知り合いの中でも図抜けた「遊び人」だった彼と、まさか肉体の衰えの話で盛り上がることになるなんて…。トホホな気分で笑い合ったのでした。

さて、先週水曜日の昼は大会議室で、サンディエゴ支社全員(百人以上)の集まるミーティングがありました。司会進行を務める元大ボスのテリーが、中盤でこんな話題を出します。

「オフィスの室温設定だけど、これまであちこちで諍いの種になってたでしょ。ある人は寒過ぎるから温度を上げてくれと言い、今度はこっちで暑すぎるから下げろって具合にね。で、色々議論した結果、71度(摂氏21.7度)から一度たりとも動かさないことに決めたから。」

「え?じゃあ俺の席のそばの壁にあるコントロールパネルで温度を変えたらどうなるの?」

と、男性社員の一人が手を挙げます。

「好きなだけ上げ下げしていいわよ。何も変わらないから。ビル管理センターの方で制御しちゃってるの。」

出席者たちが、微かにざわつきます。71度という数字が妥当かどうか、受け止め方は人それぞれでしょう。

「寒過ぎると感じる人は、上着を羽織って調節してちょうだい。私も常に一枚余分に持って来てるわ。」

とテリーが続けます。そして、こんな風に締めくくったのです。

“That’s just how it is, like dealing with menopause.”
「とにかくそういうものなの。更年期障害と向き合うみたいにね。」

思わず爆笑する私。数秒して周りを見渡し、笑い続けているのが自分だけなのに気が付き、慌てて黙ります。

職場に戻ってマグカップに珈琲を注ぎ足そうと給湯コーナーに向かっていた時、席に戻っていたテリーと目が合いました。

「更年期を冗談にするのって、まずかったかしら?」

と笑うテリー。私が大ウケしてたのに気付いていたのですね。あなたのキャラだからこそ許されるジョークなのだ、と答える私。すると彼女は少し真面目な表情になり、きっぱりとこう言いました。

“Every husband has to learn about menopause.”
「世の旦那は全員、更年期障害のことを学ぶべきなのよ。」

なるほど、きっと彼女は思うところあってそんなジョークを持ち出したのですね。年齢に伴う体調の変化というのは、個人の意思でどうこう出来るものじゃない。現実と向き合い、淡々と対処していくしかないのだ。伴侶はそのことに理解を示し、協力するべきなのだ、と。

私も妻の夢の話、ちゃんと聞いてあげないといけないのかな、と密かに思い直すのでした。

さて先週末のこと。一念発起し、スマホに二つのアプリをダウンロードしました。ひとつはPush Ups(腕立て伏せ)。もうひとつはSix Pack in 30 Days30日でシックスパック)。どちらのアプリも、まずは少しずつエクササイズを始め、徐々に負荷を上げて行って筋肉を仕上げる、というデザインになっています。

実は昨年末まで数カ月間、風邪を引いたり忙しかったりですっかり運動量が落ちてしまい、腹の回りでだぶついた脂肪は、自己嫌悪に陥るほどの醜さでした。これはヤバいぞ、何とかしなければ、と焦りはするものの、ずるずると惰性で日々を過ごしていた私。そんな中、日本行きの飛行機で観た映画「ミッションインポッシブル/フォールアウト」に、とてつもない衝撃を受けたのです。

盗まれたプルトニウムを奪回しようと八面六臂の大活躍をするIMFのエージェント、イーサン・ハント。飛び発つヘリコプターから垂らされた縄に飛びついてよじのぼったり、乗っていたバイクが横から車に体当たりされ車道に吹っ飛ばされたり、若いマッチョマンと互角の殴り合いをしたりと、ど派手なシーン満載のエンターテインメント作品なのですが、私にとっての圧巻は、広大な高層ビルの屋上を延々とひた走る場面。その圧倒的なスピードと持久力に、思わず感動の唸り声を上げてしまった私でした。イーサン・ハント役のトム・クルーズは、ハリウッドのアクション俳優で唯一スタントマンをつけないことで知られているそうなのですが(映画関係者の知人から教えてもらいました)、なんと私と同年代。おいおい、この歳であんなに走れるかよ普通?!

あの衝撃以来、私は彼の「年齢不相応な」動きを何とかして自分の身体でも実現出来ないもんだろうか、と日々考えて来ました。そして「千里の道も一歩から」ということで、無料アプリで肉体改造を目指すことにした、というわけ。

さて、三日目のエクササイズ・メニューを終えてシャワーを浴び、眠りについた私。翌朝起床して洗面所の鏡で自分の上半身を目にした途端、思わずあっと声が出ます。腹筋が「割れてる」とまでは言わないが、ウエストはキュッと締まり、二の腕も太くなったし大胸筋もかなり盛り上がっている。おお!僅か三日でこれほどまでの成果が出るとは!じゃあ30日も続ければ、本当にバッキバキのシックスパックが出来上がるじゃないか!と大興奮の私。

と、ここで目が覚めました。あれ?と思って洗面所へ。そして鏡の中、初日からほとんど変化の見られない自分の裸身をまじまじと眺め、

「そりゃそうだよね。」

と呟く私。

さっそく妻にこの夢の話をしようと思って寝室に戻りましたが、すんでのところで思い留まったのでした。