2019年10月26日土曜日

Tough as nails 釘のようにタフ


今月中旬、ユタ州ソルトレイクシティまで、三泊の出張をして来ました。進行中のプロジェクトのサポートを頼まれてのこと。折角久しぶりに遠出の機会を与えられたので、帰りは午後遅い便を押さえ、土曜の半日を街の散策に使おうと計画していました。ところが日々の仕事はそこそこ忙しく、しかも二ヶ月に渡る「うっすらとローな気分」からまだ抜け出せていなかったため、ほぼ下調べゼロでサンディエゴを出発。夜9時頃ソルトレイクシティ空港へ到着し、レンタカーを借りてホテルへ。数マイルおきに出現する夜間工事の車線制限が緊張感を強いる不慣れなハイウェイを走行中、ヘッドライトの中を白い粉が舞い始めました。あらら、雪かよ。想定外だぜ。思わず前傾姿勢になり、ハンドルを強く握って暗闇を凝視する私。こんなとこで事故ったらシャレにならんな…。

二ヶ月ほど前から、家へ帰ってもただカウチに深く腰を沈めてテレビを観る生活が続いていました。

「ローな時は敢えてもがくな。潮の流れに身を任せ、底を打つまで沈み続けろ。浮上のきっかけは必ずやって来る。」

若い時分からこの持論を実践して来ました。大抵のピンチはこれでしっかり乗り越えて来られたのですが、今回の潜水はいつになく長い。部下たちにバースデーを祝ってもらった日を境にグッと盛り返すかと思いきや、海底に足がタッチしそうな気配も無く、陽光も届かぬ深い水中をじわじわと沈み続けるのでした。オフィスでは不思議にテキパキ業務をこなせているのですが、自宅に帰ればまるで抜け殻。やらなきゃいけない細かな家事がじわじわと溜まっていくのを横目で見ながら、ひとつもアクションを起こすことが出来ずにいる。例えば寝室のトイレ。一旦水を流すと、タンクへ送られる水流の音がその後何分間も止まらなくなる。原因と解決法を調べて修理しなきゃ…。あ、そうだ、知り合いから届いてた残暑見舞いメールにも返事を書かなきゃ(既に季節が変わっちゃってるけど)。それから車の買い替え計画も、いい加減スタートしないとな…。ああ、でもやっぱやる気が出ない。さすがに息苦しくなって来たぞ…。そういうタイミングでの出張でした。

肩に力を入れて夜の高速を進むうち、気が付くと雪は止んでいました。無事ホテルにチェックインした私は、シャワーも浴びずに就寝します。翌朝ソルトレイクシティ支社に到着し、あてがわれたデスクでメールのチェックをしていたところ、背後から今回の主役が登場します。

「シンスケ!来てくれて有難う。やっと会えたわね。」

インド訛りの英語の主は、キラン。編み物の毛糸玉のようにぎっしりと厚みのある黒髪を、後ろで固く束ねています。二ヶ月前に赴任して来たというエンジニアの彼女。下水処理場設計プロジェクト・チームに加わりプリマベーラでのスケジューリングを任されたのですが、このソフトの使用経験はゼロ。遠隔から彼女をサポートしてくれないか、とPMチームから依頼されたので、これまでメールや電話で質問に答えていました。今回はクライアントから大量の質問が届き、とても駆け出しの彼女のみでは対応しきれないということもあり、出張依頼が来たというわけ。

「シンスケから二日間みっちりトレーニングしてもらいつつ、案件を全て片付ける、というのが今回のミッションよ。よろしくね。」

と目を輝かせるキラン。そこへ、もうひとり若いインド人男性が入って来ました。

「この人はラヴィよ。プリマベーラのエキスパートが来てくれるって話したら、僕にも勉強させてくれ、って手を挙げたの。いいかしら?」

ラヴィというのはヒンズー語で「太陽」、キランは「陽の光」という意味だ、と解説してくれる二人のインド人。スケジューリングをちゃんと学ぶのは初めてで、とても楽しみにしている、と微笑みます。

「必ずコピーを保存してから作業を開始せよ」、とか「カレンダー設定の方法」とか、スケジューリング上の基本的な約束事からトレーニングを開始します。そしてプリマベーラ初心者が陥りがちなトラップ、マイクロソフト製品との用語の違いなどについて解説。

三時間半の集中講義を終え、腹が減ったので近くのアジア風ファストフード店へラヴィの運転で出かけます。私は海鮮丼みたいなものを注文し、三人でテーブルに陣取ります。

「そもそも二人はどうしてソルトレイクシティへ来ることになったの?」

と切り出す私。ラヴィもキランもインドで大学を出た後すぐ渡米し、工学系の修士号を取得したとのこと。その後はそれぞれ小さなエンジニアリング・ファームで働いた後、今の会社に移ります。キランの方は北カリフォルニアの支社で四年務めた後、お父さんの体調が悪いと聞いてインドへ帰り、実家に住みつつデリー支社に勤務。9年後、お父さんが奇跡的な回復を遂げたのを機に、アメリカへ戻る決意を固め知り合いに当たったところ、ちょうどユタ州のポジションが空いたため一も二も無く飛びついた、とのこと。

「親御さん、残念がらなかった?」

と私。

「もちろんすごく悲しそうだったけど、私としてはもう限界だったの。」

「え?喧嘩しちゃったの?」

「そうじゃないわ。デリー支社にいたら私のキャリアには未来が無いってことが分かったのよ。」

修士号を武器にアメリカ企業で経験を積み、特に品質管理の分野では自信を深めた。「錦を飾る」心意気で帰国したところ、その情熱は木端微塵に打ち砕かれた、とキラン。

「女であること、そして若いということ。その二つで完全にアウトよ。私の話に耳を貸す人なんて一人もいないの。もちろんインドがそういう社会だってことは重々分かってたし、どんな困難が待ち受けているかも承知の上で帰国したんだけど、考えが甘かった。ひょっとしたら組織を変えることが出来るかもって自分に言い聞かせながら9年間もがいたけど、結局無力さを思い知らされただけだったわ。」

新進気鋭の女性エンジニアに活躍の場を与えて大きく育てようなどという展望は無く、古参の男性社員たちが全てを仕切る組織。壁の厚さを悟った彼女は、アメリカに戻るための行動を開始します。そして何とか手繰り寄せた仕事の口が、たまたまユタ州ソルトレイクシティだった。地縁も無く友達もいないこの土地で、アパート暮らしをしながら一からスタート。アメリカにありがちな「人事総務の不手際」で最初の一ヶ月は健康保険にも加入出来ず、かなり体調が悪かったのに病院へ行けなかった。あれは苦しかったわ、と笑うキラン。ふと見ると、彼女の耳の上の生え際には僅かに白い物が混じっています。横で聞いていたラヴィが、

「僕も、今の給料の何倍積まれたとしてもインドに戻って働く気は無いな。」

と笑いを浮かべます。

「ここは慣れない土地だし冬は寒くもなるけど、あっちにいるよりはずっとましだよ。」

「そうよね。私達は本当にラッキーよね。」

その晩ホテルに戻ってベッドに入っても、若い彼等の明るい笑顔がずっと頭の隅にこびりついていました。艱難辛苦の末に辿り着いた異国の地で、闘志を燃やしている二人。それに引き換え、自分は一体何をくすぶってんだ…。実は昼すぎから猛烈な頭痛に襲われ、吐き気まで催していた私。海抜千二百メートルの高度と極度の乾燥とで、軽い高山病に掛かっていたのでしょう。こんな厳しい環境でも、人はちゃんと生きていけるんだなあ、とあらためて驚嘆します。その時、三日ほど前に息子と電話で交わした会話が蘇りました。

コロラドスプリングスの大学に行った彼は、水球部が無いというので水泳部に入部しました。自分以外の部員はすべて水泳で奨学金を貰っている手練れ達だということを後で知ることになるのですが、とにかく皆スピードが途轍もない。劣等感を味わいながらも日々厳しい練習で鍛えられている、と息子。標高千三百メートル超という過酷な土地で、最初は息苦しくて死ぬかと思ったそうなのですが、一ヶ月で慣れたよ、と彼。先日は二時間以上泳ぎ続けるトレーニングに耐え抜き、ロッカールームでチームメートに感心された、と嬉しそうに話します。その子にこう言われたの、と息子。

“You’re tough as nails.”
「釘みたいにタフだな。」

これは初めて聞く表現でしたが、何となく意味は分かりました。釘って強いもんな。それにしても、あんなに根性無しだった息子が短期間で随分成長したもんだ、と嬉しく思う私でした。

さて翌朝目覚めると、喉はカラカラ唇カサカサで、両脚は太腿から足首まで一面に粉をふいています。あちこち痒くて堪らない。なんだこの嘘みたいな乾燥度合いは?バスルームまで歩いてライトを点け、Tシャツを脱いで巨大な鏡に自分の姿を映します。運動不足でたるんだ全身に、激しく掻きむしった跡。ところどころに血も滲んでいます。思わず吹き出し、「これはひどい!」と独り言。その瞬間、海底にトンと足がついたような感覚を味わいました。

「あ、今どん底だ。」

思わず右手をピンと伸ばして人差指を突き出し、「今!」と叫びたくなるほど明確な最下点。この劇的瞬間の後、にわかに気分が明るくなって来ました。やったぞ、遂に上昇の時がやって来た。潜航期間は終わりを告げ、太陽の光に導かれながらゆっくりと水面に向かって浮上して行く時が来たんだ。あ~長かった!これからはしっかり運動して身体を鍛えよう、雑事の先送りも止めよう、将来の計画も立てよう…。

土曜の午後出張から戻るやいなや、寝室のトイレタンクの蓋を外し、フロート部分の型式を調べGoogleYouTubeで解決方法を調査します。そして翌朝、妻が出かけている間にてきぱきと修理を完了させました。心身にエネルギーが漲って来るのを感じます。前より一層タフになった実感もこみ上げて来ました。辛い環境を乗り越えてパワーアップしたキランや息子から、たっぷり元気をもらえたお蔭ですね。

後日職場で同僚ジョナサンに、「Tough as nails」の意味を確認してみました。

「釘ってさ、ハンマーでガンガンぶっ叩かれても耐えられるだろ。そこから来てる表現だと思うぞ。すごい褒め言葉だよ。」

なるほどね。叩かれる経験を経て人は強くなるもんな。そういえば、私が寝室のトイレタンクの修理を終えたことを得意げに報告したところ、妻が即座にこう返して来ました。

「有難う。ついでにもう一つのトイレも直してくれる?」

メインのトイレは、以前私がタンクレバーを付け替えた時、何故か上に半転させないと水が流れないようになっちゃってたのですね。来客が使用する際に混乱するため、いつか下向きになるよう修理しなきゃと思いつつ、すっかり忘れてました。もちろん!と明るく答える私でしたが、やっとどん底から抜け出したタイミングでそれ要求して来るかね…。

我が家のハンマーは、容赦ないです。


2019年10月6日日曜日

Lucid dreams ルーシッド・ドリームス


月曜の朝、白いブラウス姿で職場に現れたジゼルが、いつもより明るめな笑顔で声を上げました。

「ハッピー・バースデー!」

先に出社していた隣のブリトニーが、ハッとしてこちらに顔を向け、

「え?今日が誕生日なの?知らなかった

まるで朝のトップニュースを見ずに出勤し、話題に乗り遅れてしまった人のように当惑するブリトニー。どうしてジゼルが私の誕生日など知っていたかというと、給湯エリアの壁にマンスリー・カレンダーが貼ってあり、各マスにその日誕生日を迎える社員の名前が書き込まれているからなのです。そんなミニ情報コーナーに捨て目を使っていたのですね。

「別に上司の誕生日なんて知らなくていいよ。大体この歳にもなると、さして特別感無いしね。」

笑ってそう答えたのですが、他ならぬジゼルから朝一番でお祝いの言葉を聞けたことで、実はちょっぴり感動していた私でした。というのも、この三週間ずっとうっすらテンションが低く腹の調子もイマイチで、何でこんなに長期間気分がローなのかな、とよくよく考えてみたところ、どうやら原因は彼女みたいだということに気付いたからなのです。

五カ月前、ブリトニーとほぼ同時期に採用し、勤続三年の先輩社員カンチーに任せて日々じっくりトレーニングを重ねて来ました。そんな折、空港プロジェクトのPMウォーレンが大ピンチに陥っているというニュースをカンチーから伝え聞きました。契約・経理関係を担当していた社員が、突然テキサスへ引っ越すことになったというのです。その窮状を救うため、後任が見つかるまでジゼルを週20時間限定でレンタルすることにした私。するとたちまち職場にとけ込み、めきめき成果を上げ始めたジゼル。ほっと胸を撫でおろしていた矢先の金曜午後、「今の仕事をこのままフルタイムで続けたいと彼女は言ってるんだが、シンスケはOKか?」とウォーレンから電話で尋ねられたのです。本人からでなく先にウォーレンから告げられた、ということがまずショックでした。まるで恋人に捨てられ落ち込んでいた友達の家に自分の彼女を相談相手として送り込んだら、あっという間にデキてしまい、「ごめん、実は…」と男の方から告白されるパターン(だいぶ事情は違うけど)。

月曜の朝さっそく彼女を会議室に呼び出して、本心を聞き出します。

「空港の仕事の方が自分の性格に合ってるんです。プロとしての成長の機会もあちらの方が豊富だと思います。」

「このチームで働き始めて五カ月も経ってないのに、成長の機会はあっちの方が多いって感じてるの?」

「はい。」

決然とした彼女の目にドキリとし、怯む私。なんだか寝取られ男の悪あがきみたいで情けなくなり、強く引き止めるのは思いとどまったのですが、この会話の後味はその後じわじわと身体の芯を蝕み、日に日に元気を失って行った私。まるで延々と続く悪夢から、夢とは知りながらもなかなか目覚められずにいるような気分。その後カンチーにこの件を打ち明けたところ、

「ウォーレンから聞いたんですか?私も最初はショックでしたけど、本人の気持ちが一番大事だと思うんです。」

という反応。なんだよ、知ってたのかよ…。再びちょっぴり傷つきます。

「ジゼルがここで受けたトレーニングが実を結んでよそで信用を勝ち取ったってことじゃないですか。喜ぶべきですよ。うちのチーム全体を高く評価してるってウォーレンは常々言ってるんですよ。」

「でもさ、始めたばかりの社員にここでの将来性をあっさり見限られるってのは、やっぱ堪えるよ。」

とうなだれます。

「若すぎてまだ世界がよく見えてないだけですよ。どの仕事に将来性があるかなんて、そんなの分かるわけないじゃないですか。気にすることないですって。」

「トレーニングだって君に任せきりだったし、僕自身が充分ケアしてやれなかったところも正直ある。もしかしたら疎外感を味合わせちゃってたのかも、と思うと悔やまれるんだ。」

「グループがどんどん拡大してるんだから、リーダーが全てのメンバーにたっぷり時間を割いてはいられないですよ。それはチーム成長のコストじゃないですか。」

そんなカンチーの慰めも特効薬にはならず、人知れず黒々とした心の海底へ向かって少しずつ沈んでいく私でした。

よくよく考えてみれば、チームのメンバーと言っても所詮は他人。こちらがいくら家族のように思って接したところで、それぞれにプライベートライフがあるのだし、目指す方向が変わってある日やむなく袂を分かつことだってあるだろう。ジゼル以外のメンバーからだって、いつそんな告白を聞かされるかも分からない。いいチームを作ろうと日々心を砕いて来たつもりだけど、今はただ儚い夢の瞬間を生きているに過ぎないのかもな…。

先週金曜日になり、転籍手続きの状況をジゼルに尋ねてみたところ、

「籍は今のままで、週40時間空港オフィスに勤務するということでも良いですか?」

と言われ、戸惑います。

「今のチームは大好きだし、学べる環境はとても大切なんです。ウォーレンも賛成してくれました。」

う~ん、そのやり方って機能するのかな…。不審には思いつつも、

「分かった。とりあえずその形でやってみよう。」

と承諾します。

そんなことがあった翌週月曜の朝、彼女からの第一声が「ハッピー・バースデー!」だったわけです。

その後間もなく、ティファニー、シャノン、テイラー、そしてカンチーと続けて登場します。最後のカンチーが席に着きつつ「ハッピー・バースデー!」と私に笑顔を向けたところ、残りの一同がこれにぴくりと反応し、ざわつきます。そして、知らなかったことを白状しつつ口々にお祝いを述べます。

「いいからいいから、僕の誕生日なんてそんな大したもんじゃないって。」

と笑う私。するとシャノンが暫くして、

「みんなでバースデー・ランチに行きましょうよ!」

と提案します。え?そんなのいいよ、と辞退しかけたところ、二つ左隣のテイラーが、

「どこ行きたい?バースデー・ボーイに決める権利があるのよ。」

と参入します。すかさず

「じゃ、Grab & Goだな。」

と答えたら、

100%そう来るって予測してたわよ。」

と笑います。Grab & Goというのは、速い、安い、うまい、の三拍子そろったサンドイッチ屋。5ドルも払えば腹いっぱいにさせてくれるファストフード・ショップなのですね。

“We all know you very well, Shinsuke.”
「みんなあなたのこと良く分かってるんだからね、シンスケ。」

そして行きたいお店をちゃんと決めてよ、とせっつくテイラーでした。

結局リトルイタリーにあるCivico 1845という、そこそこ高級なイタリアンに決定。表通りに面した窓際の大テーブルに、七人で着席します。当然私は「お誕生席」に着き、女子社員たちが片側に三人ずつ座る格好。パスタやサラダに舌鼓を打ちつつ、最近観たネットフリックス・テレビシリーズや地元のファーマーズマーケットの話題で盛り上がります。

食事もほぼ終わり、「これだけコッテリしたもの食べると、午後は眠くなっちゃうんだよね。」という私のコメントがきっかけとなって、眠りについての考察に話の花が咲きます。シリコンバレーの会社みたいに「仮眠ポッド」と呼ばれるカプセルがオフィスにあったら、ひと眠りしてすっきりした頭で仕事に集中出来るのにな、という私に、

「下手に仮眠なんかしたら、余計だるくなって仕事にならないわ。」

というテイラー。

「前にどんな人が使ったか分からないようなカプセルで横になること自体、絶対無理。」

と身震いする、潔癖症のシャノン。

「私、真っ暗にして音も完全にシャットダウンした環境でないと眠れないの。」

と、人生で一度も仮眠を経験したことが無いというブリトニー。

「僕なんか眠くなったら、明るかろうがうるさかろうが、どこででも眠れるけどね。」

眠り方ひとつとっても、人によって様々なんだねえ、という結論になりました。それから、普段夢を見るか、見た夢をどれだけ憶えているか、という話題に移ります。

「あ、そうだブリトニー。こないだ君が教えてくれたLucid Dreams(ルーシッド・ドリームス)の話をしてよ。」

え?何それ?と皆が一斉にブリトニーの方を向きます。ちょっぴり赤くなったブリトニーが、突然のフリを咎めるような目で私を見た後、諦めて解説を始めます。

「これは夢だって分かりながら見続ける夢のことなの。訓練次第で、自分の望む方向にストーリーを修正することも出来るんですって。」

日本語では「明晰夢」と訳されるようですが、夢と気付いた瞬間に目覚めるのが当たり前と思っていた私は、そのまま眠り続けた上に更に自らの意思で流れを変えられると聞いてたまげたのでした。

「もちろん私は出来ないわよ。」

と慌てて質問を制するブリトニー。

そこへ突然ウェイターがやって来て、小さな白いお皿を私の目の前に置きます。白いパウダーシュガーをたっぷりふりかけたカノーリ(シチリアの代表的なデザート)と、黄緑色のミニろうそくが一本。ウェイター氏がライターで手早く点火し、シャノンの音頭で女子六人が大声で「ハッピー・バースデー」を歌い始めました。予想もしなかった展開。思わず両手で顔を挟み、周りのお客さん達と目が合わないようカノーリに視線を集中して歌が終わるのを待ちます。火を吹き消すと、女子六人が一斉に拍手。シャノンがやや興奮気味にこう言うのでした。

「八年間も一緒にいるけど、シンスケが赤くなるの初めて見たわ!」

それからテイラーが私に封筒を手渡し、

「分厚過ぎてちゃんと封が出来なかったの。ごめんなさいね。」

と笑います。封筒から突き出すような格好で折り畳まれたコピー用紙には、サンディエゴの主だったレストランで食事出来るという、万能ギフトカードが印刷されています。そして二つ折りの小さなカードには、六人からのメッセージが細かい字でぎっしりと書かれていたのでした。

ジゼルからは、

“Thank you for all you do and for being understanding.”
「色々してくれて、そして良き理解者でいてくれて有難う」

とあります。ブリトニーは、

“Thank you for being the most supportive and fun boss. We’re so lucky!”
「一番頼りになって、しかも面白いボスでいてくれて有難う。私たちは本当にラッキーよ!」

テイラーも、

“Happy birthday to the best boss around.”
「この界隈で一番のボスに、ハッピーバースデー。」

シャノンも、

“You are by far the best manager I’ve had.”
「過去最高のマネージャーよ。」

と最大限の賛辞を添えてくれています。おいおいみんな、これ以上無いタイミングで深い淵から救い出してくれたな。僕が最近どんなにローな気分でいたかなんて知らないだろうに…。暫くの間カードに目を落としたまま、口を開くことが出来ずにいたのでした。

うららかな初秋の陽射しの中、賑やかにさえずる女子たちと職場へ戻る道をそぞろ歩きつつ、まるで夢の中を浮遊しているような錯覚に浸る私。こんな素敵な夢なら、修正の必要は全く無いな。自然に目覚めるその時まで、たっぷりと幸せを味わおう。…そう思うのでした。