「あのさ、お願いがあるんだけど。」
先日の朝、妻にこう言いました。
「起き抜けに夢の話するの、やめてくれる?」
寝ぼけまなこで彼女が語る「たった今見た夢」というのは大抵、何十匹ものネコにどこまでも追いかけられるとか、狭い洞窟にはまって身動きできないとか、聞いてもただ気分が悪くなるだけの支離滅裂なストーリーなのです。
「だってコワかったんだもん。聞いてくれてもいいじゃない!」
ま、気持ちは分かるんだけど、さあこれから新たな一日のスタートを切ろうというタイミングで、思い切り出鼻を挫かれるのはあまり愉快じゃないのです。
嫌な夢を見るというのは、恐らく体調の悪さに起因しているのでしょう。妻は過去数年、慢性的な肩の痛みや突然の激しい腹痛に手こずらされており、医者やマッサージに通って何とか凌いでいます。家具や車と同様、人間にも耐用年数があるようで、いつまでもピンピンしているのは難しい。これは男女問わず、避けて通れない関門なのですね。
先日の一時帰国中、かれこれ四半世紀の付き合いになる遊び仲間のN氏と渋谷で食事した際、
「小便の切れが悪くなるなんてことが自分の身に起こるなんて想像もしていなかった。」
という話題で意気投合してしまいました。知り合いの中でも図抜けた「遊び人」だった彼と、まさか肉体の衰えの話で盛り上がることになるなんて…。トホホな気分で笑い合ったのでした。
さて、先週水曜日の昼は大会議室で、サンディエゴ支社全員(百人以上)の集まるミーティングがありました。司会進行を務める元大ボスのテリーが、中盤でこんな話題を出します。
「オフィスの室温設定だけど、これまであちこちで諍いの種になってたでしょ。ある人は寒過ぎるから温度を上げてくれと言い、今度はこっちで暑すぎるから下げろって具合にね。で、色々議論した結果、71度(摂氏21.7度)から一度たりとも動かさないことに決めたから。」
「え?じゃあ俺の席のそばの壁にあるコントロールパネルで温度を変えたらどうなるの?」
と、男性社員の一人が手を挙げます。
「好きなだけ上げ下げしていいわよ。何も変わらないから。ビル管理センターの方で制御しちゃってるの。」
出席者たちが、微かにざわつきます。71度という数字が妥当かどうか、受け止め方は人それぞれでしょう。
「寒過ぎると感じる人は、上着を羽織って調節してちょうだい。私も常に一枚余分に持って来てるわ。」
とテリーが続けます。そして、こんな風に締めくくったのです。
“That’s just how it is, like dealing
with menopause.”
「とにかくそういうものなの。更年期障害と向き合うみたいにね。」
思わず爆笑する私。数秒して周りを見渡し、笑い続けているのが自分だけなのに気が付き、慌てて黙ります。
職場に戻ってマグカップに珈琲を注ぎ足そうと給湯コーナーに向かっていた時、席に戻っていたテリーと目が合いました。
「更年期を冗談にするのって、まずかったかしら?」
と笑うテリー。私が大ウケしてたのに気付いていたのですね。あなたのキャラだからこそ許されるジョークなのだ、と答える私。すると彼女は少し真面目な表情になり、きっぱりとこう言いました。
“Every husband has to learn about
menopause.”
「世の旦那は全員、更年期障害のことを学ぶべきなのよ。」
なるほど、きっと彼女は思うところあってそんなジョークを持ち出したのですね。年齢に伴う体調の変化というのは、個人の意思でどうこう出来るものじゃない。現実と向き合い、淡々と対処していくしかないのだ。伴侶はそのことに理解を示し、協力するべきなのだ、と。
私も妻の夢の話、ちゃんと聞いてあげないといけないのかな、と密かに思い直すのでした。
さて先週末のこと。一念発起し、スマホに二つのアプリをダウンロードしました。ひとつはPush Ups(腕立て伏せ)。もうひとつはSix Pack in 30 Days(30日でシックスパック)。どちらのアプリも、まずは少しずつエクササイズを始め、徐々に負荷を上げて行って筋肉を仕上げる、というデザインになっています。
実は昨年末まで数カ月間、風邪を引いたり忙しかったりですっかり運動量が落ちてしまい、腹の回りでだぶついた脂肪は、自己嫌悪に陥るほどの醜さでした。これはヤバいぞ、何とかしなければ、と焦りはするものの、ずるずると惰性で日々を過ごしていた私。そんな中、日本行きの飛行機で観た映画「ミッションインポッシブル/フォールアウト」に、とてつもない衝撃を受けたのです。
盗まれたプルトニウムを奪回しようと八面六臂の大活躍をするIMFのエージェント、イーサン・ハント。飛び発つヘリコプターから垂らされた縄に飛びついてよじのぼったり、乗っていたバイクが横から車に体当たりされ車道に吹っ飛ばされたり、若いマッチョマンと互角の殴り合いをしたりと、ど派手なシーン満載のエンターテインメント作品なのですが、私にとっての圧巻は、広大な高層ビルの屋上を延々とひた走る場面。その圧倒的なスピードと持久力に、思わず感動の唸り声を上げてしまった私でした。イーサン・ハント役のトム・クルーズは、ハリウッドのアクション俳優で唯一スタントマンをつけないことで知られているそうなのですが(映画関係者の知人から教えてもらいました)、なんと私と同年代。おいおい、この歳であんなに走れるかよ普通?!
あの衝撃以来、私は彼の「年齢不相応な」動きを何とかして自分の身体でも実現出来ないもんだろうか、と日々考えて来ました。そして「千里の道も一歩から」ということで、無料アプリで肉体改造を目指すことにした、というわけ。
さて、三日目のエクササイズ・メニューを終えてシャワーを浴び、眠りについた私。翌朝起床して洗面所の鏡で自分の上半身を目にした途端、思わずあっと声が出ます。腹筋が「割れてる」とまでは言わないが、ウエストはキュッと締まり、二の腕も太くなったし大胸筋もかなり盛り上がっている。おお!僅か三日でこれほどまでの成果が出るとは!じゃあ30日も続ければ、本当にバッキバキのシックスパックが出来上がるじゃないか!と大興奮の私。
と、ここで目が覚めました。あれ?と思って洗面所へ。そして鏡の中、初日からほとんど変化の見られない自分の裸身をまじまじと眺め、
「そりゃそうだよね。」
と呟く私。
さっそく妻にこの夢の話をしようと思って寝室に戻りましたが、すんでのところで思い留まったのでした。
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