金曜の午後六時過ぎ。息子の級友二コラがその両親クセニアとデジャンに伴われ、我が家を訪問しました。
「え?ゲスト、俺んちだけなの?」
お祝い品の入った手提げ袋を息子に渡しながら、小声で尋ねる二コラ。床屋に行って来たばかりらしく、栗色の髪が丁寧に七三分けされています。
「うん、ひと家族だけだよ。」
と息子。そう、この日は若者たちの門出を祝うホームパーティーだったのです。先週土曜日には彼等の高校の卒業式があり、大学スタートまで約一カ月半の夏休みに突入したところ。妻は前の晩から、掃除や料理にかかりきりでした。紅茶ブタのサラダ、生タマネギのピリリと効いた特製ポテトサラダ、豚ひき肉とインゲンのカレー風味炒め、そしてデザートの自家製バームクーヘン。このバームクーヘンは極めて手のかかるオーブン料理で、夜中までかかってコツコツ焼いていた彼女。反復プロセスと作業中身体に浴びる熱量の多さゆえ、オリンピックと同じような頻度でしか取り掛かる気になれないという大仕事ですが、このパーティーは彼女にとって、それほどの意気込みを持って臨むべきイベントだったのです。
実はこの日の朝、一ヶ月に及んだ我が家のランドスケープ工事が完成し、造園会社のPMマイクが最終確認のためにやって来ました。ドリップ式スプリンクラーや夜間照明のタイマーセットなどについて、丁寧に説明します。「なんとかホームパーティまでに間に合わせたい」という妻の願いを叶えるべく数々の障害を乗り越え、無事プロジェクトを期日通り完了させてくれたマイク。フロントヤードには小ぶりなオリーブの樹が植わり、バックヤードにはコンクリートと青い玉砂利のパティオ、ファイヤーピットを囲む広場、そして丈の低いオレンジやグレープフルーツの並ぶミニ果樹園へと続きます。一面に生い茂る雑草群の先に落ち武者が棲みついていそうなボロ倉庫の佇む醜い庭が、遂に美しく生まれ変わったのです。パティオには、ライトグレーのラグの上にエスプレッソと抹茶色のベンチと椅子セット。そこへグレーのカンチレバー式パラソルが影を落としています。あとは、フェデックスの配送車で向かっているという円形ファイヤーピットの到着を待つのみになりました。
「ところで二コラ、君の夏休みのスケジュールを教えてよ。」
乾杯の後、さっそく話題を振る私。
「さて、ちゃんと正確に説明出来るかしらね。」
試験監督のように横目で意地悪な視線を送る、母親のクセニア。この挑発に奮い立ったのか微かに顎を突き出し、顔をほんのり紅潮させて語り始める二コラ。
「今度の日曜に出発して、まずはイギリスに飛ぶんだ。ロンドンで三日くらい過ごして、それからドイツに渡って…。」
親戚や友達の家を渡り歩き、一ヶ月半かけてヨーロッパ十か国以上を一人で旅するという二コラ。大人びた話し方ゆえすんなり受け入れたものの、よく考えればまだ弱冠18歳。大した度胸です。心配だけど「可愛い子には…」という、ご両親の思い切った決断にも感心しきりでした。一方、ほぼ一歳下の我が家の息子は、二コラに尻を叩かれる形でようやく最近バイトを始め、ラーメン屋で皿洗いをしています。キツい割りには時給が安すぎるよとボヤく彼に、
「働くというのはそういうもんだ。世の中の仕事は等しく厳しいんだよ。大体君は、これといってスキルも経験も無い。そんな人間に、誰が高い給料を払う?」
などと、したり顔で説く二コラ。まるで歳の離れた兄貴の貫禄です。
夜9時近くなり、メインの一部として私が料理したカルボナーラを皆が食べ終わった頃、二コラと息子に相談を持ちかける私。
「ところで給料は出せないんだけど、若い諸君にひとつ仕事を頼めないかな?」
え?何?と反応する二人。
「実は今、玄関開けたらフロントポーチにファイヤーピットと見られる段ボール箱があったんだ。今からセットアップしてもらえたら皆で今晩使えるんだけど…。」
「え?届いたの?良かった、間に合ったのね!」
と安堵する妻。二人の若者たちは同時に勢いよく椅子から飛びあがり、先を争うように外へ出て巨大な箱をパティオへ運び入れ、スマホのライトで説明書を照らしつつテキパキと荷解きを開始しました。ダイニングルームに残った我々親たちは、フレンチドアの窓越しに暗がりで働く若者たちの姿を眺めながら、そもそもなんであの二人は仲良しなのかな、と話し合いました。
「幼稚園で一緒だった頃、ほぼ一歳上の二コラは背も大きくてお兄ちゃんぽくて、親しくなるなんて想像も出来なかったわ。高校に編入して来た時だって、あまりにも性格が違ったから、まさかここまで近い存在になるとは考えもしなかった。」
と妻。
「極端に社交的な二コラとやや内向的なおたくの息子さんは、complement each other (お互いに補い合う関係)なんだと思うよ。人間って、似た性格だから上手く行くってわけでもないからね。」
とデジャン。
「二コラに出会ったお蔭でうちの子、随分人生が変わったのよ。こんなに一生懸命水球やってるのだって彼の影響だし。大学に行っても、二コラみたいな友達が出来るといいんだけど…。」
と言う妻に、
「そんな嬉しくなること言わないでよ。」
と、目を潤ませるクセニア。それからひとしきり、子供たちの成長ぶりやその将来について語り合いました。我々世代と今の親子関係の違いに話題が至った時は、私とデジャンが激しく共鳴しました。息子にとって父親という存在は、断じて友達の延長じゃなかった。子供は常に指導の対象であり、仲良く腹を割って話すという甘い関係は築き得なかった。父親というのは、とにかくおっかない存在だった。生意気な口をきくなんて有り得なかった。何を偉そうなことを、と腹の立つこともあるけど、どっちかと言えば現代の親子関係の方がいいよね、と。
「出来たよ!」
若者たちがファイヤーピットのセットアップ完了を告げに戻って来た時、「私達はそろそろ…」とクセニアとデジャンが帰り支度を始めたため、慌てて引き止めます。孫の卒業式に出席するためわざわざセルビアから来ていたクセニアのお母さんが明日の便で帰るので、荷造りを手伝わないといけない、と言うのです。
「デザートのバームクーヘン、まだ出してないから!」
彼等の持って来たチョコレートケーキも冷蔵庫にしまったままだったのです。急いでエスプレッソを淹れてパティオで食べましょう、という話になり、妻がバームクーヘンを切り分けます。こんなケーキ初めてよ、というクセニアに、作り方を説明する妻。長時間オーブンの前で待ち構えて何度も出し入れしながら、少しずつ少しずつ塗りを重ねて行く作業について解説し、
「何層出来てるかが、愛情の量を表すのよ。」
と笑います。ナイフを入れてその断面を指さしながら数えた後、
「あら、たった十層。これしか塗らなかったかしら?」
と困惑する妻に二コラがすかさず、
「十点満点中の十点ってことでしょ。だったら最高じゃん。」
と絶妙なフォローをします。
ケーキを堪能し記念写真を撮った後、泊まっていくという二コラを残し、「子供たちが大学へ行っても時々会おうね」と約束してクセニアとデジャンが去りました。残った四人はファイヤーピットの周りに集めた椅子に座り、揺れる炎で下から照らされた顔を見合わせながら話します。
今も記憶に残る水球名勝負の数々、うちの息子にいつまでたってもガールフレンドが出来ない件、ベンチュラビーチからサンディエゴまで四日かけて自転車で走った課外活動の思い出、そして大学進学の話。名門UCバークレーに受かった時は涙が出た、と二コラ。
「コンピュータ画面に紙吹雪付きの合格通知が現れて、暫く呆然としちゃった。そばでビデオゲームしてた弟に、おいバークレーに受かったぞって言ったら、ハイハイそうですか良かったねって全く本気にしてくれなくってさ。」
それでも色々悩んだ末、特別待遇で迎えてくれるというアリゾナのB大へ進学することを決めた二コラ。うちの息子も彼と一緒にB大へ行くという選択肢をギリギリまで温存していたのですが、結局コロラドのC大への進学を決めたのです。
「ほんと、二人で一緒に行けたら良かったのにな。一年間C大に通ってうまく行かなかったら、B大に編入して来いよ。それでまた一緒に水球やろうぜ!」
と、炎でオレンジ色の陰影がついた顔で笑う二コラ。
翌朝、友達とのウォーキングを約束していた妻は早めに家を出ます。私は8時半近くまで待って、息子を起こしに行きました。リビングのちゃぶ台に残された食器の湿り具合から判断してかなりの夜更かしをしたに違いなく、ベッドの中の息子も、そして床に敷いた空気ベッドに寝ている二コラも、泥のように眠っています。
「ほら起きなさい。今日はちゃんと行くって約束だろ。」
この日は土曜日で、息子が12年間ほぼ毎週通った日本語補習校の最終日だったのです。他の学年は三月まで授業があるのですが、高校三年生は現地校を6月に卒業するため、それに合わせる形で修了となるのです。
「朝礼には遅れないで行きなさい。寝不足なのは分かるししんどいだろうけど、最後くらいはきちんとしなきゃ。」
耳慣れない日本語の会話が気になったのか二コラも目を覚まし、ゆっくりして行きなよと止める私に「おばあちゃんの見送りもあるから」と、身支度を始めます。そしてさっさと歯磨きを終えると、キッチンの簡易テーブルで納豆ご飯をかき込み始めていた息子のところへ行き、
「じゃあな。また会おう。元気でな!」
と握手の手を差し出します。それからなんと私の目の前で、十ステップくらいあるシークレット・ハンドシェイクが展開したのです。え?こんな複雑なの初めて見たぞ。長いお別れ用の正式なヤツなのかな…。
それから二コラは自分の車で走り去り、朝食を終えた息子も妻の用意した弁当を携え、私の車を運転して日本語補習校へと向かいました。私はひとり、がらんとしたキッチンで洗い物を済ませた後コーヒーを淹れ、パティオへ出ます。遠く西の海岸からやってくる風は僅かな湿り気と冷気を含み、コンクリート上で生ぬるく淀んでいた空気を軽快に蹴散らして行きます。私はパラソルの下で陰になった長椅子の端に腰かけ、二軒先の家の庭にそびえ立つ巨大な二本の椰子の樹と青空とのコントラストを長いこと楽しんでいました。近隣の木々から届く何百という鳥のさえずりと、遥か彼方を飛んでいるのであろう姿の見えない飛行機の長く微かな低音が重なって、まるで睡眠誘導BGMのように私をうたた寝へと誘います。
そこへウォーキングから戻った妻が、「ハーゲンダッツ買って来たよ。」と合流します。パティオの長椅子に並んで腰かけ、小鉢に盛ったバニラアイスをスプーンで口に運びます。ぼんやりと空を眺めた後、
「終わったね。」
と妻。
「お疲れ様。」
と私。
「なんだか眠くなって来ちゃった。ここで寝ていい?」
背もたれ用のクッションを枕に、両膝を抱えるようにして右を下にした妻は、十秒もしないうちに深い眠りに落ちていました。日差しが徐々に強くなる中、風が頭上のパラソルを揺らし、妻の身体に落ちた濃い影もふわふわと揺れ動くのでした。