「うわ!」
隣を歩いていた妻が、藪から棒に声を上げて立ち止まります。
「何かと思ったら山だった!」
整然と立ち並ぶレンガ色のビルの屋根越しに、赤茶色の巨大な岩壁がそそり立っています。我々の暮らす「ブルースカイと椰子の並木」のサンディエゴを歩く時はそんな角度まで視線を上げることすら滅多に無いため、突如視界に飛び込んできた4千メートル級の陸地の隆起は、とても新鮮な景観だったのですね。
先々週の金曜から日曜にかけ、息子が通う大学のイベントに出席するため、夫婦でコロラド・スプリングスへ出かけて来ました。これはHomecoming
& Family Weekend(ホームカミングと家族の週末)という、年に一度催される恒例行事。卒業生や現役学生の家族をキャンパスに招いて説明会やら見学会やら同窓会などを行うのですが、息子が四年生になる今年まで、ずっと参加を見合わせて来ました。幼稚園や小学校低学年ならともかく、大学にまでわざわざ乗り込むことに、やや抵抗があったのです。今年は最終学年だし、これを逃せばもう卒業式までチャンスが無いわよ、という妻のひと押しで心を決めたのですが、出発直前に二の足を踏ませる一報がありました。
息子の所属する水泳部の父母たちの間で、金曜の晩に皆で飲もうじゃないかという話が盛り上がっており、一軒家を貸し切りにしたから是非集まろうよというメールが届いたのです。うーむ、裕福な家庭の御子息達が通う私立大学に無理して我が子を潜り込ませたまでは良かったけど、こういうの、気が重いんだよなあ。日本人のスタンダードからすれば面の皮はやや厚い方だという自負はあるものの、英語しか通じない初対面だらけのホームパーティーというのは、やっぱり気が進まないイベントなのです。
夜明け前にサンディエゴの自宅を出発し、デンバー空港のレンタカー屋で調達した真っ赤なトヨタ・プリウスに乗り込みます。二時間運転してホテルにチェックイン。休暇前の仕事ラッシュで相当疲れていたし、ちょうど小雨が降り出したこともあり、ベッドに寝転んで長めの仮眠を取ります。夕方に起き出し、予約していたキャンパス近くの高級レストランで息子と待ち合わせしました。順々に再会のハグを交わしてから着席。暫くメニューを眺めた後、「ステーキ頼んでいい?」と、承認を確信しつつもとりあえず正式なステップを踏む、笑顔のすねかじり者。周囲のテーブルには、同じようにこの機会を利用して大学を訪れているのであろう両親との夕食を楽しむ若者たちの姿が、多数認められます。
刻んだミディアムレアの肉片を口に運びながら、近況を語る息子。大学の勉強は刺激的で楽しいこと、水泳部の練習は相変わらずキツイこと、短距離専門のアシスタントコーチが就任して以来、着実に泳ぎが上達していること、今年はバカっ速い新入生が多数入部したため、チームは歴代最強かもしれないこと、仲間たちとの結束は固く、自分は周囲から愛されていて学園の有名人であり、特に後輩たちに慕われていること…。
三年半前に彼が水泳部に入ったと聞いた時は、夫婦で顔を見合わせたものでした。高校時代は水球を愛するあまりか、競泳に対しては嫌悪感を顕にしていたのです。「あんな苦しいだけのスポーツ、誰が好き好んでやるんだよ」とまで毒づいて。それが一体どういうわけで心変わりしたのか、謎なのです。しかも入部時には、周りの選手たちが高校までの実績をベースに奨学金を受けて入学していたことを知らなかったのですね。私だったらそれを知った時点で赤面し、しおらしく退部届を出しているところですが、この若者は臆することもなく日々の猛練習に耐え、最終学年までしっかり生き延びたのです。「高校時代にピーク迎えちゃって大学で伸び悩んでる子もいる中で、僕はまだまだ伸びしろがあるから精神的に楽なんだよ。」そんな風にあっけらかんと話していて、実際に公式タイムもどんどん縮んでいるのです。
食事を済ませ、久しぶりに会う仲良しの先輩たち(卒業生)とアイスホッケー部の試合を観に行く、と言う息子をキャンパスのアイスアリーナ近くで下ろし、父母の集いへ向かってプリウスを走らせます。助手席の妻が、教えられた住所をスマホのアプリに入れてナビ担当。
「あの子のポジティブさには、毎回たまげるね。」
と、息子の明るさにあらためて感心する妻と私。
「友達が多いとか下級生に慕われてるとか、よくまあ平気な顔で言えるよなあ。」
富裕層の白人アスリート集団に、サラリーマン家庭出身の日本人が一人だけ混じっている(しかも元々スポーツマンタイプでは無い)。そんな絶対的アウェイな環境で機嫌よく活躍しているという自己申告に対し、余程おめでたいか強がって大ぼらを吹いているかのどちらかだと決めつけてしまう私。
ビルの立ち並ぶダウンタウンを通過して西に折れ、山へ向かって車を進めると、段々と街燈が少なくなって行きます。月が雲に隠れていて、視界は非常に悪い。
「なんか暗いねえ。」
曲がりくねった急勾配の道路が大区画の敷地境界を舐めるように巡っていて、まばらに建つ特大の豪邸には、人の住んでいる気配が感じられません。
「きっとここって別荘地だよね。」
心もとないヘッドライトを頼りにくねくね道を慎重に進み、あと数ブロックで目的地に到着、という丁度その時、十メートルほど先を何か巨大な生物がゆっくりと横切って行くのに気付き、ブレーキを踏みます。
「クマだ!」
体長三メートルはあろうかと思われる真っ黒な熊が、右の敷地から左の敷地へのそのそと移動し、暗い木立の中に消えて行ったのです。
「え?ここって熊出んの?」
暫くショックで動けなくなった私達ですが、とにかく音と光を発しながら歩くしかない、と車を路肩に停め、携帯電話のフラッシュライトをピカピカ振りまきつつ大声で喋りながらパーティ会場の屋敷へと向かいます。
分厚い大扉を開けると、既に三十人ほどの白人男女が、十二畳はあろうかという大型オープンキッチンのアイランドを囲み、グラスを片手に談笑していました。笑顔で出迎えてくれた婦人に順々に自己紹介して上着を脱ぎます。サンディエゴのニジヤ・マーケットで入手しておいたチョーヤの梅酒とチョコポッキーのファミリーパックを手渡し、集団に合流。
「今、すぐそこにでっかいクマが歩いてたんですよ。」
握手を交わしつつ、次々現れて自己紹介する相手に危険情報を伝える私ですが、皆一様に、
「え?ほんと?怖いわねえ。」
くらいの軽快なリアクション。そして微笑みながらワイングラスを口に運びます。いやいや、これは「駆けつけ一杯のジョーク」じゃないんだけど…。直ちに誰か然るべき役所に連絡してくれるだろうと期待していた私ですが、鷹揚とした人々の態度に、段々居心地が悪くなって来ました。え?これ、僕がおかしいの?
気がつけば、妻と私は新橋駅前のような喧騒の中、声を張り上げて英会話に取り組んでいました。近距離で数十人が一斉に喋っているため、ちょっとでも気を抜くと意識が飛び、ノイズの洪水に呑みこまれそうになるのです。
「うちの子、あなたの息子さんのこと大好きなのよ。」
と、三年生ジャックのお母さん。
「うちの子もそうよ。あなたの息子さんは真のリーダーだって、いつも言ってる。」
同調する他のお母さん。会う人会う人、口を揃えてうちの愚息のことを褒めそやします。二年生の女子のお母さんが、
「うちのライリーはいつも息子さんのことばっかり話すの。とっても慕ってるのよ。」
と言った時、
「ちょっと待って。それ、本当にうちの子のことですか?」
と思わず制止する私。この白人グループ、何か慈悲的な意図から孤独なアジア人をいたわろうと示し合わせているのではないか、と勘ぐってしまうほど薄気味悪い異口同音ぶり。ひとしきり大笑いしたライリーのお母さんが、
「え?知らなかったの?あなたの息子さんは凄い人気者なのよ!」
とダメ押しします。う~む、これはもう認めざるを得ないぞ。息子よ、君はどうやら本当に「リア充」生活を実践しているみたいだな…。
このパーティーで会った人々の見解を総合すると、幼い頃から全米各地で頭角を現し大学にスカウトされる格好でチーム入りした猛者たちの中に、ほとんど競泳経験の無い痩せっぽちのアジア人がふらっとやって来て互角に戦っているというのは、驚嘆すべき偉業なのだという話。
妻がこの時、彼が水泳部に入ろうと決めたのは意外だったし、他の子たちが奨学生として入っていることすら知らなかったと思う、と語ります。そしてこう付け足します。
“He walked in the team.”
「チームにウォーク・インしたの。」
Walk in というのは「アポ無しで乗り込む、飛び込みで」という意味で、レストランや診療所などに予約もせず訪れる時に使う表現。すると妻の話に耳を傾けていた二人のお母さんが脊髄反射的に、
“He walked on.”
「ウォーク・オンしたのよね。」
と素早く同時に訂正したのです。ん?今のは何だ?と違和感が残るほど明確なダメ出しだったのですが、そのまま次の話題に移って行ったのでした。
二時間ほど英語で談笑した後、集中力が限界に近づいて来たので、妻と目配せして「そろそろ私達は…。」と会場を後にしました。山道を慎重に下り、すっかり夜も更けて交通量も落ちたダウンタウンを通過しようとした時、交差点をゆったりと横断する大小の鹿二頭を目撃しました。
「今度はシカだよ。」
「熊に較べればさすがに驚きは少ないけど、冷静に考えればなかなかの光景よね。」
と妻。パーティーで会った人たちは、人家の周りで大型の動物が出没することに慣れているのかもしれないな、と納得する私でした。熊ぐらいでガタガタ騒がないのもそういうわけか、と。僕らもこういう土地に引っ越せば、きっと慣れっこになるのだろう。人は新しい環境に飛び込んでも、丹念にひとつひとつ体験をこなして行くうちに強くなる。うちの息子も、そうして楽しい大学生活を手に入れたのだろう。我々だって、こういうパーティーにちょこちょこ出席していれば英会話力がアップするに違いない…。
「あのさ、さっき君がウォーク・インって言った時、あの人達、ウォーク・オンって言い直したじゃん。気がついた?インとオンで意味がどう違うのかな。」
「うん、私も考えてた。あとで調べなきゃね。」
翌週サンディエゴ・オフィスで、部下のシャノンに説明を求めてみました。
「ウォーク・オンっていうのは、既に出来上がってるチームに後から乗り込んで新たなメンバーとして仲間入りする時に使うのよ。」
とシャノン。
「ウォーク・インは予約無しで行くってことだから、全然別の表現ね。」
念のため、ウェブスターのオンライン辞書も調べてみました。Walk-onという名詞で、
“a college athlete who tries out for an athletic team
without having been recruited or offered a scholarship”
「スカウト枠でもなく奨学金も受けずに大学運動部の入部テストを受ける選手」
という解説がありました。
「へえ、じゃあこっちの大学じゃ、あの子の入部方法は本当に一般的じゃないんだね。」
と妻が頷きます。
「それにしてもだよ、」
と私。
「あれだけべた褒めされると、さすがに気恥ずかしいよね。」
「だけど皆、自分の子供のことだって自慢げに語ってたわよ。」
と妻。そう言われてみれば、確かにそうでした。アメリカ人は大抵、たとえそれが身内だろうと、良いところを見つけてとにかく褒める。謙遜などしないし、卑下なんてありえない。「褒め殺し」に相当するワードも、聞いたことありません。このカルチャーはアメリカ社会の隅々まで染み渡っていて、親に褒められた記憶の無い古い日本人代表の私は、思わず首を傾げたくなることもしばしば。
後日息子と電話した時、パーティーで色んな人から君のこと褒められたよと伝えると、即座に
「でしょ。」
と返して来たので、瞬間、「てめー、調子に乗んなよ!」と舌打ちする、頑固オヤジの私でした。