本社副社長のパットと電話で話していた時、彼女がこんな発言をしました。
“I should have read the writing on
the wall.”
「壁に書かれた文章を読むべきだったのよね。」
壁に書かれた文章?なんじゃそりゃ。落書きの話題などそれまでの会話には一切登場しなかったので、きっとこれはイディオムに違いない、と悟り、急いでノートに書き取ります。そして会話を続けながらネットで調査。
Writing on the wallとは、「(特に失敗・災害の)兆し、前兆、悪運」とあります。ん?パットはそういう文脈で使ってたっけ?記憶を辿ってみると、ここ数カ月で著しい変化が彼女の身辺に起きている、という話題の中で飛び出したフレーズでした。カリフォルニア地区担当で格下だったR氏がごぼう抜きで昇格し、これまで彼女がコツコツと積み上げて来た成果をせせら笑うかのように新組織を立ち上げ、彼女の上司におさまってしまったのです。悪夢のような展開。
「私は大丈夫よ、気にしないで。前を向いて日々の仕事を一生懸命やるだけ。」
珍しく溜息モードの彼女。こんな状況で無邪気にイディオム談義など切り出せるはずもなく、ひたすら励ましながら電話を切ったのでした。
週が明けて月曜のランチタイム。いつものように近くに座った古参社員のビルをつかまえ、質問してみました。
「それは恐らく、旧約聖書の一節が語源だな。空中に突然手が現れ、壁に文章を書いた。これが王の身に起きることになる災難を予言していた、とか何とか。」
「なるほど、悪い予感ってことだね。そういえばちょうど今朝、こんなことがあったんだ。」
仕事を開始してから数時間後、妻からテキストが入ります。「ちょっと話せる?」
朝一番で銀行へ行き、私のために諸手続きを済ませてもらうことになっていたのですが、家を出てかなり走ってから忘れ物に気付き、取りに戻らなければならなかった。その際、キッチンで大きなガラス瓶を割ってしまい、床一面に飛び散った細かな破片を何十分もかけて掃除しなければならなかった…。普段慎重な彼女の身に、ここまで立て続けに珍しい出来事が起こると、さすがに気味が悪くなります。
「変な事言うようだけど、今日は銀行に行っちゃ駄目だって警告されてるような気がするの。」
と妻。
「そういう直観、僕は信じるよ。怖いから、今日の銀行行きは中止して。」
こういうのをWriting on
the Wallって言うんでしょ、と話題を締めくくろうとした私に、
「いや、それは違うな。」
と首を傾げるビル。え?違うの?
「その場合は、I felt it in
my bones(骨で感じた)の方がふさわしい表現だな。銀行で良くないことが起こるかもしれない、という予感とガラスが割れた話との間に、ロジカルな因果関係は認められないだろ。それに対してWriting on the Wallってのは、その時は見過ごしてしまったけど、後で振り返ってみると疑いも無く災難の予兆だった、という類の話だよ。」
とビル。なるほどね。この発言をしたパットにしてみれば、格下だったR氏が彼女の掲げる方針を無視して勝手に動いていたことも、今になってみれば下剋上の前触れだった。彼がその傍若無人な振る舞いで競争相手をなぎ倒して来たことは誰もが知る事実だったのに、自分はただ手をこまねいていた。彼女が言いたかったのは、こういうことでしょう。
“I should have read the writing on
the wall.”
「予兆に気付くべきだったのよね。」
話変わって水曜日。オレンジ支社の副社長リチャードから電話が入ります。
「ハワイの件、正式にゴーサインが出た。やっぱり君にプロジェクト・コントロールを頼みたいんだ。」
「え?本気ですか?」
ハワイの件というのは、我が社が久々に勝ち取った巨大建築設計プロジェクトです。願っても無い魅力的なオファー。なのに私がためらったのには、理由があるのです。
「この件はR氏のチームがサポートするって言ってたじゃないですか。」
数か月前、「もしもこのプロジェクトを獲得したら」私にチーム入りして欲しいと依頼して来たリチャードですが、今や本社の重鎮におさまったR氏にチーム構成案を説明したところ、「シンスケじゃ駄目だ。これは大事なプロジェクトだから、俺の部下に担当させる。」とポジションを無理やり奪われちゃったんだよ、と謝って来た経緯があるのです。僕も多忙だし、今はこれ以上新しいプロジェクトは要らないや、という心境だったので、正直ホッとしていたのでした。
「彼の部下のSにWBSの作成までは手伝ってもらったんだが、なかなか俺の要求通りの成果を出してくれないんだ。やっぱり君じゃなきゃ駄目なんだよ。頼む!」
「それは大変光栄なお申し出だし喜んでお受けしたいところですけど、R氏との衝突は避けたいんですよね。」
「大丈夫。ちゃんと捌いておくから。それはそうと、明日はプロジェクト開始前のレビュー電話会議があるんだ。インヴィテーションを転送するから、出席してくれないか?」
その夜、妻にこの件を話してみました。
「嫌な予感がするわね。強烈なエゴの持ち主なんでしょ。そんな人が一度強奪して行ったポジションを誰かにかすめ取られたら、絶対面白くないと思う。どんなに弁解したって、どうせお前がリチャードに上手く取り入ったんだろ、と決めつけられて睨まれるのがオチよ。断った方がいいんじゃない?」
「確かに危険だね。明日の電話会議に参加してみて、その様子次第では丁重に辞退するよ。」
そして翌日、プロジェクトの事前点検会議が行われました。片耳イヤホンで電話をかけ、時間ぴったりにログイン。コンピュータ画面上に上層部のお歴々が一人また一人と加わって行くのを眺めていたところ、なんとR氏とその部下のSの名前が現れたのです。おいおいリチャード、ほんとに前捌きをしてくれたのか?なんでこの二人が参加してるんだよ…。不安がよぎります。
そして会議開始からおよそ15分。チーム構成の段になった時、リチャードが早口で、
「プロジェクトコントロールはシンスケに任せます。」
と説明したところ、すかさず司会進行役の副社長グレンが「待った」をかけます。
「あんたがシンスケとコンビを組んで前のプロジェクトを成功させたことも、彼のことを特別目にかけてることも知ってるが、そもそもこのポジションはRのグループのSが担当することに決まってたんじゃないのか?」
よ~しリチャード、ここでビシッとキメてくれよな!息を呑んで彼の鮮やかな切り返しを待っていたところ、電話会議空間に数秒間の静寂が拡がります。え?うそだろリチャード。まだ話ついてなかったのかよ?
「Sはシンスケの仕事を監督するってことになるんじゃないかな。」
沈黙に耐えかねたようにR氏の後釜バリーが曖昧なコメントで割って入り、その場はひとまずおさまります。そうして結局、私はもちろん、R氏もSも結局一言も発せぬまま電話会議は終了したのでした。リチャードは、そんな緊張の瞬間など記憶からすっかり消し去ったとでもいうように、
「月曜の朝には第一号の財務レポートを送ってくれ。必要な資料をこれからどんどん送るから、任せたぞ!」
とハッパをかけて来るのでした。バリーも、
「これは上層部の注目を集めてるプロジェクトなんだ。失敗は許されない。頼むぞ。」
と念押しして来ます。これで今回のポジションを辞退するチャンスは消えました。よ~し、こうなったら一分の隙も無い成果を上げて、関係者全員を感服させるしか無い。R氏がそれでも報復したければ、勝手にすればいい。矢でも鉄砲でも持って来いってんだ!すっかり腹を決める私でした。
翌日、同僚ディックとランチに行った際、この一件を話してみました。
「近い将来、もしも僕が突然解雇されるようなことがあったとしたら、この件がWriting on the Wallだったって皆に解説してね。」
ディックが苦笑いしながら、
「もちろんそんな展開にはなって欲しくないけど、可能性がゼロだとは言い切れないところが悲しいよな。」
とゆっくり首を横に振るのでした。