色々あって、専門外である建築部門のプロジェクトを10件以上担当しています。そのうち5件は、大量出血状態。プロジェクト中盤でのバトンタッチだったので、中身はまだ勉強中なのですが、一体何がどうなったらこんな事態になるのかね、と首を捻りたくなるほどの惨憺たる有様。
このうち二件のプロジェクトにオレンジ支社の同僚ブライアンが深く関わっていると知ったので、彼に解説をお願いしました。それで分かったのが、次のような背景。
クライアント側にプロ・アマ含めて建築家はひとりもいない。だからこそコンサルティング・ファームに仕事を依頼しているわけだけど、専門知識ゼロなのを良いことに、思いつきでどんどんデザイン変更を要求して来る。それがどのくらいコストに影響するかについては何も考えない。チーム全員がほぼ徹夜で練り直したデザインをプレゼンすると、建築コストの増加にたじろぎ、「やっぱりそれはやめとこう。」とあっさりひっくり返す。設計変更に費やしたコンサルタント側のコストについては、「そこは何とかしてよ。頼むよ。」と笑って済ませる。こんなやり取りが毎週のように繰り返される。気が付けば、膨大な損失を抱えている…。
これにはぶったまげました。プロジェクトマネジメントの基本中の基本である、「どんなに小さな変更依頼も必ず文書化し、費用をクライアントが負担することを文書で確認してから進む」というルールを全く守ってない。歴代のPMが全員クビになっているのも、これで説明がつくじゃないか…。
「皆、そんなやり方がまずいのは重々分かってるんだよ。でもこの不景気じゃ、クライアントの機嫌を損ねるリスクも取れないでしょ。だったら他の会社に頼むからいいよ、と切り捨てられる可能性を考えると、些細な変更ならちょいと残業して凌いでしまおうという意識が働くんだな。それが地獄の入り口だと薄々勘付いていながらも。」
私が普段担当している上下水道や高速道路設計などのプロジェクトは、クライアントが公共団体でしかも専門家の担当者を抱えているケースが多く、彼らからまず設計標準等を与えられるのが一般的。プロジェクトの成果は開始前からある程度分かっている上に、条件変更がどの程度のコスト増に繋がるかのイメージは、双方がほぼ共通認識として持っています。これが建築の世界では、だいぶ事情が違うらしい。成果品のイメージが曖昧なままスタートし、クライアントからの気まぐれな変更要請に辛抱強く応えつつ長時間労働を続け、社内では「何を大損こいてんだ!」といたぶられる。
「顧客を満足させつつきちんと儲けを出す」というビジネスの基本ルールは、もはや二律背反の大難題なのですね。確かに、この不景気にクライアントからの無償変更要請を毅然とした態度で押し返すのは容易ではないでしょう。会社を放り出された歴代PM達の苦悩を思い、初めて同情心が湧きました。
後で担当副社長のビバリーにこの話をしたところ、
「分かってくれて有難う。でも、それだけじゃないと思うのよね。建築家は、元来アーティストなのよ。アーティストは顧客の夢や情熱に共鳴すると、ビジネスパーソンとしての意識が飛んじゃうの。気が付くと、クライアントの言いなりになってるのね。エンジニアとはそこが違うと思うわ。」
なるほどね。
「Stockholm Syndrome (ストックホルム症候群)って聞いたことある?ある業界誌に記事が出てたんだけど、建築家のプロジェクトマネジャーはこれに罹りやすいって書いてあったの。うちのグループ内でこの記事を回したら、すごい反響。あるある!って。」
「ストックホルム・シンドローム?何それ?」
これは初耳のフレーズです。
「確かスウェーデンのストックホルムで起きた人質立てこもり事件から名前がついてると思うんだけど、長いこと監禁されているうちに人質が犯人の思想や主張に共感し始めて、段々と自ら進んで言いなりになって行く、という現象を指してるのよ。確か、犯人と結婚した人質もいたと思うわ。」
「ええっ?そんな!」
「建築業界でコンサルティングやってると、散々こき使われているうちに自分の上司よりもクライアントの言うことを聞くようになっちゃう、それで会社に大損させても気にならなくなるっていうことね。」
長いことプロジェクトマネジャーのサポートをやって来ましたが、そんな奇妙な現象を聞いたのはこれが初めてです。翌日、エンジニアのPMエリックに意見を聞いてみました。
「それは建築業界に限った話じゃないと思うよ。これだけ景気が悪いと競争は熾烈だからね。クライアントだって強気に出られるでしょ。無理な要求を呑まされるケースも多いよ。ポイントは、いかに支援体制を保ちつつ譲れない線を示すか、だ。クライアント・マネジメントにおける最大の難問だね。」
「そうだねえ。何か良い手はないものかなあ。」
と、溜息をつく私。これに対し、
「あるよ。」
と事も無げに笑うエリック。
「クライアントの担当者に、私個人としては是非ともやらせて欲しいんです、でもうちの上層部が黙ってないでしょうね、下手すりゃ私、クビになっちゃいますよ、そう言うんだな。」
「おお、なるほど。中古車セールスマンがよく使うテクニックだね。」
「その通り。ベタだけど、大抵の苦境はこれで切り抜けられるよ。ま、相手が自分を気に入ってくれてるという確信が無ければ使えない手だけどね。」
エリックは急に何か思い出したような顔になり、
「そういえば前のボスのクリスがさ、困った時には俺を悪者にしていいぞ、と言ってくれたことがあるんだ。で、すかさずこう答えたね。」
と笑いました。
“Thank you. I’m doing that all the time.”
「有難うございます。その手は使いまくらせてもらってますよ。」