月曜の夕方、仕事から戻ると、いつものように16歳の息子が居間のちゃぶ台にノートパソコンを開き、座布団に正座してオンラインゲームのネット動画を楽しんでいます。ダイニングルームから現れた妻が、待ってましたとばかりに彼を睨みつけました。
「はい、パパに話さなきゃいけないことがあるのよね。」
おや?これはどうやら事件みたいだぞ…。私の帰宅を合図に座布団からお白洲へテレポーテーションした格好の息子は、正座のまま、すっかり観念した罪人のようにとつとつと語り始めます。
以前、水球仲間でクラスメートの親友二コラに誘われ、泊りがけの課外活動に参加申し込みをした。何度聞いても「日時や場所などの情報はまだもらってない」と言い張る息子に、そんなわけないでしょ、と今朝になって妻がメールの確認を強要したところ、彼が添付書類を見落としていたことが判明。慌てて開けてみて、二人で愕然とします。その日程が、今春家族で予定している一時帰国のスケジュール後半とガッツリ重なっていたのです。当然ながら、「どーすんのよ!」とキレる妻。日本滞在を早めに切り上げてひとりでサンディエゴに戻るか、あるいは参加をキャンセルするか。
「え?何の活動だって?」
と尋ねる私。
「モデル・ユーエヌよ。」
と妻。
「あ、それか。」
そういえば息子がそんなのに申し込んだって話してたなあ。うっすら蘇る記憶…。
Model UN(モデル・ユーエヌ)というのは、Model United Nations (モデル・ユナイテッド・ネイションズ)を縮めたもの。和訳すると「模擬国連」になりますね。青少年が大勢集まって国際会議のシミュレーションをするのが趣旨。参加者はそれぞれがどこかの国の大使を務め、その国の実態を調査した上で様々な話し合いをする、というもの。国際社会や政治についての深い理解をベースに、リサーチ力、作文力、プレゼン力、交渉力などが物を言うハードな企画です。親友二コラの、「地元で開催されるから移動時間や交通費の心配は要らないし、ここでの経験は大学受験の際、パンチの効いたエッセイ(小論文)を書くためのまたとない材料になる。」という売り文句に煽られ、それなら、と申し込んだようなのです。
「で、君はどうしたいの?」
と尋ねる私。息子が口を開く前に、
「パパが帰って来るまでに、旅行を切り上げて参加する場合とそのまま旅行を続ける場合のプロコンをリストアップしなさいって言ったわよね。やったの?」
と妻が割り込みます。
「やってない。」
「どうして?今まで何やってたのよ?」
「パパにどうすればいいか聞こうと思ってた。」
大きな溜息をつき、呆れかえった表情で私の顔を見る妻。ビジネスの場で良く使われるこのプロコン(Pros and Cons)。ぴったりした日本語訳は知りませんが、簡単に言えば、提示された選択肢に加えるプラスマイナスの分析評価のことですね。
もう16歳だし体もデカいし、これくらいのことはさっさと出来て然るべきでしょ、とプレッシャーをかける妻の前で、みるみる態度を硬化させていく息子。
「君はどうしたいの?」
と再び尋ねる私に、
「そりゃ旅行を取りやめたくなんかないよ。折角日本に行けるのにさ。」
「取りやめるなんて言ってないでしょ。最後の何日かを切り上げて一人でサンディエゴに戻るだけでしょうが。」
と妻。
「でも飛行機のチケットをもう一回買い直すと何百ドルも余計に払わなきゃいけないんでしょ。これは僕の責任だから、僕が貯金から出すことになるじゃない。だったらやだよ。」
「お金の心配を一旦置いといて、モデル・ユーエヌには参加したいと思ってるの?君にとっての価値はどのくらいあるの?」
「そりゃ面白そうだけど、日本にいられる時間を短くしてまで参加する価値があるとは思えないよ。」
「ちょっと待ちなさい。そもそもモデル・ユーエヌでどんなことをするかをきちんと調べたの?」
と妻。
「まだだけど、大体分かるよ。」
う~ん、こりゃ駄目だ。頭が熱くなっていて、とても冷静な分析が出来る状態じゃなさそうだ。
「紙とペンを持って来てごらん。」
ここから、家族でプロコンのリストアップが始まります。
「まずは、旅行を切り上げてモデル・ユーエヌに参加する場合のプロコンを考えてみようか。」
プロ:
またとない良い経験が出来るし、大学受験にも有利になる。
コン:
旅行を短くすることで、行けたはずのとこへ行けなくなる。会えたはずの人に会えなくなる。
飛行機代のキャンセル料を払わなきゃいけない。
一人ぼっちで日本から帰らなきゃいけない。
空港まで誰かに迎えに来てもらわないといけないし、両親が戻るまでの間の宿泊先を探さないといけない。
「じゃあ今度は、参加をキャンセルして旅行を続けた場合のプロコンを書いてみようか。」
実際には極めて字数の少ないリストでしたが、一応プロコンが埋まりました。
「このリストだと、圧倒的に旅行を続ける価値の方が高いことになっちゃうけど、そもそもモデル・ユーエヌの参加を通して何が得られるのかをちゃんと考えてみたの?」
「考えたよ。でもやっぱり僕は、日本旅行を優先するよ。」
一旦感情を切り捨てて客観的な視点を持たないと、意味のあるプロコンは作れません。すっかり頭に血が上っている息子に、そんな冷静な分析をせよというのは土台無理な要求だったのでしょう。
「じゃあモデル・ユーエヌはキャンセルだね。早速コーディネーターの人に、謝罪メールを書きなさい。」
と私。本当にそれでいいの?という顔でこちらを見た妻でしたが、ため息をひとつついた後、息子に釘を刺します。
「メールを出す前に、パパに見てもらいなさいよ。」
息子が外部の人にオフィシャルなメールを出す場合、私が文面のチェックをする役割になっていて、文法の間違いや無礼な表現を指摘して修正させます。これまでにも何度か日本語のメールを検閲していたのですが、彼の英文メールを見るのは久しぶりでした。
息子の十本の指がキーボードを叩き始め、わずか一分ほどでメールが完成。読み上げさせてみて、息を呑む私。なんと彼の文章は、冒頭から末尾まで、ほぼ隙の無い出来栄えだったのです。毎日百本以上ビジネス英文メールを書いている私ですら、ここまで簡にして要を得た文章はなかなか出て来ないぞ、と舌を巻くレベルでした。知らないうちに、ここまで成長していたのか。つくづく、知的レベルと精神的な成熟度のバランスが取れてないんだなあ…。
翌日、「それは残念ですが、旅行と重なっているなら仕方ありませんね。また来年参加すればいいじゃないですか」と先方から色よい返事を受け取った息子は、これですっきりと日本旅行を楽しめる、と胸をなでおろしたのでした。
「でも今回誘ってくれた二コラには、一言詫びを入れておくべきなんじゃないの?」
と私が言うと、そうだね、じゃあテキスト送っとくよ、と軽く答える彼。
ところがこの後、親友二コラが意外な行動に出ます。電話をかけて来た彼は、息子を猛然と説得し始めたのです。各地の高校から選抜されて来た秀才たちと、泊りがけで国際政治論を戦わせる。準備はすごく大変だろうが、我々にとって大きな成長の糧になることは間違いない。これほどのイベントが地元で行われるなんて、そうそう無いことだ。来年まで待ってたら、大学受験のエッセイ(小論文)のネタにするには手遅れだ。もうじき高校最後の学年がスタートするんだぞ。一年後には別々の道へ進む俺たちが、一緒に大きなイベントに取り組むのもこれで最後になる。たかだか三日や四日旅行を短縮したくないというだけで、こんなビッグチャンスをどぶに捨てるっていうのか?日本から戻ったら、イベント当日までうちに寝泊りすればいいじゃないか。
「やっぱり僕、モデル・ユーエヌに行くことにしたよ。」
ケロリとした笑顔で変心を告げる息子に、
「なんでそんな簡単に考えを変えられるのよ!」
と再び激しく呆れる妻でした。
うちの息子より11カ月ほど誕生日が早い二コラは、彼にとって兄貴のような存在。たとえ同じ内容でも、親にくどくど言われるより兄貴分の二コラから聞く方が、ずっと素直に受け取れるのでしょう。それにしても、二コラのプロコン分析力は素晴らしい。うちの子も、そのうちこうやって冷静に分析評価が出来るようになるのかなあ…。
さて昨日の朝8時、我が家から車で20分の距離にある高校でモデル・ユーエヌのオリエンテーションがあるというので、息子を連れて行きました。途中で拾った二コラが後部座席に座り、朝食がわりのクッキーを口に放り込みながら、助手席の息子にしきりに話しかけます。
「知ってるか?モデル・ユーエヌってのは、女の子と仲良くなれる絶好のチャンスなんだぜ。第一の理由。俺の調査によれば、参加者は6:4で女子が多いこと。第二は、そもそも共通の目的で集まっているから話が合う可能性が非常に高いし、話しかけるのも楽だということ。第三に、日中は三日間会議室に籠りきりだし、同じホテルで二泊するから接触機会も極端に多い。どうだ、こんな最高なイベント、またとないだろ!」
ぽか~んとした表情で二コラの演説に聞き入る息子をちらりと見ながら、プロコン分析能力以前の、歴然たる成熟度の差を感じる父親でした。