かつて妻の教える日本語クラスを履修していたアメリカ人の大学生カイルが、昨日の午後私のオフィスを訪ねて来ました。プロジェクト・コントロールの仕事に興味があり、インターンの口を探していると言うのです。
インターンというのは、無給あるいは薄給で働きながら実務経験を積むシステムで、要するに「見習い」とか「実習生」のこと。アメリカの就職は能力重視なので、学生のうちにどれだけスキルを身に着けておくかが勝負。在学中は学業に専念すべきじゃないかとも思うのですが、多くの企業はギリギリまでコストを切り詰めており、新人研修などに金を使う余裕は無い(そもそも数年ごとに社員がごっそり転職していく世の中なので、社員を鍛えたところで見返りは薄いのです)。いきおい、新卒といえども「即戦力」をアピールせざるを得なくなります。
ところで、そもそも何故これをIntern というのか。辞書には、
「設定された境界内に拘束すること」
「戦争の終結まで人や財産を拘束すること」
などという意味の動詞として説明されています。これが名詞だと、
「監督下で働く医学生や医大卒業生」
「実務経験を積むため、あるいは法的な資格要件を満たすために見習いとして働く者」
になります。要するに、「プロの指導監督下で働く見習い」ですね。収容所の監視塔から見張られている捕虜、というイメージと微妙にダブります。
ミーティングを終えてカイルを見送った後、コピールームで日系アメリカ人の同僚ジャック(84歳)とばったり会いました。「インターン」という単語が頭にこびりついていたためか、連想ゲームのようにInternment
Camp (日系人収容所)のイメージが頭に浮かびます。収容所経験者のジャックに尋ねます。
「Internment Camp とConcentration Camp(強制収容所)の根本的な違いって何なんですか?」
するとジャックは少し考えて、
「ほぼ同じだけど、僕が入ってたインターンメント・キャンプはConcentration
Camp とは呼べないな。ゲート横のタワーにマシンガンを持った兵士が立って見張ってたけど、裏にはフェンスが無かったからね。」
「え?フェンスが無かった?逃げようと思えば逃げられたってことですか?」
「そうだよ。親父はよく遠くの川まで出かけてたな。釣って来た魚をさばいてくれて、家族で食べた。収容所の飯はろくなもんじゃなかったから、僕らは親父の魚料理を楽しみにしてたんだ。」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。誰も逃げようとしなかったんですか?」
ジャックによれば、FBIは日系アメリカ人の詳細なリストを控えていて、誰かひとりでもいなくなればすぐに発覚した、とのこと。
「ただね、当時のフーバー長官は、日系人を大量に収容した話を聞いて、なんでそんな無駄なことをするんだ、と尋ねたらしい。」
「どうしてですか?」
「親日派の日系人はとっくの昔に全員拘束されてたから、国防の観点からは、残りの日系人を収容する意味なんてほとんどなかったんだよ。」
「拘束されてた?」
「真珠湾攻撃の日の夜までに、親日派日系人は一人残らず街から消えてたんだ。」
「え?消えてた?どういうことですか?」
「連れ去られたんだよ。うちの親父も腹を決めてお迎えを待ってたんだけど、しょっぴかれないまま夜が来た。後で分かったことだけど、親父の名前は親日派リストの上位に入ってなかったんだ。1930年代に商売で失敗して肩身が狭くなり、あらゆる日本人会から脱退してたんだな。それが幸いしたというわけさ。」
「でもどれだけ親日的かなんて、どうやって分かるんですかね。」
「開戦のずっと前から、親日分子の調べはついてたんだ。ま、僕に言わせれば、ほとんどの日系アメリカ人は親日だったけどね。実際、祖国が日中戦争に突入して物資が足りないと知った時、皆で金属性の物品をかき集めて日本へ送ったよ。子供たちはガムの包み紙を集めたりしてね。銀の部分からアルミニウムが取れるって聞かされてたのさ。それに、天皇誕生日には毎年祝賀会を開いて、万歳、万歳、って叫んでた。実際、ほとんどの人が祖国を大切に思ってたよ。」
戦後、釈放された日系アメリカ人は財産ゼロから再スタートしなければなりませんでした。ジャックのお父さんもトラックの運転手をして何とか生計を立てたそうです。
そこへ突然、同僚ストゥーが割り込んで来ました。
「俺の知り合いに、日本からの移民の息子がいてね。奴の親父がすごいんだ。」
さっきから我々の会話を聞いていたようです。
「戦前、一文無しでアメリカに渡って来た。低賃金で働きながら、マリナ・デル・レイの高圧鉄塔下にある使えない土地を二束三文で買い取って、果樹園を始めたんだな。これが大成功して大金を稼いだ。しかし、その絶頂期に開戦だ。財産を全て没収され、日系人収容所へ叩き込まれた。終戦後は、また一文無しからやり直しだ。で、何をしたかというと、またしても同じ土地を買い始めたんだ。何年もかかって自分の土地をすっかり買戻し、また果樹園をやった。それで再び大成功を収めたんだよ。戦争を挟んで、二度同じことをやったんだぜ。信じられるか?ところが、だ。日本人を大勢呼び寄せて働かせてたら、地元の労働組合が、仕事を全部日本人に独占させるなんてひどいって訴えたんだと。ほんと、アメリカ人ってのは情けないよなあ。」
インターンメント・キャンプに収容された多くの日系人たちは、極端に理不尽な待遇を受けながらも、戦後に見事な再起を果たしていたのですね。日本民族の勤勉さを象徴するこういうエピソードを聞くと、自分ももっと頑張らねば、と気合が入ります。