2019年12月22日日曜日

Hazing ヘイジング


先日、我が家のランドスケープを手掛けた会社のメンテナンス部門から若い担当者のデイヴに来てもらい、おかしな方向に成長を始めてしまった木々の手入れなどについて相談に乗ってもらいました。

「あ、そうだ。直接関係無いかも知れないんだけど、これ教えてくれる?」

裏庭の広範囲を覆うマルチ(製材の際に出る細かな木片)があちこちで無残に掘り返されて土が露出していることがあり、これが何者の仕業で何のためにこんな狼藉を働くのか、と数週間前から首を捻っていたのです。

「野良猫かなと思うんだけど…。」

「いや、それは違うね。ネコならまず間違いなく糞がしてあるから。」

とデイヴが即答します。じゃ、なんだと思う?と私。カラスの可能性も残しつつ、彼が出した答えがこれ。

「十中八九、スカンクだね。」

「え?スカンクがこんな住宅地にいるの?」

アメリカに来てから、運転中に路上の轢死体として彼らを目にすることは多々ありました。発見の数十秒前から凄まじい悪臭でそれと分かるのですが、生きて動いている姿は一度も確認したことがありません。

「この辺には結構いるよ。土を掘り返して好物の昆虫を食べるんだ。」

「フェンスもあるってのに、どうやってうちの庭に入って来たのかな。」

そう言いながら、あちこちに隙間の空いている我が家のフェンスを思い出し、ガードが甘かったなと悔やみます。

「どうしても嫌なら、コヨーテの尿を買って敷地の外周に撒いておくという方法もあるけど。」

強い敵の存在を感じると近づかない、ということですね。

「でも奴等はそもそも臆病だから、人間の姿を感じただけでさっさと逃げるんだ。だからこっちから刺激さえしなきゃ大した実害は無いよ。」

とデイヴ。掘り返された場所にマルチを戻しておけばいい話だから、と。なるほどね、ととりあえず安心しつつも、そんな危ない奴がやすやすと侵入して我が物顔でうちの庭の土を掘り起こしているということ自体が気持ち悪く、これは何か手を打たなければな、と思うのでした。

さて今週、大学一年生の息子が冬休みに入り、コロラドから戻って来ました。彼を夕方空港で拾うと、その足で親友二コラとの待ち合わせ場所に落とします。世界の頂点を争うアメリカとセルビアの男子水球チームの試合が地元の私立高校で行われるというので、二人で潜り込んで観戦しようという計画。アリゾナのB大で水球部に入った二コラは一足先にサンディエゴへ戻っており、ジェラート屋でバイトしながらうちの息子の帰省を今か今かと待っていたのでした。

ひとり自宅へ戻ると、大食漢の息子のために挽肉カレーを用意して待っていた妻が、

「二コラの運転で帰って来るんでしょ。うちで一緒に晩御飯食べて行きたいんじゃないかしら?」

と提案。九時過ぎに家の前で息子を降ろして運転席から手を振る二コラを呼び止めると、

「もちろんご馳走になるよ!」

と家に上がります。それから夜中の十二時過ぎまで、若者二人の話は止まりませんでした。ベンチプレスをどれだけ上げられるかの筋肉自慢、受験生の見学会がある日にはカフェテリアのメニューの質が跳ね上がるという情報を入手し、チームで押しかけて食べまくる話。缶飲料の側面に穴を開け、真空状態を利用して一秒で飲み干す凄技、など。

中でも一番盛り上がったのが、フラタニティ(fraternity)というクラブの話題でした。これは北米特有の活動らしく、日本の大学でいう「サークル」とはちょっと趣が異なるようです。そもそもがラテン語の「兄弟」から来ているようで、知らぬ同士が「兄弟の契りを交わして」作る組織。入部した人は何をするの?という私の質問に、

「そりゃパーティに決まってるでしょ!」

と二コラ。そのフラット(フラタニティ―の略)に属していなければ、どんなに大金を積んでも門前払いの完全会員制パーティなのだ、と。

「可愛い女子は無料で参加出来るけど、男たちはまずそのフラットのメンバーになった上で会費も払わないといけないんだ。」

自分のようなアスリートはフラットに入る必要は無い、水球部のパーティに行けるからね、と二コラ。運動部にも入らず、フラットにも属さない学生はどうなるの?と私。

「そりゃ孤独な四年間を過ごすことになるね。」

そのうち息子と二コラの英会話に、耳慣れない単語がちょこちょこ出て来ました。

「ちょっと待って。ヘイジングって何?」

と妻が会話を止めます。息子が、うちの大学はヘイジング禁止なんだよ、と発言したのです。

Hazingっていうのは、新入生に強いる無茶な苦行のことだよ。」

フラタニティへの入部を志願して来た者に対し、短時間に大量のアルコールを飲ませるとか、タバスコを唇に塗るとか、重いブロックを頭に載せて何時間も片脚で立たせる、とか常識では考えられないレベルのシゴキをHazingと呼ぶようです。つまり、

Hazing
新人洗礼しごきの儀式

って感じでしょうか。

しごく側の上級生がその恍惚感から行為をエスカレートさせていくためか、毎年のようにあちこちの大学で死人が出ているヘイジング。禁止する動きが広まってはいるのですが、一向に無くなる気配がありません。二コラの大学は全米でも有数の「パーティースクール」で、犯罪すれすれの蛮行で有名なフラタニティもあるそうです。運動部に入ったお蔭でそんな狂乱にも巻き込まれず、健康的な大学生活を楽しめている、という二人。ほんとに良かったね、と我々夫婦は彼らの選択を喜ぶのでした。

翌日息子とこの話題を振り返っていた時、

「水泳部にHazingは無かったけど、そのかわり最初の数週間は滅茶苦茶きつかった。」

と彼に言われ、ハッとしました。

「コーチはわざと過酷な泳ぎ込みを課して、そこで音を上げるような選手は篩い落とすつもりだったと思うよ。」

歯を食いしばって厳しい試練を乗り越えた者同志に生まれる強い連帯感。これがあったからチームがひとつになれているのだ、と。最初の対外試合でスタート台に立った時、残りの部員全員で一斉に地鳴りのような声援を送ってくれた。それが本当に嬉しかった、と息子。

そうなんだ。社会問題になりながらもフラタニティのヘイジングがいつまでも無くならないのは、大衆がどこかでそのプロセスに価値を認めているからなんだ。強いチームを築くためにはメンバー同士の信頼関係が不可欠で、そのためには「この組織の一員になるための厳しいテストにパスした」ことを証明する何らかの合格通知が必要なのだ。一見無意味で理不尽に思える儀式でも、逃げずに立ち向かったことでお互いを認め合える。「誰でもどうぞ」と敷居を下げた組織なんかに、チーム意識が生まれるはずもないじゃないか…。

よく考えてみれば、私の率いるプロジェクトコントロール・チームでも、採用面接で候補者にかなりストレスフルな試練を与えています。面接に臨んだ者のほとんどが目の前でみるみる自滅して行き、意気消沈の態で去って行くほど過酷なチャレンジですが、これに打ち克った者だけが得られる強い自信と同志たちからの信頼感は、チームの結束力の源だと自負している私。

木曜の午後、部下のシャノンと新年度のゴールを決めるためのミーティングがあったのですが、終了後に彼女がこんな話をし始めました。

「ティファニーの向かいに座ってるB、知ってるでしょ。」

Bというのは、ひと月ほど前に採用された新人男性。小太りの黒縁メガネで表情が暗く、誰とも目を合わせない「オタク」な外見。給湯エリアで鉢合わせしても言葉を交わさず、まるでこちらが透明人間であるかのように真っ直ぐな動線で立ち去って行く。Procurement(調達)部門が採用した社員なので私が口を出す話じゃないのですが、一体どんな採用基準で雇ったんだろう?と首を傾げざるを得ないほどの根暗人間です。

「カンチーやテイラーの背後に静かに接近して、耳元で突然話しかけるんですって。二人とも飛び上がって驚いたって言ってたわ。」

「え?彼ってしゃべるんだ。」

声を聞いたことがほとんど無いので、他の社員に話しかけるということ自体が意外でした。

「それがね、上司の悪口や会社への不満ばかりらしいのよ。」

「なんだそれ?」

自分はボスから何のサポートも受けていない、仕事の仕方も教わっていない。毎日つまらない、と愚痴をこぼすらしいのです。

「それより何よりティファニーが困ってるのは、Bが一日に何度もオナラをすることなの。」

「え?オナラ?仕事中に?」

「そう、それが物凄く臭いんですって。」

言われて思い出したけど、彼と入れ違いでトイレに入った時、頭がクラクラするほどの猛烈な悪臭に思わず足を止めたことがありました。

後でテイラーからも裏を取ってみたのですが、

「セシリアに聞いたんだけど、他の候補者より良さそうだったから採用したらしいの。落ちた候補者がどんな人たちだったのか、逆に興味をそそられちゃったわよ。」

と笑います。面接中、彼の変人ぶりに気付かなかったのだとしたら、面接官側の資質もヤバい気がするぞ…。

「ほんとにキモイの。ふわっと現れて後ろから急に話しかけて来て、早く今の部署を辞めたい、なんてことををくどくどと喋るのよ。こないだなんか、俺、プロジェクトコントロール・チームに転属しようかな、なんて言ってたわ。」

「何だと?」

これにはさすがにカチンと来ました。チームの長である私に挨拶もせず目を合わせようともしないような奴が、軽々しく「プロジェクトコントロールやりたいな」などと口にしたことに、無性に腹が立って来たのです。うちの縄張りにこそこそ入って来て仕事の邪魔をしやがって。お前みたいな奴を、誰が仲間に入れてやるか!

何か合法的なヘイジングをお見舞いしてやりたいという悪魔の心が、ムクムクと頭をもたげて来るのでした。

2019年12月15日日曜日

The Signs 不思議なお告げ



金曜の昼休み、部下のカンチーに誘われてランチに行きました。この二ヶ月間同居していたイタリア人の彼氏(ミラノ出身)が週末に帰国するというので、その前に会わせたいと言うのです。二人エレベーターで降りて行ったところ、ビルの足元で待っていたのは、俳優ハビエル・バルデムの青年時代を思わせる野性的なマスクの若者。学生時代、旅行先のバルセロナで衝撃の出会いをしてから十年。遠距離での友達関係をずっと保っていたが、数年前それぞれが交際相手との関係を解消してから急速に距離が縮まった。休みの度にどちらかがお互いの国に会いに行くようになり、今回はいよいよ短期間の同棲をすることになったのだ、という説明。

リトルイタリーのテラス付きイタリアンNONNAで窓際の四人掛けテーブルに着き、さっそく会話をスタートします。同居していたカンチーの両親が東海岸へ引っ越したので、その空きスペースを利用して働きながら彼女との生活を楽しむことになったフランク。主にデジタル・アニメーションのデザインをしていて、YouTubeの大会では二年連続世界一になったといいます。

最初の出会いから、これは何か絶対的な力が二人を結び付けようとしているという実感があった、とカンチー。それでも当時は「こんな離れたところに住んで文化も習慣も違う二人が真剣に交際出来るわけがない」と自分に言い聞かせて、連絡先も交換せず帰国した。ところがその後も偶然の出来事が重なって、関係は継続した。

“We saw a lot of signs.”
「沢山サインを見たの。」

とカンチー。The signs というのは「信号」とか「標識」とかの他に、神様や何かの「お告げ」という意味があるので、彼女が言いたかったのはこういうことですね。

“We saw a lot of signs.”
「何度も不思議なお告げがあったのよ。」

そのうちテクノロジーが進化して頻繁に連絡が取れるようになってみると、ひょっとしてこのまま結婚もアリか?という雰囲気になって来た。そんな矢先、同居していた両親が引っ越しを決め一人暮らしがスタートすることになったので、この機会に同棲してみたいね、という話になった。しかしイタリア人が旅行者として長期間アメリカに滞在するとなると、さすがにビザだとか旅行費用とかで実現は難しい。

「そこで、またしても奇跡が起きたんだ。」

と目を輝かせるイケメンのフランク。彼のクライアントの一人が、十一月にサンディエゴまで出張して二ヶ月ほど滞在出来ないか、と藪から棒に言い出したのだと。このタイミング、しかもピンポイントでサンディエゴを指定して来るかね!と驚嘆した二人。

「何かのお告げを感じざるを得なかったよね。」

と顔を見合わせて微笑む若いカップル。

「更にオチがついてるんだけど」

とフランク。

「そのクライアント、僕が到着する直前に出張が決まってさ。結局他の土地から遠隔でミーティングすることになった。つまり、直接会えもしないのに僕のサンディエゴ出張費を払ってくれることになったんだよ。これってすごくない?」

信心深い方じゃないけど、さすがにここまで偶然の出来事が重なると、素直に「お告げ」に耳を傾けてみようという気にさせられるよ、と笑うフランク。

「お告げと言えばさ、ついさっきエレベーターでカンチーと喋ってた話があるんだ。」

と私。

二週間前、テキサス州ヒューストンへ出張しました。この三年間、世界の全支社で使用して来たプロジェクトマネジメント・ツールEをお払い箱にし、その前まで使っていたツールAを改訂復刻させることが決まったのですが、この大転換プロジェクトをリードするために北南米各地から60人の「チャンピオン」が選抜され、真っ先にトレーニングを受けることになったのです。で、環境部門の南カリフォルニア地区を代表して派遣されたのが私。三年前のツールE使用開始に際しては、「ニンジャ」に選抜されて各地を飛び回り、オーストラリア出張まで果たしました。会社が新ツールの導入にかなりの金と人手をかけたことを肌身で感じていた私としては、たった三年でお釈迦にするとはどういうことだ?という不信感が拭えません。しかもあの頃、ツールAは「時代の遺物」とこき下ろされてたじゃないか。今さら棚から出してホコリを払ったところで、使い物になるのか?それより何より私の嫌悪感を煽っていたのが、このプロジェクトの先頭に立っているのが、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世し短期間にアメリカ地区COOの右腕にまで上り詰めた、自らを「再建請負人」と称するR氏だということでした。就任当時、私のチームがやっている仕事を「そんなもんはプロジェクトコントロールじゃない」と鼻で笑った許し難い仇敵。あの野郎、きっと私利私欲のために権謀術数の限りを尽くしたに違いない…。

そんな不審感一杯で臨んだ出張でした。

ヒューストン支社の大会議室に到着すると、端っこに座っていたR氏が目に留まります。私の姿に気付くと笑顔になって立ち上がり、他の出席者たちをかきわけて、巨大な腹を震わせながら近づいて来ます。そして懐かしそうに私の手を握り、

「シンスケ、久しぶり!元気だったか?」

とまるでハグでも求めて来そうな勢い。え?この人こんな感じだったっけ?居心地悪くなり、適当に挨拶を交わして出来るだけ離れた席を確保します。ところがその後、ホテルのエレベーターに乗る度、ドアが開くとR氏が立っている、という偶然が重なります。う~む。話したくないんだけどなあ。三日間のトレーニングが終わって去る時も、会議室の隅でヘッドフォンをして真剣な表情で電話会議に参加している様子だったので、ジェスチャーで「お先に失礼」と遠くから挨拶をしたら、さっさとヘッドフォンを外しずんずん歩いて来て、更に硬い握手。その数時間後、今度は空港の待合所で彼を発見します。おいおい、これだけ巨大な空港で、しかも別の街に飛ぶのに何でターミナルが一緒なんだよ…。気づかれないようにそっとそこを離れ、ベーグルショップでペットボトルの水を買おうとしていたところ、またしてもR氏がやって来ます。さすがに今度は無視できず、また会ったね、と笑顔で握手して別れます。やれやれ…。

さて今週の水木は、オレンジ支社でスーパーユーザーを集めての二日間のトレーニング。私を含めた三人のチャンピオンは、会議室に並べられた最後列の机の背後、壁際のテーブルに並んで座り、必要に応じてサポートする体制。ところが開始間もなく、またしてもR氏が登場します。本社のリーダーとしてトレーニングに同席するかもしれない、という発言は前の週にヒューストンで聞いていました。予告通り現れた彼、あろうことか私の左隣に座席を確保。うわ、なんでだよ…。どんなに距離を保とうとしても、その努力をあざ笑うかのように二人を近づけようとする、何か不思議な力が働いている…。

初日の晩、地元のBBQレストランLucille’sでチームディナーが開催されました。駐車場からレストランへ向かう道を間違え、遅れ気味に到着した私。既にほとんどのメンバーが着席している大テーブルに案内されてみると、空いていた席はR氏の斜向かいのみ。またかよ、なんでだよ…。絶対宇宙のフォースが僕の背中を押しているに違いない。どうしても奴と話をしろというんだな?よし、もうこうなったらやるしかない。腹を決めた私は、彼としっかり目を合わせて会話することにしました。

「今回の顛末について色々聞きたいんだけど、いい?」

この後R氏が語ってくれた内容は、驚愕の連続でした。彼の言葉をまるまる信じるとすれば、今回の事件は至極納得の行く展開。そもそも前回のツール変更に彼は猛反対し、三ページに渡る上申書まで提出したのだそうです。

「どう考えてもうまく行くわけが無かったんだ。それでも当時のナンバー2は、頑として退かなかった。何故かCEOは彼を信頼してたからね、鵜呑みにしたんだな。」

その後起こった様々なトラブルは、最初から警告を発していた人間からしてみれば「そりゃそうだろ」と首を振るしかないほど予測可能なもので、愚かな意思決定をただただ恨むしかなかった。その張本人が会社を去った今、残されたのは「いつ見切りをつけるか」という問題だけだった…。R氏の口から、「そこまで赤裸々に語っちゃっていいの?」と戸惑うくらい際どいエピソードが次々に飛び出します。まるで居酒屋の隅っこで古い仲間に苦労話を暴露するかのように。この人、こっちが接触を避けて来たことなど露知らず、胸襟をぱっくり開き切っている…。

急に、これまでの自分の狭量さが恥ずかしくなって来ました。この二週間、何度も現れた不思議な「お告げ」は、私にこのことを教えようとしていたのかもしれない。そう思うのでした。相手が誰であれ、人を無闇に疎むなかれ、と。

トレーニング最終日の終盤、突然R氏が身を乗り出し、私の左耳に口を近づけます。そして左手で隠しながら何かごちょごちょ言い始めました。

「え?なんて言ったの?」

と聞き返すと、更に口を私の耳に近づけてこう言ったのでした。

「トレーニングのスタート時にさ、休憩時間以外はメールチェックとかしないようにって注意しといた方がいいよね。」

彼の視線の先に目をやると、最後列で講義を聞いていた女性社員のイヴォンヌが、ラップトップの画面にメールを開いていたのでした。ちゃんとトレーニングに集中しろよ、とイラついたものの直接指摘するまでの勇気は無かったのですね。

「そうだね。ほんとだね。」

と答える私。R氏はゆっくり身体を離しながら、私の目を見つめてちょっと口をすぼめつつ、小さく何度も頷くのでした。まるで私の表情から同意を読み取ろうとするかのように。

「ちゃんとお告げを聞き入れたおかげでそこまで親密な関係になれたのよ、きっと。」

とカンチー。自分達も素直にお告げに従って来たから、今こうして一緒にいられるのよね、とフランクと見つめ合います。ミラノとサンディエゴというとんでもない距離を隔て、十年間も絆を深めて来た二人。常識に囚われていたら、とっくの昔に関係を解消していたことでしょう。この先も無事障害を乗り越えて一緒に暮らせるようになるといいね、と願う私でした。

「でもさ、」

と心の中で呟く私。若い二人がゲットした甘い同棲生活に対して、今回僕の得たものが「左耳にかかるR氏の生暖かい吐息の記憶」というのは、なんか納得いかないんだよね。

2019年11月24日日曜日

Anthropocentric アンスロポセントリック


毎月第二水曜の昼は、特大会議室でデリバリーランチを食べながらのオールスタッフ・ミーティングがあります。支社の社員全員を対象とした無味乾燥な連絡事項が続く中、12時半頃「待ってました」的に始まるのが、お楽しみショート・プレゼン。毎回各部署から有志が登壇し、プロジェクト最前線の話をしてくれるのです。「風力発電の風車が数百台密集する砂漠地帯に飛来する鳥たちがプロペラに激突するのを防ぐための最新技術」だとか、「サウジアラビアで進行中の史上最大都市開発プロジェクト中間報告」だとか。いつもわくわくさせられます。

今回プレゼンに立ったのは、同じ環境部門のベテラン社員トムでした。アンガールズ田中のボディに森本レオの頭部をくっつけたような、独特の存在感。「山奥に棲む心優しい巨人」といったイメージでしょうか。オフィス内で姿を見かけることは稀で、過去数年間まともに会話したことがありません。出演予定者が今朝になってドタキャンしたため急遽トムに代打をお願いしたら快諾してくれたのよ、と司会のテリーが感謝の言葉を述べた後、プレゼンがスタートします。

トムがスクリーンに映し出したのは、サンディエゴ郡の地図に気象衛星からの画像を重ねたものでした。彼がとつとつと、前の晩に降った雨の分布を雲の動きと合わせて解説します。クヤマッカ湖付近では去年の同時期34ミリだったのが昨日すでに42ミリ降った。オコティヨ・ウェルズでは去年ほとんど降らなかったのに、昨日は4ミリ降ったんだ…。目尻や頬に深い皺が刻まれたトムの顔には、まるで久しぶりに懐かしい友人たちと再会したかのような興奮が滲んでいます。

正直なところ、誰かに降雨量データを延々と読み聞かされる経験がこれまで無かった私は、趣旨を図りかねて当惑していました。しかし喜色満面のトムに俄然興味をそそられ、画面に意識を集中します。太平洋から進んで来た雨雲がどのように陸地に進入し、その形態がどのように変化してサンディエゴ郡各地の降雨量にこれほどの差をもたらしたのか。ふ~ん、なるほどねえ。雨ってそういう風に降るんだ。勉強になるなあ。それにしても、この人なんでこんなに嬉しそうなんだろう…。会議室の窓をちらりと見ると、今も降り続く雨のしずくがまるで玉すだれのような模様を作っています。先週末は洗車に行かなくて正解だったな、という思いがよぎります。気が付くと、トムは最後のスライドの数字を読み終わり、サンキューと静かに会釈してから席に戻っていたのでした。

翌日の昼前、溜まっていた仕事が一段落したので、休憩がてらエレベーターホールを挟んで向かい側のエリアに足を踏み入れ、同僚ジョナサンに声をかけました。

「今日トム来てる?」

「いや、来週まで来ないよ。なんで?」

彼のプレゼンが面白かったので感想が言いたかったんだよ、と私。昨日の会議には出席しなかったというジョナサンに、

「雨のことをあれほど嬉しそうに語る人を、生まれて初めて見たんだ。それが何だか引っ掛かって、もっと詳しく聞きたいなと思って。」

と笑うと、彼が両腕を真横に拡げて手首を小さく降りつつ、こう真顔で答えたのでした。

「この辺に座ってる連中は、一様に大興奮してるよ。もちろん俺も含めて。」

「え、そうなの?なんで?」

「俺たちの専門は生物環境保護なんだぜ。雨は天の恵みじゃないか。」

あ!とこの時、何かとんでもない大失態をやらかしてしてしまったような気分に襲われました。曲がりなりにも過去十五年ほど環境部門に在籍し、雨が生態系にとっていかに大切なものかは充分承知しているつもりでいました。しかし実際のところ、全然分かっちゃいなかった。言うなれば、「腑に落ちて」いなかったのです。

「今年は特に雨季の始まりが遅くてさ、やっと今週だろ。待望の雨だ!とみんなで盛り上がってたところだよ。トムなんか、メールで週刊降雨量ニュースを我々に配信するくらいの雨オタクなんだ。人一倍喜んでるよ。」

砂漠地帯のアンザボレゴなども、タイミングさえよければわずかな降雨量でも一斉に花が咲く。近所のキャニオンだって、一雨去ると突然緑が勢いよく繁り始めるんだ、とジョナサン。

「フィールドに出てみりゃ分かるけど、空気の匂いも一変するんだぜ。」

降雨前線が近づいて来ただけで、まるで永い眠りから覚めたように萌え始める沢山の生命を想像して胸が躍るんだ、と。私は暫く呆然とした後、何故かペラペラと言い訳を始めていました。

幼い頃から、自分にとって雨は厄介者でしかなかった。日本では水害が多く、雨は「打ち勝つべき敵」という見方が染み付いていた。大学時代は土木工学科で治水(水を治める)を学んだし、卒業後の最初の仕事だってニュータウンの洪水対策だった。「雨を待ちわびる」なんて感情はついぞ浮かんだことが無かった。雨の少ない南カリフォルニアに住むことになった自分は、本当にラッキーだと思っていた。

「ま、俺たちみたいなのが少数派なのは分かってるよ。」

とジョナサン。彼は誰を批難するでもなく、こう続けたのでした。

“We live in an anthropocentric world.”
「俺たちはアンスロポセントリックな世界に住んでるんだ。」

ん?今なんて言った?慌てて記憶のテープを巻き戻します。Anthropology(文化人類学)という単語があるのは知っていたし、centric(セントリック)が「中心の」であることも分かっていたので、これが「人間(人類)中心の」という意味であることは直ちに悟りました。

“We live in an anthropocentric world.”
「俺たちは人間中心の世界に住んでるんだ。」

我々人類を「生態系を構成する一要素」として捉えるのではなく、自然と対抗するポジションに置く考え方のことですね。う~ん、なんだか突然視界が開けた気分。対象が何であれ、自分がここまで一面的な物の見方をしていたことに気付かされるというのは、なかなかにスカッとする体験です。もう少し話したかったのですが、12時から上司のセシリアとランチに行く予定があったので、そこそこにジョナサンとの会話を締めくくって自分の席に戻ります。

セシリアも私も多忙なため、ランチタイムくらいしか話す時間が無い、ということで近くのサンドイッチ屋で昼飯食べながらの会議。議題は「プロジェクトコントロールの業務にアウトソーシングの余地はあるか」という際どいものだったこともあり、まず気分を和らげる意味で先程のジョナサンとのお喋りについて話してみました。私が雨を敵対する存在として捉えていたこと、そしてトムやジョナサンの視点に驚嘆しつつも自分の物の見方を拡げるきっかけをもらえて嬉しかったこと、などを説明。するとセシリアは、目を見開いてこれに反応し、

「私もトムやジョナサンと同じ側よ。シンスケみたいな視点、私の頭には全然無かった。みんなが自分と同じように考えてるとばかり思い込んでた。」

エコロジストである彼女が私と同じ側にいる可能性は最初から想定していませんでしたが、雨を敵と捉える見解自体が頭に浮かばない、というのは面白いと思いました。

「結局のところ、人の考え方って本当に色々だって話だね。常識なんて存在しない。世界中の人がみな違う環境で育ってるんだから、それぞれ独自のバイアスをかけて物を観ていて当然なんだよね。」

そう当たり障りなく総括しながらも、心の中ではセシリア達の方が人間として上等なような気がしていました。

「実を言うとさ、水曜日にリックがフィールド・ツアーに出かけた時も、気の毒に思ってたんだ。」

と私。環境部門の大ボスであるリックがサンディエゴにやって来て、支社の管理する現場事務所を視察するというのが水曜日だったのです。折角の視察なのに、ちょうど前日から雨に降られちゃって可哀想に…。現場の社員たちだって、雨の日にお偉方を案内するなんてさぞかし気が重たかろう、と。

「え?なんで?現場の皆は大興奮だったわよ。ドンピシャで雨が降ってくれたって。」

こんな時に大ボスを迎えられるなんて俺たちはなんてラッキーなんだ!と皆で小躍りしていたというのです。よく考えてみればこれは、開発跡地などの緑を再生するために使う植物の種子を貯蔵したり、苗木を育てたりするために作られたフィールドオフィス。ここで働く者にとっては、願っても無いタイミングのお湿りだったのです。一斉に輝き始めた植物を大ボスに見てもらえたことが、何より嬉しかった、と。

一面的な物の見方についての反省をセシリア相手に吐露したばかりだというのに、またやらかしてしまった!これはいよいよヤバいぞ。自分の中の常識を疑ってかからないとな…。

さて、議論は本題に入り、我々プロジェクトコントロール・チームの業務の何を切り取ってアウトソース出来るのか、というテーマでひとしきり話し合いました。今のチームは結束が固く、非常にうまく回っていること。しかし滅茶苦茶忙しくて依頼を断るケースが増えて来たこと。タイムシート入力ミスの修正など時間ばかりかかる単純作業を外注出来れば、生産性は著しく向上するであろうこと…。

サンドイッチ屋を出てオフィスに向かって歩いている時、セシリアがクスクス笑いながらこう言いました。

「さっき私がわざと水のアナロジーを使ってたの、気がついた?」

「え?何のこと?」

「あなたのチームがぐんぐん成長してる様子を、植物がたっぷり水を吸って大きくなってることに喩えてたのよ。」

「あ、そうか!」

「そしたら、忙しくて依頼を断らなきゃいけないって話の時、溺れてる人を助けてあげられない気分だって言ったでしょ、シンスケ。あくまでも水をネガティブに捉えてるんだなって思って、可笑しくなっちゃった。」

し、しまった…。

2019年11月19日火曜日

RBF アール・ビー・エフ


金曜の朝8時半。部下でまだ24歳のテイラーと、会議室の机のコーナーを取り合うような格好で座ります。

「カリフォルニアに庭付き一軒家を持って、犬を五匹飼いたいの。」

若干探るような、しかし決然とした目で宣言するテイラー。

12月末までに2020年度の個人目標を設定しなければならないため、この二週間、チームメンバーとの個別面談を開いて来ました。一人につき二回のセッションを予定しているのですが、一巡目の最終スロットがテイラーでした。この面談ラリーをスタートする前に、チームミーティングでこう告げた私。

「会社とプライベートの境目を一旦忘れて、本心と正面から向き合ってみようよ。自分が一番望んでるものって何だろう?ってね。そこから話を始めようと思うんだ。」

これに対するテイラーの答えが、「一軒家と犬5匹」だったのです。大きく頷く私を、ちょっと怒ったような、そして不安そうな顔で見つめる彼女。

「それがみんな手に入ればあとはもう何も要らない?充分幸せかな?」

そうソフトに聞き返したところ、暫く宙を見つめてから、

「う~ん、そうね、ちょっとは働きたいかな。何か月かしたら飽きちゃうかもしれないし。うん、やっぱり仕事は続けたい。それで、部門長くらいまでは行きたい。」

「なるほどね。たとえお金に困らなくなっても働いてはいたいんだ…。」

「人の役に立ってる気分は味わっていたいもん。それに、小さい頃からどこへ行ってもずっとリーダーの役割だったから、会社でもいつかリーダーになりたいの。」

落ち着かない様子で口を小さくすぼめ、私を見つめるテイラー。

「そっか。じゃあ家と犬を手に入れて、今の組織で部門長になったら充分幸せ?後は何も無くていいの?」

その先に私がどんな言葉を用意しているのか探るように、

「分かんない。充分って気もするけど、違うかも。」

「じゃあ何かどうしようもない社会の変化でそのどちらも手に入らないってことになったら、君の幸せは根こそぎ吹き飛んじゃうんだね。」

この不意打ちに、まるで電気ショックを受けたようにピクリと反応し、

「え?そんなことは無いと思うけど…。」

とうろたえるテイラー。その様子を数秒間眺めた後、

「カリフォルニアで家を買うって、年々大変になってるよね。もしかしたら一般の勤め人には手が届かない価格まで上がって、高止まりしちゃうかもしれないよ。逆に、経済が崩れて簡単に買える時が意外に早くやって来るかもしれない。いずれにしても、そういうのって我々のコントロールが及ばない話だよね。もちろん収入を上げるのはある程度努力次第だけど、いくらこっちが貯金しても、今のペースで住宅価格が高騰を続けたら到底追いつかないでしょ。」

と話す私。

「そういうところにゴールを置くとさ、ちょっとした環境変化にいちいち行く手を阻まれて、ストレス溜まるんじゃない?」

「そうね。確かに。」

「逆にさ、環境に左右されようがない理想の自分像っていうものを考えてみたらどうだろう?それが見つかったら、今の自分とのギャップを分析するんだ。で、個々のギャップを埋めるにはどの障害を克服すればいいかを考える。そして、具体的な行動計画を日々のルーティンに組み込むべく、カレンダーとかにリマインダー付きで記入しちゃうんだよ。」

眉間に皺を寄せ、沈黙して続きを待つテイラー。

「たとえばさ、会社でのポジションに関係なくあらゆる場面でリーダーシップを取れる人でいたい、と思うとしようよ。そうなるためには今の自分に何が欠けているのかを考えてみる。リーダーに必要な資質やスキルを体系的に理解してないな、と思えばそのジャンルの本を読むとかセミナーに行ってみるとか、具体的な行動計画が導き出せるでしょ。毎月一冊そのテーマの本を読んでまとめノートを作ろう、とかね。で、出勤前の15分は読書時間に充てる、みたいにルーティンにしちゃうんだよ。」

“It all makes sense.”
「すべて納得。」

と頷くテイラー。

「確かに、家とか犬とかに目標置いてたら、どうやってそこに辿り着けるのか全く想像がつかないわ。」

「次回の個人面談までに、自分の理想像とギャップの分析、そして具体的行動計画づくりをやって来れるかな。」

と私。

「分かった。有難う。やってみる。」

それからふう~っと息をつき、

「働き始めてまだ何年も経ってないし、本当に知らないことばかりでしょ。今のキャリアの先にどんな選択肢があるかも見えてないし、自分のゴールが何かって考えるのは本当に大変だったの。」

そして、今にも泣き出しそうな笑顔でこう吐き出したのでした。

“It’s hard to be young, Shinsuke!”
「若いって苦しいのよ、シンスケ!」

反射的に大笑いしてしまった私ですが、よく考えてみたら、これは案外深刻な訴えです。現代は、私がテイラーの年齢だった頃と較べて格段に変化のスピードが速く、数年先に職場が、いや業界自体がどうなっているかすら分からない。「長期的視点で目標を立てましょう」なんて発言が失笑を買うこんな時代に若者でいるというのは、確かに厳しい試練なのかもしれません。

「でも、なんかすっきりした。自分のコントロールが及ぶ範囲内で目標を立てていれば、周りがどう変わろうがストレス無く頑張れるもんね。」

そうしてニコリと笑った彼女が、こう付け足したのでした。

“Then my boyfriend won’t need to see my RBF.”
「彼氏も私のアールビーエフ見なくて済むし。」

ん?何?今なんて言ったの?と顔を上げる私。

「え?RBF知らない?Resting Bitch Faceの略よ。」

ケラケラ笑いながら説明するテイラー。

Resting Bitch Face

直訳すれば、「休憩中の意地悪女の顔」、文脈に合わせて意訳すれば、「無意識の不機嫌面」あたりが妥当なところでしょうか。もうひと捻りすると、こんなところでしょう。

“Then my boyfriend won’t need to see my RBF.”
「彼氏も私のむっつり顔見なくて済むし。」

若者の日常をちょっぴりだけ明るく出来た気がして、ほっこりする金曜日でした。