2021年9月26日日曜日

エリンとアーロン


先週木曜日の午後、東海岸のブライアンが招集した電話会議に出席。私の所属する部署の若手社員Dianaが会社認定のPM資格を取得しようとしていて、その最終面接に立ち会う、というのが目的。

「ハイ、シンスケ!」

微かに緊張を滲ませた笑顔で画面に登場した受験生の顔を見て、コロナ前にオフィスのランチルームで何度か出くわしていたものの言葉を交わしたことは無い女性だ、ということに気づきます。マイクロソフト・ティームズの出席者アイコンには名前が記されているので字面は確認出来て当然ですが、初対面の人が大抵つまずくShinsukeの発音を難なくこなしたという事実に、ちょっと感動していた私。それにしても、初めて会話する相手に下の名前で呼びかけるというこのアメリカンな習慣、渡米後二十年以上経つってのに未だに慣れないんだよなあ…。

実を言うと私、数十秒遅れで画面に現れた彼女の上司ジェナが「ハイ、ディアナ!」と言うまで、Dianaをどう読むべきか迷っていたのです。あ、そうなんだ、ディアナって読むんだ。良かった、反射的に「ハイ、ダイアナ!」って返さないで…。

ところがそうやって胸を撫で下ろしたのも束の間、この面接を仕切る還暦超えのブライアンがいきなり、

「さてダイアナ、最初の質問なんだが…。」

とスタートしたのです。えっ?今さっきジェナが「ディアナ」って呼ぶの、聞いてなかったの?

あろうことか、ジェナも、そして当のディアナも眉一つ動かさずこれを受け流し、ブライアンの「ダイアナ」連呼は面接終了まで延々と続いたのです。もしも僕が「シスケ」とか「シンスーク」とか呼ばれたら、ならべく早い段階での訂正を願い出ると思うんだけどなあ。なんで誰も何も言わないの?

実はこの手の疑問、今に始まったことじゃないのです。二年ほど前のある日、オフィスの一階上で働く若手社員のMeghanに、

「あのさ、君の名前だけど、ミーガンとメガンのどっちが正しいの?」

と尋ねました。イギリスのノーベル賞作家ゴールズワージーの短編「林檎の樹」に登場するキャラクターに同じ名前の女性がいて、学生時代に新潮文庫で読んだ時は「ミーガン」、数年後に書店で角川文庫版を開いた時には「メガン」になっていた。既に僕の中では完璧な「ミーガン像」が出来上がってんのに、後になって実はあれ、メガンが正しいんだって言われても困るんだよね。新潮と角川と、どちらに軍配が上がるのか?人生を左右するほどの重大テーマでも無いんだけどずっと気にはなっていて、同名の人物が実際身近に現れるまでそのチャンスを窺っていたのです(三十年以上も!)。

「ミーガンでもメガンでも、どっちでもいいのよ。」

とこの時、予想外の反応が返ってきます。

「いやいや、でもさ、私はこっちで呼ばれたいとか、親はこう読ませようとしたってのはあるんでしょ。」

と食い下がる私。

「ううん。特に無いわ。本当にどっちでもいいの。」

呆然と立ちすくむ私。おいおい自分の名前だぞ、そんないい加減な回答アリなのか?釈然としないまま、お礼を言って立ち去るのでした。

話変わって今週木曜の夕方、18ヶ月前に転職した元同僚のリチャードと、久しぶりの再会を果たします。場所は、去年近所にオープンしたEE NAMI Tonkatsu Izakaya(ええ波とんかつ居酒屋)のパティオ席。

「これ、なんて読むの?」

と挨拶もそこそこに質問してくるリチャード。

Eを二つ並べて、ええって発音させるみたいなんだ。」

「ふーん、そうなんだ。どういう意味なのかな?」

ここは大阪風とんかつ屋で、「ええ波」というのは「良い波」の関西弁。「ええ」の響きを表現しようとした結果、こういうアルファベットの使い方になったんじゃないか、と持論を述べます。Aひとつだけだと「エイ」になっちゃうからね。果たしてEEと書いたところでアメリカ人が「ええ」と発音出来るかどうかは謎だけど、と。それに対してリチャードは同意も反論もせず、さも感心したように頷くのでした。

そして間もなく運ばれて来たジューシーな極上ヒレカツ定食セットを味わいつつ、テーブルを挟んでお互いの「その後」をシェア。乗員数万人を擁する巨大タンカーから総員14名のスピードボートに乗り移ったリチャードは、彼を引き抜いた元同僚のジャック(御年92歳)とともに大活躍しているのとのこと。

「給料は大幅に上がったし、Utilization(稼働率)のプレッシャーも無いし、チームとしての意識はすごく高い。皆がお互いを気遣っていて、どんなに忙しくてもストレスを感じないんだ。社長はエコ意識が高くて、電気自動車が買いたいという勤続五年以上の社員には、補助金一万ドル出すって言うんだぜ。最高だろ。」

転職直前には、これが本当に正しい選択なのか随分迷った、とリチャード。

「大正解だったね。良かったじゃん。」

と私。

「シンスケは転職考えてないの?来てくれって言う人はいっぱいいるんじゃない?」

「うん。考えてはいるよ。でもね、僕にはチームがあって、これを盛り上げて行きたいって気持ちが強いんだ。」

部下達との年度末業績評価面談を前日に済ませたばかりだった私は、彼等の発展を真剣に考えていたタイミングだったのです。リチャードの転職先より世帯がデカい、今の私のチーム。メンバー達全員が日々幸せに働けるような環境を整えたいという気持ちは、彼のボスと何ら変わりません。そんな野心すら吹き飛ばしてしまうほどの圧倒的好条件を突きつけられれば、話は別ですが…。

加えて、面と向かってリチャードに伝えるのはさすがに思いとどまったのですが、実は「大企業に身を置く」こと自体のメリットも見逃せないファクターなのです。会社の規模が大きいということは関われるプロジェクトのバラエティも豊富だし、仕事の発展性だって変わって来ます。出張でフロリダやモンタナやユタやハワイ、そしてオーストラリアまで訪問出来たのも、大会社勤めの役得。そして何よりその過程で、才能溢れる何百人もの痛快キャラと知り合いになれたことは、絶対無視できない魅力なのです。つまり今のところ、私小説の味わいより大河ドラマの興奮を選択している私。

「あ、そうだリチャード、ちょっと英語の質問していい?」

同じ屋根の下で働いていた頃は、頻繁にこの手の質問をビシビシ投げ込んでいた相手です。当時を思い出し、つい顔がほころんでしまう私。彼の方も懐かしそうな表情を浮かべ、バットを構えて私の投球を待ちます。

「名前の読み方なんだけどね…。」

ちょっと前に部下のシャノンが、こんな話題を持ち出して笑ったのです。

「全く紛らわしくて困っちゃうわよね。プロジェクトチームに同じ読みの名前が二人いて、しかも綴りが全然違うなんて…。」

暫くの間、一体誰の話なのか分からず戸惑う私でしたが、ようやく理解に至ります。彼女がサポートしているプロジェクトマネジャーのErinと現場のトップAaronの名前が、どちらも「エレン」と読めるっていうのです。つまり「エレンが二人いる」と。

「え?全く同じ発音だって言ってるの?ちょっとの違いはあるんでしょ?」

「ううん。完全に一致してるのよ。」

俄には信じ難い説。日本人の私が普通に読めば、Erinは「エリン」、Aaronは「アーロン」です。それがどちらも「エレン」と発音されるため、耳で聞いただけでは誰の話題か分からない、というのがシャノンの主張。

「その通りだね。全く同じ発音だよ。」

ああそんな話か、と拍子抜けしたようにシャノンに同意するリチャード。

「ええ?だってさ、Aが二つ並んでるんだぜ。それをエって発音するなんておかしいでしょ。」

「うんそうだね、英語ってつくづく不思議な言語だよね。」

おいちょっとちょっと、それでおしまい?

「あ、そうだ、ミーガンとメガンはどう?」

と畳み掛ける私。どっちでも良いというのはいかがなものか。子供に名前をつける際、どう発音するかまでセットで考えないのか。対してリチャードは、またしてもそれが何故疑問なのかすら理解出来ない面持ち。

「うん、どっちの読み方も有りだよ。」

「じゃあさ、じゃあさ、」

これはもう、内角高めを抉る決め球を投じるしかない。

「誰かが初対面で君のことをリックとかディックとか呼んだらどう思う?ちょっとイラッとしたりするんじゃない?」

Richardというのは、リチャード、リッチ、リック、ディック、と多彩な変化型を持つ名前です。

「僕は長年リチャードって呼んでるけど、周りの皆がそういう呼び方をしてたから倣ったのであって、君自身が認める正式呼称なんだと思ってた。なのに君のことをまだ良く知らない人がいきなり違う呼び方して来たら、さすがに何だこいつはって思うでしょ。」

「いや、全然。きっとその人は知り合いに別のリチャードがいて、彼のことをリックとかディックとか呼んでるんだろうな、と思うだけだよ。」

そして彼の次の一打で、全身の力が抜けたのでした。

「そういえば、うちの親父は僕のこと、ディッキーって呼んでるよ。」

アメリカ人にとって、名前は記号に過ぎない。読み方なんてどうでもいいのだ。このお題に関する追究は、この日の晩できっぱりと終止符を打たれたのでした。