2017年6月10日土曜日

I have issues with him 彼とはイシューがある

木曜の昼前、生物学チームの同僚ジョナサンを訪ねました。巨大なデスクトップモニターを前のめりで睨みつけ、業務に打ち込んでいる様子。眼鏡の左の弦には名刺が縦長に貼り付けてあり、まるで塀のように彼の目の辺りを覆い隠しています。そっと向かい側に回って上体をゆっくりと左右に揺らしてみたところ、ようやく私に気付きました。

「なんで名刺貼ってんの?」

そう問われて初めて真面目に名刺本来の役割を考え始めた、とでも言いたげな様子で眼鏡を外し、しげしげと見入るジョナサン。

「廊下を通行する人が視界に入るのが嫌なんだ。こうしてないと気が散ってね。」

緊急の仕事に追われているわけではないということを確認した後、iPhoneを取り出し、その朝撮った家庭菜園の写真を彼に見せます。

「ちっちゃい苗木だったトマトが、こんなに生い茂っちゃったよ!まるでジャングルでしょ。」

二ヶ月前の週末、半日かけて我が家の裏庭に素敵な花壇を作ってくれたジョナサン。彼の力作がどのような成果をもたらしているか中間報告しなきゃ、と思ったのです。水遣りは早朝が良いこと、枝が土に着かないよう添木を足すことを忘れないように、などと基礎的な注意事項を述べた後、彼がこう補足しました。

「根元が鬱蒼としているようだったら、低い位置の葉っぱを少し摘んでおくといいな。地面付近の空気の通りを良くしておけば、病気の元になる菌類の繁殖を防げるからね。鳥も出入り出来るようになって、害虫を食べてくれるし。」

ジョナサンの博識ぶりに、あらためて感心する私。

「なるほど、生態系を利用するってことか。ほんとに何でも知ってるねえ!」

すると、それまで隣のデスクで仕事しつつ我々の会話を聞いていた同じく生物学者のジョンが、

“He’s a smarty pants.”
「彼はスマーティパンツだよ。」

と笑いました。そして、

「いや、むしろsmarty plants(スマーティプランツ)と言うべきかな。」

とふざけます。パンツとプランツ(植物)で韻を踏んだのですね。

昼休み、ランチルームで部下のカンチーと並んで弁当を広げていた時、突然この「スマーティパンツ」が気になり始めました。「スマート」は「賢い」だから、スマーティパンツがそういう意味であることは大体想像がつきます。しかしそれがポジティブに使われるのか、それともネガティブな含みがあるのかが分からなかったのです。

「うちの可愛い甥っ子は幼いわりに物知りだから、彼を評してスマーティパンツって言う時があるけど…。」

「てことは、褒め言葉なんだね。でも、なんでそもそもパンツなのかな?」

「さあ、何故かしら?」

そこへちょうどジョナサンが通りかかったので、

「ほら、あそこにスマーティパンツがいるよ。」

と指さします。彼がニヤニヤしながらやって来て、ランチルームの真ん中に置き捨てられていた椅子の背をつかみ、それに抱きつくようにして腰かけます。

「スマーティが賢いっていうのは分かるけど、なんでパンツなの?」

という私の質問に、眉間に皺を寄せて固まるジョナサン。ちょうどそこへ生物学チームの大ベテランであるビルが弁当を手にやって来て私の左斜め横の席に腰を下ろしたので、同じ疑問をぶつけます。気が付くと、カンチー、ジョナサン、そしてビルの三人が左手にそれぞれスマホを持ち、顎を引いて一心不乱に検索を開始していました。

「語源はどこにも出ていないな。」

とジョナサン。

「おそらくだけど、パンツ(ズボンのこと)ってのは男性の総称なんじゃないかな。Fancy pants(気取った男)って言う言葉もあるからね。 」

「誰が対象でも使えるの?失礼にはならない?」

「基本的にはからかうトーンだから誰でもってことは無いけど、冗談が通じる相手だったらオーケーだよ。テリー(我らの大ボス)ならきっと大丈夫だろうな。でも社長に対して使うのは危険かもな。頭の良さをひけらかす奴、という嫌味にも使われるから。」

とビル。う~ん、これは用法の線引きがなかなかに難しいフレーズだぞ…。

“He’s a smarty pants.”
「彼は物知り博士なんだよ。」

てなとこがこの場合の妥当な和訳でしょうか。

そこへ、品質管理部門のベテランで私との付き合いが長いクリスが現れたので、「スマーティパンツ?」と彼を指さして皆の反応を見ます。面喰った表情で「え?僕のこと?」と周りをキョロキョロ見回すクリス。近づいて来た彼に、ここまでの我々の討論について説明すると、

「NPR(公共放送局)のA Way with Wordsって番組知ってる?あそこに電話して聞いてみたらいいんじゃない?」

と提案します。それは「英語に関する何でも相談室」で、リスナーからの質問に二人の専門家が答えてくれる、というスタイル。イディオムの語源や耳慣れない英単語の意味を丁寧に解説してくれるのですが、そもそもネイティヴ・スピーカーからの疑問に答える番組なので、出て来る表現のほとんどが初耳。私のような英語学習者にはややハードルが高いのです。

「十年くらい前、電話してみたことがあるよ。」

とビル。え~っ?こんな身近に出演経験者がいたんだ!と驚き、

「なんて質問したの?」

と尋ねます。

「質問じゃなくて確認だったんだけど、俺の主張にあいつら結局最後まで同意しなかったんだよ。十年経った今なら、きっと納得すると思うがな。」

彼の主張というのは、「Issue(イシュー)はProblem(プロブレム)から対決の要素を排除して丸くした言葉だ」というもの。

“There is a problem,”問題があります。
「問題」と言ってしまえば、そこに意見の対立や衝突が想定される。

“There is an issue.”イシューがあります。
「問題点、争点」とも訳されるこのIssue。一歩引いて客観的に事態を眺めた感じになる、というビル。なるほどね、と感心する私でしたが、ジョナサンとクリスは賛成も反対もせず、この話題はそのまま潮が引くように消えて行きました。

「僕がここに来た本当の理由なんだけど、」

とクリスがあらためてビルの近くに立ち、声を潜めて話し始めました。

「○○プロジェクトのリスク・レビューをしている最中なんだけど、何か聞いてないかと思って…。」

プロジェクト・スコープの一部に、現場へ出かけて行ってある種のカエルを空気銃で撃ち殺す、という仕事があるんだが、それが議論になっている、とクリス。

「奴等は外来種で、ありとあらゆる生物を食べるんだ。小型のカエルまで食っちまう。放っておけば、そこら一帯の生態系はあっという間に壊滅だ。だから奴等の個体数を減らしていくしかないんだよ。」

とビル。

「でも、業務内容がハンティングっていうのは前代未聞でね…。」

「おいおい、銃と言ったって本物じゃないんだぜ。人間に対する殺傷能力は無いんだ。問題ないだろう。」

「いや、本社のリスクマネジメント・チームが、我が社の加入している保険は狩猟を対象としていないから、ということで問題視してるんだよね。」

苛立ちを露わにしたビルが、クリスに対して吐き捨てるように言いました。

“I have issues with those smarty pants.”
「そのスマーティパンツ達とはイシューがある。」

後で調べたところ、I have issues with someone とはムカつきを帯びた表現で、「誰々の意見や考えには反対だ」という意味だと分かりました。私の訳は、これ。

“I have issues with those smarty pants.”
「その知識人どもには賛同しかねるな。」

昨日の昼、同僚ディックとランチに行った際、issueとproblemの違いについて尋ねてみました。Problem をオブラートに包んだのがIssueという解釈は合ってるか?というと、それは違う、と真っ向から否定するディック。

「Issueは何かに深く内在する事柄で、それがProblemとして認識されるとは限らない。Issue の一部がProblemとして表面化して初めて解決を検討すべき対象になるけど、Issueは大抵Issueのままで存在し続ける。」

なるほどね。

「そもそも誰がそんな説を唱えてたの?」

と尋ねるディックに、これはビルの主張なんだよと答えました。十年前にビルがこの自説を引っ提げてA Way with Wordsというラジオ番組に出演し、専門家に嚙みついたというエピソードを話したところ、

「いかにもビルのやりそうなことだな。」

とディック。過去に彼との間で起きた様々な事件が脳裏に蘇って来たようで、暫く思い出し笑いを浮かべていたディック。ぼそりとこう締め括りました。

“I have issues with him because of that.”
「彼と反りが合わない理由はそれなんだよ。」


2017年6月4日日曜日

Back in the groove 元のリズムを取り戻す

本社副社長のパットと先日電話で話した時、彼女がこんなことを言いました。

“We’re trying to get back in the groove.”
「グルーヴに戻ろうとしてるの。」

全社レベルでプロジェクトコントロール・チームの立ち上げを企画していたパットですが、相方のキャリーがニ月にスタートした新PMシステムのエラー対応に忙殺されているため本来業務に戻れず、当初の計画が滅茶苦茶になっている、そこであなたの助けが必要なのよ、という文脈でのこの発言。私はこの「グルーヴ」という言葉の意味を「なんとなく」のレベルでしか理解していなかったので、電話を切った後、同僚クリスティに解説をお願いしました。

「グルーヴっていうのは、レコードの溝って意味ね。昔、針が飛びまくって音楽が途切れることがあったでしょ。それが収まる所に収まって、ようやくスムーズに演奏し始めた、という時にback in the grooveとなるわけ。」

とクリスティー。随分アナログな喩えだけど、同世代の彼女とは前置き抜きで通じ合えます。

「だからIn the grooveだと、うまくいってる、良い気分って意味になるわね。Like a well-oiled machine(きちんと油を差した機械みたいに)という表現もあるわ。」

なるほど。パットが言いたかったのは、こういうことですね。

“We’re trying to get back in the groove.”
「元のリズムを取り戻そうとしてるの。」

この心境はよく理解できます。私のチームでも、最近は「大至急頼む」という依頼が大量に飛び込んできて、その日計画していた仕事が全く出来なくなる、という事態が重なっています。中でも財務部門からの依頼は、指示、いやむしろ命令というべきものが多く、大抵は「今すぐ他の仕事を全てストップし、最優先でこの書類を作成せよ」という語調。あんたらは何様なんだよ?と食って掛かりたい気持ちはやまやまですが、これが彼らの更に上のレベルから来ている指令であることに疑いは無く、黙って従うしかない。

「大至急○○プロジェクトのEAC更新をしてもらう必要がある。打合せがしたい。午前中30分だけ空けてくれ。」

「今日は既に午前も午後も一杯です。ダブルブッキングも多数ある。無理ですよ。」

「では、12時から12時半ということで。」

「…。」

こんな調子で過ぎて行った二週間。息継ぎ無しで50メートルプールを延々と往復しているような気分でした。そんな忙しさの真っ只中、木曜の午後五時でした。仕事に没頭する部下たちに別れを告げ、職場を後にする私。ビルの地階ロビーに下りると、続々と仲間が集まり始めます。マリア、リチャード、サラ、彼女のパートナーのトリシャ、そして日系アメリカ人のジャック…。「エドは現地集合よ」とマリア。そう、今夜は久しぶりのJapanese Dinner Night(日本食の夕べ)なのです。最悪のタイミングだったけど、一カ月以上前に企画したイベントだし、みんなの都合もあることなので、急に延期出来なかったのです。今夜か明日の早朝出勤で遅れを取り戻すしかない…。

今回は初の試みとして、往復にFREDというサービスを利用することになりました。最大定員5名の電気自動車で、ダウンタウン内ならどこでも無料で連れて行ってくれるタクシーサービス。スマホにアプリをダウンロードし、今いる地点と行きたい場所をインプットすると、車のアイコンが地図上を動いて「あと7分です」などと知らせてくれます。間もなく、バンコク市街を走っていそうな窓の無い簡素な造りのミニヴァンが到着しました。女子たちを一台目で先に行かせ、リチャードとジャックと私は後発に乗り込みます。ドライバーは二十代後半と見られる白人青年。

何故こんなことが無料で出来るのかな、というジャックの疑問に、地元企業からの広告収入で賄えているらしい、と説明する私。乗客から見える位置に10インチくらいの液晶画面が設置されており、盛んにタウン情報を流しています。目の前の状差しには観光パンフレットが所狭しと並んでいる。なるほどそういうわけか、これは観光客に嬉しいサービスなんだね、とジャック。マーケットストリートを横切った辺りで、彼が言いました。

「ここら一帯は、かつてジャパンタウンだったんだよ。このコーナーは床屋だった。あの辺は居酒屋でね。で、あっちがチャイナタウン。」

「初めて聞きましたよ。全然知らなかったな。」

と、前を向いたまま感心する運転手。それ、いつ頃の話?と尋ねるリチャードに、ジャックが事も無げに答えます。

「第二次大戦前。」

若いドライバーは、きっと心中ずっこけていたでしょう。大戦前のサンディエゴを知る乗客なんて、そうそういないでしょうから。

数分後、5番街の高級寿司店Takaに到着。奥の大テーブルを陣取っていたエドと女性陣に合流します。今回の企画の目玉は、ジャックの米寿祝い。そう、我らが誇る古参社員のジャックは、先月88歳の誕生日を迎えたのです!今年エンジニア生活66年を迎えるんだ、と嬉しそうに笑う彼を囲み、パーティーがスタートします。

「バッテラって何?」

とメニューを睨んで尋ねるトリシャ。

「う~ん、バッテラね。何て説明すりゃいいのかな。箱にすし飯と魚を詰めてぎゅーっと押してね…。」

「ナメコって何?」

今度はマリア。

「2ドル追加するとミソスープに入れてもらえるって書いてあるわ。」

バッテラもナメコも、日本人の私ですら滅多に食さないメニュー。

「とにかく注文してみようよ。食べりゃ分かる。」

己の英語力の貧弱さを呪いつつ、逃げの一手の私。

バッテラやはまちのカマに四方八方から箸が伸び、これはウマい!と顔を見合わせる仲間たち。あらためて考えると、彼等の大半が十年以上の付き合いです。かつては同じオフィスで毎日顔を合わせていたのですが、ダウンタウンの高層ビルに移ってからは何か月も会わないこともしばしば。

「随分久しぶりね、この会。前回はいつだった?」

とマリア。

「一年半ぶりよ。ほんと、あっという間よね。」

とサラ。責められているわけではないと知りつつ、ごめんね、と謝る私。

「忙しさにかまけて、こういうお楽しみ企画を後回しにしてた。少なくとも四半期に一度くらいは集まりたいね。」

「じゃあ次回は秋ね。私、今度はまたあのお店に行きたいわ。ほら、皆でくっつきあって座るところ。」

と興奮を隠せないサラ。掘りごたつのことを言っているのですね。その時、「ナメコの方は…。」ウェイターが味噌汁を運んで来ました。あ、来た来た、ナメコだ!マリアが眼鏡を取り出し、サラは上体を乗り出します。茶色くぬめる物体をマリアが箸で摘み上げ、皆でためつすがめつ眺めます。まるで科学者の一団が、新発見とうたわれる検体の真偽を吟味するかのように。

その様子を眺めているうちに段々笑えて来て、私の中でしこっていた何かが溶け始めるのを感じました。今の仕事は楽しいし大好きだけど、僕は何か大事な事をなおざりにして来たんじゃないか。忙しいことが能力の証であるかのような錯覚に囚われ、自分のペースで人生を楽しむことを知らず知らずのうちに放棄して来た。他愛もない話で仲間たちと盛り上がる。たったそれだけのことで、幸せを味わえるっていうのに。

皆が敬遠していた軍艦巻きを口に放り込み、尊敬のどよめきを浴びるエド。ホタテを食べようかどうか悩むトリシャをけしかける私。デザートのシャーベットに火のついたロウソクを差してウェイターが運んで来て、ハッピーバースデイ!と目の前に置かれた瞬間、ふっと火を吹き消すジャック。え?もう消しちゃったの?とずっこける仲間たち。

そんな風に2時間が過ぎ、締めには黒胡麻のクレームブリュレを堪能して大満足の一同でした。

「古くからの仲間たちにこうして大事な誕生日を祝ってもらえるなんて、僕は本当に幸せ者だよ。日本では88歳が特別なマイルストーンだと教えてくれて、この会を企画してくれたシンスケには、特に感謝してる。有難う!」

立ち上がって私の右手を両手で強く握り締めるジャック。びっくりするほど長い握手でした。私は何だか胸が一杯になって、店を出る時みなに告げました。

「僕、歩いてオフィスに戻るよ。」

「え?今FRED呼んだわよ。あと5分で来るって。」

とマリア。

「うん、でも何だか歩きたい気分なんだ。じゃあね!」

もうすぐ夏を迎えるサンディエゴの午後七時半はまだ日が高く、建ち並ぶビルの一階を埋めるオープンバーやテラス式レストランの人混みが通りに滲み出して、街をアップビートのノイズで満たしています。笑顔でそぞろ歩くカップルやグループとすれ違いながら、静かに幸せを噛みしめていた私。仲間たちのお蔭で、久しぶりに元のリズムを取り戻せそうな気がしていたのです。そうだ、誰かの都合で急がされていてはいけない。自分の歩調で人生を楽しむんだ!

快いペースを保ち、オフィスを目指してひたすら歩きます。そのうち頭の中で、斉藤和義の名曲「歩いて帰ろう」をハミングしているのに気づきました。これ、ほんとにいい歌だなあ…。

帰宅後にあらためて歌詞を調べてみて、じわっと来ました。特に最後のところ。

急ぐ人にあやつられ 言いたい事は胸の中
寄り道なんかしてたら おいてかれるよ いつも
走る街を見下ろして のんびり雲が泳いでく
僕は歩いて帰ろう 今日は歩いて帰ろう


2017年5月28日日曜日

Never in a million years! 有り得ないわね!

金曜の朝。会社へ向かう車の中で、副社長パットのことがふと頭に浮かんで来ました。「どうしてるかな?連絡取ってみようかな。でも、ついこないだ話したばかりだし…。」交差点の信号が青に変わったので、そのまま考えるのを止めてしまった私。仕事を開始して時計が9時を回った頃、そのパットからテキストメッセージが入ります。

「今日話せる?」

今に始まったことではなく、この人から連絡が来る時は大抵、その前に何らかの予感みたいなものが走ります。

「今朝ちょうど、どうしてるかなって思ってたところなんだよ!」

「あら、どうして電話くれなかったの?」

インターバルが短か過ぎるかなと気が引けたのだとしたら、そういう遠慮は一切無用よ、とパット。簡単な情報交換の後、彼女が本題に入ります。

「PM達が必要な情報をさっと取り出せるようアシストしたいの。そういう基本的なレポートを作ってウェブサイトに蓄積する作業の手伝いをお願い出来ないかな、と思ったのよ。」

「ちょうど僕も、そういうことをやらなきゃなって考えてたところなんだよ!」

二つ返事で引き受ける私。

それから、ロスのR氏と彼女が最近交わしたやり取りの話題になります。本社の方針に従おうという気が、彼には毛頭無い。自分の縄張りは自分の好きなように仕切らせてもらうぜ、という姿勢が見え見えだ、というのです。北米全体で歩調を合わせているというのに、南カリフォルニア地域だけが独自のやり方で仕事を進めている。

「でもさ、いずれは彼も譲歩せざるを得ないんじゃないのかな?仮にも本社が指示してることなんだから。」

あまり深く考えず答えたところ、彼女が大きなため息をつきます。

“Never in a million years!”
「百万年に一度の確率も無いわね!」

思わず吹き出す私。これは、「絶対起こらない、不可能だ」と言いたい時に使う表現です。共に働く期間なんてせいぜい十年足らず。そこへ「百万年」という極度に誇張された母数サイズをぶち込んで来たところがツボに入ってしまい、暫く笑い続ける私でした。

電話を切った後、彼女との間で頻繁に起こるシンクロ現象についてひとしきり考えました。人知の及ばない超自然的な力がこういう奇跡的な偶然を起こしているんじゃないか、とその度に興奮して来た私。ところがここ最近、確率・統計の本を読み漁っているせいで、そんなのちっとも奇跡なんかじゃないのだという説得に負けそうになっています。確率を語る時、我々は母数の見積もりを誤る傾向があり、「この広い宇宙でこんなことが起こるなんてまさに奇跡だよね。」と過剰に感動してしまうのだそうです。

一年半前に家探しをしていた際、妻の誕生日が含まれた番地の物件に行き当たり、「これって運命かも!」とはしゃいだ二人。結局今、その家に住んでいるのですが、最近になって妻がこんなことを言いました。

「実はこの番地、あちこちで結構見つかるのよ。よくある番号みたい。」

まるで、頼んでもいないのにマジックの種明かしをされたみたいな気分の私。

「データを正しく見るための数学的思考」という本には、こうした興醒めなお話が数々紹介されています。「全国では五つの和を当てるロトくじは何百とあり、何年も前からある。それをすべて考慮すれば、三日のあいだに二つの当選番号が同じになるという偶然は、まったく驚くようなことではない。」

数年前の一時帰国最終日、これから旅行に行くんだという旧友と都心でランチを共にし、また何年後かに会えるといいね、とお別れを言った十数時間後、ロサンゼルス空港を出たところでバッタリ再会。「もしかしたら二人はここでもう一度会う必然があるんじゃないか」と、不思議なドラマの始まりに胸を躍らせることもなく、苦笑いですれ違う中年オヤジ二人。

数学的思考を訓練していくと、きっとこうしたいわゆる「偶然の出来事」にクールな対応をするようになるのだと思います。数週間前にモンテカルロ法を教授してくれたリスクマネジメント・エキスパートのフィルが常に冷静沈着で無表情なのも、きっと数学者の視点で世界を眺めているからなんだな、と合点がいきました。彼のような男はきっと結婚に際しても、婚約者に「僕たち、運命の赤い糸で結ばれていたんだね」みたいな甘いセリフを吐くことは決して無いでしょう。

よくよく考えてみると、我々の日常会話の何割かは「奇跡的偶然」ネタです。15歳の息子も昨日、「三日前に夢で見たことがネットで話題になってた」と高揚して語っていました。こういう話題をいちいち「有意性の検定をしてみれば分かることだけど、それは奇跡でも何でもなくてね…。」などと冷静にあしらっていたら、かなりの確率で友達を失うことでしょう。気をつけなくちゃな、と数学的思考に対する警戒心を強める私でした。

さて、その日の昼休み。ランチルームで弁当を広げていたら、生物学者の同僚サラが隣に座ります。庭造りの話題から、我が家の家探しにまつわる「偶然」の話になりました。すると彼女が、こんなエピソードを披露してくれました。

結婚前、ひとり車でオープンハウスを巡って家探しをしていた彼女。飛びきりの物件が見つかったある晩、婚約者に見せようと息を弾ませ、コンピュータでグーグルマップのストリートビューを開きます。写真を拡大して行くうち、お目当ての物件の前に路上駐車しているのが自分の車であることに気付いて慄然としました。ということは、ちょうど彼女が住宅内部を見学している数分の間にグーグルマップの撮影車が通過し、更にそれから数時間のうちにストリートビューの写真が更新されたことになる…。

「彼と今住んでるのが、その家なの。」

ニッコリ笑うサラ。おお~っ!と思わずのけぞって純粋に驚嘆する私。

数学的思考を身に着けるには、まだまだ時間がかかりそうです。


2017年5月20日土曜日

Out of the frying pan into the fire ピンチを抜けたら大惨事

最近は家族で、TVドラマ “Better Call Saul”にハマっています。全米大ヒットドラマ Breaking Bad(ブレイキング・バッド)のスピンオフで、前作で脇役だった男が主役を張るというユニークな試み。しかしこれが、予想を遥かに裏切る面白さなのです。前作同様粒立ったキャラ設定、突飛ではあるものの不思議にリアルな筋立てで、ぐいぐい引き込まれます。この二作のどんなところが面白いと思うのかを息子に聞いてみたところ、

「嘘つくところ!」

という可愛いらしい返事が来ました。確かによく考えてみると、「ピンチを切り抜けようとついた嘘が更なるピンチを招き、嘘の上塗りを重ねて行く」パターンが多く、どんどん手が付けられなくなっていくトラブルの連鎖にハラハラさせられるのですね。二台目の携帯電話の存在が妻にバレてしまった、みたいな窮地に陥る度、「よくもまあそこまで巧妙な嘘を考えついたな!」と喝采を送りたくなるほど鮮やかな挽回をやってのける。しかしその嘘が更なるピンチを引き起こす。以下、その繰り返し。で、最終シーズンじゃ全てがバレて、てんやわんやの大騒ぎ。

さて火曜の午後は、同僚ディックとのミーティングがありました。盲腸破裂による長期休暇から復帰した時はまるで二十代の若者みたいに溌剌としていたのですが、どうも最近は多忙を極めているようで、エネルギー量の低下が傍目にも明らか。この打合せ自体、前週に予定していたものを彼が直前になって無理だと言い出し、延期したのです。本題に入る前に、近況を尋ねてみました。

「プロポーザルの締め切りが昨日の朝だったんだ。」

これだけ聞けば充分。大体事情は想像がつくからです。月曜締め切りというのは最悪のパターン。先週は忙しさのピークで、この週末もぶっ通しで働いていたということですね。

「昨日は朝一番でプロポーザルを提出してね。その後息つく暇もなく別件でクライアントとのミーティング。そこで、とんでもないことが起きたんだ。」

二年前に彼が提出した成果物を、クライアントはずっと放っておいた。修正が必要なら早めに言って下さい、と再三お願いしたにもかかわらず、ノーアクションのまま月日が流れます。それが突然昨日のミーティングで、何百ページもに及ぶ修正依頼書を手渡されます。そして、絶対明日までに完成させてくれと凄まれたというのです。

「あっちには何人もの担当者がずらりと並んでこっちを見つめててさ。何故か弁護士まで同席してるんだぜ。」

恐らく今夜は睡眠時間が取れないと思うが、ここはひとつ頑張って欲しい、と迫るクライアント側のPM。

「おいおい、絶体絶命じゃないか。」

クスクス笑って、ディックがこう言いました。

“Out of the frying pan into the fire.”
「やっとフライパンを飛び出したと思ったら炎の中さ。」

これは面白い表現だと思いました。何とか苦境を切り抜けたぞと安心していたら、更に厳しい試練が待ち受けていた、ということですね。後でネットを調べたら、「一難去ってまた一難」とか「小難を逃れ大難に陥る」という訳が出ていましたが、どちらもしっくり来ません。「炎の中」という事態の深刻さが表現出来ていないじゃないか…。

そこで私がでっちあげたことわざが、これ。

“Out of the frying pan into the fire.”
「ピンチを抜けたら大惨事」

「で、結局どうなったの?」

と私。ディックの顔が疲れているのは明らかだけど、一睡もしていない程とは思えません。

「断ったよ。」

「えっ?断ったの?一体どうやって?」

極端に理不尽な要求とは言え、相手はクライアントです。この手の依頼を断れば将来の仕事に響くかもと考えるのが筋でしょう。私なら反射的に、「何とかしましょう」というセリフが口をついて出ちゃうかも。

「日曜日は母の日だったのに、別件の締め切りがあったため週末ぶっ通しで働いた。この埋め合わせは必ず月曜の晩にすると妻に固く誓った。もしもこの約束を破ったら、結婚生活に重大な亀裂が入るだろう。それだけは避けなければならない。依頼の件は自分の能力の許す限り迅速に処理するが、今晩徹夜することだけはどうしても出来ないってね。」

これにはクライアントの誰一人として反論出来なかったのだそうです。
「なるほどね。お前の結婚がどうなろうと知ったことか、と言える人はさすがにいないだろうしね。僕もこないだ、ロブとの食事会に出席してくれとテリーに頼まれたんだけど、その日はちょうど妻の誕生日なんですと言ったら、無条件で辞退を受け入れてくれたよ。奥さんとの関係が最優先というのが、この国の一般常識なのかもね。」

日本で働いていた頃、第一子の出産に立ち会いたいから有給休暇を取らせて欲しいと申し出た同僚が、「お前が行って何の役に立つんだ。やめろやめろ。」と上司に怒鳴られる場面を目撃した記憶が蘇りました。

ディックが続けます。

「極めて個人的な言い訳だったけど、決して嘘じゃないんだ。これまでだってかなりの頻度で仕事を優先して来たからね。昨日のディナーを延期してたら本当にヤバかったよ。」

「その深刻さがクライアントにも伝わったんだね、きっと。」

ここでディックが再びニヤニヤし始めます。

「ギャレット覚えてる?ほら、二年前に東海岸へ転勤した若者がいただろ。」

ギャレットという彼の部下は、

「ニューハンプシャーの祖母の葬式に出なくちゃいけないので」
「ニューハンプシャーの祖父の葬式があるので」

と言って盛んに休みを取っていたそうで、暫くは笑って見逃してたんだけど、遂に

「お前んとこにはじいちゃんばあちゃんが何人いるんだよ!」

と突っ込んだのだそうです。嘘がバレているという自覚が全く無かったのか、あからさまに慌てるギャレット。これを見て、大笑いしたというディック。

早めにバレて良かったです。


2017年5月14日日曜日

Healthy Skepticism 健全な猜疑心

ある日の早朝。強烈な陽光を真正面から受けつつ、オフィスを目指して車を走らせていたサングラスの私。高速を降りてダウンタウンに入ったところで、赤信号につかまります。停車してぼんやりしていると、三歳くらいの女の子の手を引いたメキシコ系の女性が、左からゆっくりと横断歩道を渡って行きます。二人とも髪をきちんと束ね、黒っぽい上品な服を着て、まるでピアノの発表会にでも行くような「ハレ」感を漂わせている。おぼつかない足取りながら、母親の右手をしっかりつかみ、まっすぐ前を見て真剣な表情で向こう岸を目指す女の子の横顔を見送りながら、思わず微笑んでいた私。その時でした。女の子が不意にこちらを振り向き、小さな右手を挙げてバイバイのジェスチャーをしたのです。予想もしなかった展開。私も反射的に右手を挙げ、バイバイを返します。横断歩道を渡り終えた女の子が顔を上げて何か喋り、母親がこちらを振り返って微笑むのを視界の端におさめつつ、車を発進させます。

サングラスをかけた私は、どう贔屓目に見ても「怪しい東洋人」です。こんな不審人物にも心を許す少女の無防備さに感動し、ホンワカした気分で出勤したのでした。あの子がこの先、無闇に人を疑うような人間に成長しないといいけどなあ…。

さて、その日の朝一番は、副社長のパットと久しぶりに電話で情報交換。我が社のトップ約700名が一堂に会するリーダーシップイベントに出席するため、出張中だという彼女。

「チクるようで嫌なんだけど、一応耳に入れておいた方がいいと思ってね。」

と私。なるべく早く伝えたいことがあったのです。

火曜日、私がリードするプロジェクト・コントロール・チームの定例電話会議で、カマリヨ支社のジェシカが発言しました。

「デンバーからステファンという人が来て、うちのメンバーと個人面接して行ったの。プロジェクトコントロール・チームのスキル・セットを調べるって言われたんだけど、ハードコアな建設部門の業務経験に絞った質問ばかりなの。まるで、あんたのやってることはプロジェクトコントロールなんかじゃないって否定されてるみたいで気分が悪かったわ。」

これに呼応するように、サンタマリア支社のカレンが、

「うちにも先週来たわ。私は良い印象を受けたけど。だって彼、私達のキャリアパスを明確にするって言ってくれたのよ。先行きが見えない仕事だって半ば諦めてたのに、明るい未来を提示してくれたんだもの。すごく嬉しかったわ。」

これはそもそも、パットの号令で全米展開されている運動です。組織のあちこちで人知れず眠っているプロジェクトコントロールの人材を発掘し、ひとりひとりの強み・弱みを明らかにし、必要なトレーニングを提供。さらにはネットワーク化してコラボレーションを図ろう、というもの。

「ところがね、意外なことが起きたの。」

とカレン。

「ステファンがうちのオフィスに来た次の日、担当支社を行脚中だったL副社長を囲んでのディナーがあったのね。たまたまそばの席に座れたから、話題提供のつもりでこの件を話したのよ。そしたらみるみる顔が赤くなって、ものすごく怒り始めたの。俺に断りも無く、誰かが裏組織づくりを企んでいるのか!ってね。」

呆気にとられたカレンは懸命に釈明を試みたのですが、L氏の怒りはおさまらず、翌日サンタバーバラ支社を訪れた際にもこの「陰謀説」を持ち出して、けしからぬ暴挙だと憤懣をぶちまけたのだと。

「まあ何てこと!って言いたいところだけど、驚くには当たらないわ。」

とクールな反応のパット。

「この活動を始めた当初から、全米のエグゼクティブには根回しの大切さを何度も伝えてあるのよ。でも必ず誰かしらはコミュニケーションを怠って、こういう誤解の種を蒔くのよね。」

出張中にL副社長とバッタリ会うことがあったら、ちゃんと話しておくわね、情報有難う、とパット。それにしても、一社員の一言から咄嗟に悪だくみを疑って部下たちの面前で怒りを露わにするなんて、リーダーとしての品格を落とす態度よね、と溜息をつきます。側近に寝首を搔かれる可能性を日頃から憂えているからこその、この反応。普段はニコニコしてるけど実は疑心暗鬼なんだなあ、とちょっぴりL氏を可哀想に思った私でした。

「あ、そういえば、フィルって人から連絡あった?」

と話題を変えます。9月にダラスのトレーニングで知り合ったフィルは、原子力潜水艦の元乗組員にしてリスクマネジメントのプロ。先日私が全米対象のウェブトレーニングで紹介したエクセルのワークブックについてメールで意見をくれたのですが、それに返信する際、是非彼のアイディアを取り入れたい、とモンテカルロ・シミュレーションの指導を仰いだのです。

モンテカルロ法というのは、乱数を使って確率論的に数値計算を行う手法です。現在私の使っている計算モデルは、「プロジェクト・チーム全員の給料が年間3パーセント上がると仮定するとコストはこれくらい上昇するから、利益率の見込みは○○パーセント。」というシンプルな論法ですが、これを「給料の上昇率は人によって違う。ゼロパーセントの人もいれば10パーセントの人もいる。様々な可能性を考慮した場合、利益率の見込みはこれくらいの確率で○○パーセントになる。」と述べることで、より説得力を増すのですね。ダラスのトレーニング中、フィルがエクセル上でモンテカルロシミュレーションを回してリスクマネジメントをしていると聞き、今度あらためて聞かせてね、とお願いしたきりになっていたのです。

フィルが力説するのは、「大抵の人間は直観で動く。実際には大した可能性もインパクトも無い些末な心配事でも、過大に見積もって心を悩ませ、時間を無駄にする傾向がある。統計や確率の知識を使って本当に大事なことを見極められれば、冷静に、そして効率的にリスクに対処出来る。」ということ。モンテカルロシミュレーションはエクセルの標準ツールを使って回せるので、やろうと思えば誰にだって理性的なリスクマネジメントが出来るのだ、と。

一時間以上かけてフィルに手ほどきを受けた後、この手法の適用可能性の大きさに気付いて興奮を隠せない私。

「こんな便利なものを取り入れない手は無いよ。まずは僕のプロジェクトコントロール・チーム内で広めて、日常的に使うようにしてみるよ。」

「有難う。そう言ってもらって嬉しいよ。俺は過去数年、会社のキーパーソンと思われる人たちにさんざん売り込んで来たんだよ。みんな口では素晴らしいって言うんだけど、誰一人として実際に取り入れようとはしないんだ。俺にはその理由が全然分からない。」

そう言いながら、彼の声には抑揚がほとんど感じられません。リスクマネジメントを突き詰めるとこういう人間が出来上がっちゃうのかもな、と笑えて来るほど喜怒哀楽が欠如している。「嬉しいよ」というセリフも後半の不満も、ほぼ棒読みなのです。何かを売り込もうという人の口調がここまで冷静だったら、売れる商品も売れないぜ。

「これは難解過ぎる、とても手に負えそうもないぞ、って普通はビビるでしょ。単純に、どうプレゼンするかが勝負の分かれ目だと思うな。そうだ、パットって知ってる?プロジェクトコントロール担当の副社長なんだけど、話してみるといいよ。彼女が気に入って全社に広めれば、すごいことになる。今からワークブックに何か名前を付けといた方がいいな。フィルズ・フォーキャスト・ワークブックとかさ。」

はしゃぐ私に薄いリアクションを返した後、パットに連絡を取ってみるよ、とぶっきらぼうなフィル。本当に実行するかどうかは疑わしいな、と思いながら電話を切ります。

「ああ、一昨日電話があったわよ。モンテカルロ法の話をしてくれたわ。」

とパット。彼女の声に、フィルの売り込みが成功した様子は感じ取れません。

「彼、口下手だけど、すごく真剣で良い人でしょ。彼が薦める方法論を取り入れて、僕のチームで使ってみようと思うんだ。」

とフォローする私。ここでパットが、思い出したように言います。

「今後、プロジェクト・コントロールの分野に進むべきかどうか考えてるんだって。今のポジションにあまり将来性を感じてないみたいなの。」

「それは素晴らしいね。きっと強力なチームメンバーになるよ!」

とニュースを歓迎する私に、

「でもまだ迷ってるのよ、彼。だってまだプロジェクトコントロール・グループなんて、組織化を模索してる段階でしょ。誰かの一言であっけなく雲散霧消する可能性だってあるじゃない。」

と水を差すパット。

“I think it’s a healthy skepticism.”
「ヘルシー・スケプティシズムだと思うわ。」

Healthy skepticismとは、「健全な猜疑心」という意味ですね。確率・統計の知識を駆使し、常に冷徹な意思決定をするフィルの人となりを描写するのに、これほどぴったりした言葉は無いな、と感心しました。「プロジェクトコントロール」の意味も知らぬまま今の職に飛びついた私には、縁遠いフレーズです。よくよく考えてみれば、僕って結構感情的な人間だよな。L副社長のことを笑えないほど、他人の意図を疑って一喜一憂したりもするし。フィルみたいに、世の中をクールな目で見つめられるようにならなきゃ…。

昨日の夕方、一念発起してブックオフまで車を走らせ、確率・統計の本を買い漁りました。もう一度基礎から勉強し直し、ヘルシー・スケプティシズムを養おうと思います。


2017年5月6日土曜日

Clear as mud 泥のようにすっきり

月曜の朝、向かいの席からシャノンが、

「エクセルの質問していい?」

と身を乗り出します。

「喜んで!」

ぐるりと移動して横に座ると、彼女はモニター画面のワークシートを指さし、課題を説明し始めました。

都市計画部門のゲイリーが、朝一番でクライアントから依頼を受けた。夕方五時締め切りで、あるプロジェクトの財務情報を提供して欲しい、と。データを加工して要求通りのフォーマットに当てはめよ、というシンプルなお題なのだけど、過去に提出したレポートとの矛盾は絶対避けなければならない。ところがあいにく、担当PMのダグラスが休暇で留守中。このプロジェクトに日常的関与のないゲイリーは困り果て、普段ダグラスのサポートをしているシャノンならきっと何とかしてくれるだろう、とすがって来たのです。

歯医者の予約が入っているので午前中しか時間の無い彼女ですが、そんなゲイリーの期待に応えようとさっそく取り組み始めます。しかし、送られて来たエクセルファイルを開けてみてびっくり。過去に提出したレポート内のデータのほとんどは、誰かが手入力したもので、元データとのリンクや計算方法が一切不明なのです。これでは矛盾の有無を確認するための手がかりが無い。出し抜けに創作料理をレシピ抜きで差し出され、今から全く同じ材料を使って別のものを調理しなさい、はいスタート、とストップウォッチを押されたようなものです。

画面上のスプレッドシートをざっと眺めた後、これはもはやエクセルがどうこう言う以前の話だな、と悟った私。そして彼女に放ったのが、このセリフ。

“Clear as mud.”
「泥のようにすっきりだね。」

これは、前の週の電話会議中に仕入れた新イディオムです。数か月前に口火を切った、工期9年の巨大プロジェクト。PMのアンジェラ、そしてプロジェクト・ディレクターのティムとの定例会議中、二人が発したのがこのフレーズ。ごく最近終結を迎えたクライアントとの度重なる交渉の結果、契約額の分配方法が異常に複雑なものとなった。その経緯と概要を淡々と解説した後、ティムが静かにこう言ったのです。

“Clear as mud.”

するとアンジェラも、心からの同意を示す落ち着いた声で、

“Clear as mud.”

と繰り返します。そして、「シンスケのヘルプが必要だ」と私を持ち上げる二人。

へ?と思考が止まる私。「泥のようにクリア(すっきり)だ。」が何を意味するのかが、すぐに呑み込めなかったのです。どうして泥がクリアなの?

電話を切った後さっそくネットで調べたところ、これは「さっぱり分からない、ちんぷんかんぷん」という意味でした。泥という不透明な対象に「クリア(透き通っている)」という形容詞をぶつけることで分かりにくさを強調した、皮肉混じりの表現なのですね。

フレーズの意味を理解した途端、体内にアドレナリンが激しく噴き出すのを感じる私。よっしゃ任せろ!と。お題が難解であればあるほど、誰よりも速く鮮やかに解いてみせたくなる。周囲の者が膝を打ち、「なるほど!」と感嘆の声を漏らすほど美しく簡潔な解説を提供したい衝動に駆られるのですね。それはまるで、泥の中から砂金を掘り出す職人の性。

今回シャノンが与えられたお題も、まるで単色1000ピースのジグソーパズルのようで、一見して解決は不可能。

“Clear as mud!”
「泥のようにすっきりよ!」

私のセリフを繰り返す彼女。これはいくら何でも乱暴過ぎるわ、出来るわけ無いじゃない、と憤慨してもおかしくないレベルの理不尽さです。しかしふと見ると、シャノンの目はキラキラ輝いています。何が何でもこの難題を時間内に解いてみせる、という意気込みが全身に漲っているのです。それを見て思わず吹き出す私。

「まったく君って人は…。泥が深いほど燃えるんでしょ。」

と冷やかすと、ニッコリ笑うシャノン。

「その通り。これはどろどろよ。でもエクセルの計算式さえ上手く当てはめれば、解法は見つけ出せそうな気がするのよ。」

果たして彼女は昼までに分析を終え、見事にゲイリーの要請に応えて会社を出たのでした。

さて木曜の夕方、今度はシャノンの隣の席からカンチーが、

「エクセルの質問があるんだけど」

と懇願のまなざし。直ちに彼女の席に回ってワークシートをチェックします。タイトル行の各所に三層構造のセルがあり、別の列では三行が結合され単一セルになっている。表全体にフィルターをかけると、自動的に全ての列のトップ・セルが選ばれてしまう。最下行のタイトルセルにフィルターをかけるにはどうすれば良いのか?

一見シンプルなお題ですが、実際いじってみるとこれがなかなかの難物。彼女の隣にしゃがんで色々試したのですが、うまく行きません。

「5分ちょうだい。」

諦めて席へ戻り、ネットで検索を開始します。ところがここで、さっきから向かいの席で我々の会話を聞いていた新人のアンドリューが「ちょっと見せて」とやって来て、カンチーのコンピュータ上で試行錯誤を始めます。おいおい、彼女にヘルプを頼まれたのは君じゃないぞ。何を出しゃばってんだ?とちょっぴりイラつく私。しかし日頃チームメンバーの自由な発言や議論への参加を奨励している手前、ここで独占権を主張するのはさすがに大人げない。で、若者に負けじと作業を急ぐ私。するとなんと、今度はシャノンも興味をそそられたようで、「問題は何?」と横から首を突っ込んで来ます。げげっ。砂金の存在を嗅ぎつけた二人が、川にずかずか踏み込んで来たぞ…。

約束の5分が過ぎようとした時、アンドリューが遂に答えを見つけました。カンチーと二人でニコニコしています。彼の解答が、これ。

「タイトル行のセル結合を一旦すべて解除して、最下行のセルを使ってフィルターをかけた後、最初に結合していたセルだけ元に戻す。」

う~む、なんなんだその泥臭い手口は。君が乱入して掘り出したのは、断じて砂金なんかじゃないぞ。せいぜい銅か錫ってとこだ。こっちが見つけたかったのはそんなんじゃなく、光り輝く真にエレガントな解法なんだ!と胸中で舌打ちする私。でも、とりあえずカンチーが仕事を継続するために必要な答えは得られたので、作業を終了して皆で川を上がるしかない。

ちょっとの間、なんだか顔に泥を塗られたようですっきりしない私でしたが、暫くするうちにじわじわと嬉しさがこみ上げて来ます。

いいじゃん、うちのチーム。下剋上結構。自ら進んで泥に飛び込む、気合の入った猛者どもの集団が出来て来たぞ…。