2018年4月28日土曜日

Writing on the wall 壁に書かれた文章


本社副社長のパットと電話で話していた時、彼女がこんな発言をしました。

“I should have read the writing on the wall.”
「壁に書かれた文章を読むべきだったのよね。」

壁に書かれた文章?なんじゃそりゃ。落書きの話題などそれまでの会話には一切登場しなかったので、きっとこれはイディオムに違いない、と悟り、急いでノートに書き取ります。そして会話を続けながらネットで調査。

Writing on the wallとは、「(特に失敗・災害の)兆し、前兆、悪運」とあります。ん?パットはそういう文脈で使ってたっけ?記憶を辿ってみると、ここ数カ月で著しい変化が彼女の身辺に起きている、という話題の中で飛び出したフレーズでした。カリフォルニア地区担当で格下だったR氏がごぼう抜きで昇格し、これまで彼女がコツコツと積み上げて来た成果をせせら笑うかのように新組織を立ち上げ、彼女の上司におさまってしまったのです。悪夢のような展開。

「私は大丈夫よ、気にしないで。前を向いて日々の仕事を一生懸命やるだけ。」

珍しく溜息モードの彼女。こんな状況で無邪気にイディオム談義など切り出せるはずもなく、ひたすら励ましながら電話を切ったのでした。

週が明けて月曜のランチタイム。いつものように近くに座った古参社員のビルをつかまえ、質問してみました。

「それは恐らく、旧約聖書の一節が語源だな。空中に突然手が現れ、壁に文章を書いた。これが王の身に起きることになる災難を予言していた、とか何とか。」

「なるほど、悪い予感ってことだね。そういえばちょうど今朝、こんなことがあったんだ。」

仕事を開始してから数時間後、妻からテキストが入ります。「ちょっと話せる?」

朝一番で銀行へ行き、私のために諸手続きを済ませてもらうことになっていたのですが、家を出てかなり走ってから忘れ物に気付き、取りに戻らなければならなかった。その際、キッチンで大きなガラス瓶を割ってしまい、床一面に飛び散った細かな破片を何十分もかけて掃除しなければならなかった…。普段慎重な彼女の身に、ここまで立て続けに珍しい出来事が起こると、さすがに気味が悪くなります。

「変な事言うようだけど、今日は銀行に行っちゃ駄目だって警告されてるような気がするの。」

と妻。

「そういう直観、僕は信じるよ。怖いから、今日の銀行行きは中止して。」

こういうのをWriting on the Wallって言うんでしょ、と話題を締めくくろうとした私に、

「いや、それは違うな。」

と首を傾げるビル。え?違うの?

「その場合は、I felt it in my bones(骨で感じた)の方がふさわしい表現だな。銀行で良くないことが起こるかもしれない、という予感とガラスが割れた話との間に、ロジカルな因果関係は認められないだろ。それに対してWriting on the Wallってのは、その時は見過ごしてしまったけど、後で振り返ってみると疑いも無く災難の予兆だった、という類の話だよ。」

とビル。なるほどね。この発言をしたパットにしてみれば、格下だったR氏が彼女の掲げる方針を無視して勝手に動いていたことも、今になってみれば下剋上の前触れだった。彼がその傍若無人な振る舞いで競争相手をなぎ倒して来たことは誰もが知る事実だったのに、自分はただ手をこまねいていた。彼女が言いたかったのは、こういうことでしょう。

“I should have read the writing on the wall.”
「予兆に気付くべきだったのよね。」

話変わって水曜日。オレンジ支社の副社長リチャードから電話が入ります。

「ハワイの件、正式にゴーサインが出た。やっぱり君にプロジェクト・コントロールを頼みたいんだ。」

「え?本気ですか?」

ハワイの件というのは、我が社が久々に勝ち取った巨大建築設計プロジェクトです。願っても無い魅力的なオファー。なのに私がためらったのには、理由があるのです。

「この件はR氏のチームがサポートするって言ってたじゃないですか。」

数か月前、「もしもこのプロジェクトを獲得したら」私にチーム入りして欲しいと依頼して来たリチャードですが、今や本社の重鎮におさまったR氏にチーム構成案を説明したところ、「シンスケじゃ駄目だ。これは大事なプロジェクトだから、俺の部下に担当させる。」とポジションを無理やり奪われちゃったんだよ、と謝って来た経緯があるのです。僕も多忙だし、今はこれ以上新しいプロジェクトは要らないや、という心境だったので、正直ホッとしていたのでした。

「彼の部下のSにWBSの作成までは手伝ってもらったんだが、なかなか俺の要求通りの成果を出してくれないんだ。やっぱり君じゃなきゃ駄目なんだよ。頼む!」

「それは大変光栄なお申し出だし喜んでお受けしたいところですけど、R氏との衝突は避けたいんですよね。」

「大丈夫。ちゃんと捌いておくから。それはそうと、明日はプロジェクト開始前のレビュー電話会議があるんだ。インヴィテーションを転送するから、出席してくれないか?」

その夜、妻にこの件を話してみました。

「嫌な予感がするわね。強烈なエゴの持ち主なんでしょ。そんな人が一度強奪して行ったポジションを誰かにかすめ取られたら、絶対面白くないと思う。どんなに弁解したって、どうせお前がリチャードに上手く取り入ったんだろ、と決めつけられて睨まれるのがオチよ。断った方がいいんじゃない?」

「確かに危険だね。明日の電話会議に参加してみて、その様子次第では丁重に辞退するよ。」

そして翌日、プロジェクトの事前点検会議が行われました。片耳イヤホンで電話をかけ、時間ぴったりにログイン。コンピュータ画面上に上層部のお歴々が一人また一人と加わって行くのを眺めていたところ、なんとR氏とその部下のSの名前が現れたのです。おいおいリチャード、ほんとに前捌きをしてくれたのか?なんでこの二人が参加してるんだよ…。不安がよぎります。

そして会議開始からおよそ15分。チーム構成の段になった時、リチャードが早口で、

「プロジェクトコントロールはシンスケに任せます。」

と説明したところ、すかさず司会進行役の副社長グレンが「待った」をかけます。

「あんたがシンスケとコンビを組んで前のプロジェクトを成功させたことも、彼のことを特別目にかけてることも知ってるが、そもそもこのポジションはRのグループのSが担当することに決まってたんじゃないのか?」

よ~しリチャード、ここでビシッとキメてくれよな!息を呑んで彼の鮮やかな切り返しを待っていたところ、電話会議空間に数秒間の静寂が拡がります。え?うそだろリチャード。まだ話ついてなかったのかよ?

「Sはシンスケの仕事を監督するってことになるんじゃないかな。」

沈黙に耐えかねたようにR氏の後釜バリーが曖昧なコメントで割って入り、その場はひとまずおさまります。そうして結局、私はもちろん、R氏もSも結局一言も発せぬまま電話会議は終了したのでした。リチャードは、そんな緊張の瞬間など記憶からすっかり消し去ったとでもいうように、

「月曜の朝には第一号の財務レポートを送ってくれ。必要な資料をこれからどんどん送るから、任せたぞ!」

ハッパをかけて来るのでした。バリーも、

「これは上層部の注目を集めてるプロジェクトなんだ。失敗は許されない。頼むぞ。」

と念押しして来ます。これで今回のポジションを辞退するチャンスは消えました。よ~し、こうなったら一分の隙も無い成果を上げて、関係者全員を感服させるしか無い。R氏がそれでも報復したければ、勝手にすればいい。矢でも鉄砲でも持って来いってんだ!すっかり腹を決める私でした。

翌日、同僚ディックとランチに行った際、この一件を話してみました。

「近い将来、もしも僕が突然解雇されるようなことがあったとしたら、この件がWriting on the Wallだったって皆に解説してね。」

ディックが苦笑いしながら、

「もちろんそんな展開にはなって欲しくないけど、可能性がゼロだとは言い切れないところが悲しいよな。」

とゆっくり首を横に振るのでした。


2018年4月15日日曜日

Connected コネクテッド


金曜の早朝、朝日の上る前に自宅を出発し、一時間半ほど車を飛ばしてオレンジ支社へ。10時半のミーティングに備え、まずは四階のビジター用オフィスを確保。コンピュータを立ち上げました。振り向くと窓の外で、澄み切った空気の向こうに青い空が広がっています。

「元気?どうしてる?」

8時半、東海岸のパットから携帯に電話が入ります。本社副社長の彼女とは、月一回くらいのペースで連絡を取り合うようになっているのです。

「週明けにサンディエゴへ戻ったんだ。時差ボケが抜けなくて、予想外に苦しんでるよ。」

二週間の一時帰国を終え、帰宅したのは月曜の昼。体調を整えるため火曜日も有給を取っておいたのですが、体内時計が一日では補正できず、頭痛や眠気と闘いつつ復帰三日目を迎えたのでした。

「桜は見られたの?」

とパット。今回は、息子に人生初の花見をさせるために帰国日程の調整をしたのだ、と出発前に話してあったのです。

「ドンピシャで開花日に間に合ったんだ。どこへ行っても何億という薄ピンクの小さな花が視界一杯に咲き乱れていてね。まるで桃源郷だよ。」

「まあそれは素敵ね!」

「おかげで、いまだに気分は半分夢の中ってわけさ。」

「そうでしょうね!友達にも会えたの?」

「うん、大勢の人に会えたよ。何年もご無沙汰していた友達や元同僚たちに会えたのは良かったな。若い頃一緒に馬鹿やって騒いでた仲間が、今ではそれぞれの居場所で重責を担って活躍してるんだ。なのにみんな、あの頃のままの無邪気な笑顔で迎えてくれてね。何人かはわざわざ平日に有給まで取って付き合ってくれたんだ。思い出すだけでちょっと泣けて来るよ。なんて言ったらいいかな、この感じ…。う~ん、」

ぴったりした英語表現が思いつかずに言い淀んでいると、パットが助け舟を出してくれました。

“You felt connected.”
「コネクテッドって感じたのね。」

「そう、それだよ!」

コネクテッドは「繋がっている」という意味なので、彼女の使ったフレーズはこう訳せると思います。

“You felt connected.”
「絆を実感したのね。」

渡米して18年になるけど、やっぱり自分の根っこは日本にある。沢山の仲間が、まだ忘れずにいてくれる。このことを自覚した途端、激しく動揺している自分がいました。あれ?もしかして僕は日本に帰りたいのかな?

実は時差調整日の火曜、東京で買い漁った十冊の日本語書籍をベッドサイドに積み上げ、人知れずちょっぴり沈んでいた私。翌日からの職場復帰に対し、イマイチ士気が湧いて来ないことに気付いていたのです。ここに積んだ日本語の本、一気に読んじゃいたいけど、そんな時間無いよなあ。明日からまた英語で仕事するのか。しんどいなあ。かなりの期間、英語使ってないしなあ。ちゃんと喋れるかな。長年かけて培った日本の仲間たちとの絆を再確認した後だけに、「勤務時間内だけの付き合い」に終わりがちなアメリカの同僚達との関係が妙に薄っぺらく思えて来たことも、浮かない気分の一因でした。

そして水曜日の早朝、18日ぶりの出社。12階でエレベーターを降り、キーカードをスワイプしてオフィスに入ります。

「シンスケ!」

私の姿を見るやいなや、既に出勤していた部下のカンチーが飛び上がるようにして席を離れ、島机をぐるりと回って小走りに近寄り、伸び上がってギュッとハグしてくれました。

“Welcome back! It’s so nice to see you again!”
「お帰りなさい!また会えてホントに嬉しい!」

え、そう来るの?いいじゃん、これ。ここまでの歓待は予想外だぞ…。それからティファニー、テイラー、と順々に現れ、まるで地球防衛の任務を完遂して帰還したヒーローを迎えるかのように、私との再会を喜びます。普段あまり会話しない人事部のアシーナまでわざわざやって来て、お帰りなさい!と目を輝かせます。何これ?ドッキリ?

木曜には長年の同僚マリアから、

「ちょっと話せる?近況報告会をしましょうよ。」

とメールが入ります。オッケー、今度一緒にランチ行こう、と返信します。

金曜の12時過ぎ、会議室から戻ってコンピュータを見ると、サンディエゴの同僚ディックから日本語でテキストメッセージが入っています。

「今日の昼食?」

英日翻訳ソフトにかけてから貼り付けているために、ややぎこちない文体ですが、Lunch today?というディックの英語原文を機械が訳すとこうなるのでしょう(「昼飯行かない?」あたりが妥当な和訳だと思います)。すかさず英語で返信します。

“may i take a rain check? i’m in orange.”
「また今度ってことでいい?今オレンジにいるんだ。」

すると暫くして、彼が再び日本語で返して来ました。

「私は大きな悲しみで待たなければなりません。」

ひとしきり笑った後、しみじみ思うのでした。そうだ、ここアメリカにも大勢仲間がいるじゃないか。彼等との絆も日々固まって来ているのに、そのことに今日まで気付かなかった。久しぶりの再会で日本の仲間たちとの絆を意識したように、こうしてちょっと離れたことで、アメリカの仲間たちとの繋がりも確認出来た。今回の旅の最大の収穫はこれだな!

“I felt connected!”
「絆を実感したぜ!」