一月最終週の夕刻。そろそろサービス残業を切り上げようとコンピュータ画面の清掃に取り掛かっていた時、同僚ディックから電話が入りました。
「こんな時間にすまん。ちょっと話せるかな。」
リモートワークがスタートしてから約一年が経過し、同僚たちと顔を合わせるのはコンピュータ画面を通してのみという日常。思い返すと、仕事上の直接の繋がりは薄くランチに誘ったりオフィスの片隅で無駄話を交わしたりするディックのような仲間とは、自然と交流が減る傾向にあります。実際、彼と最後に対面したのがいつだったのかすら思い出せません。
「Two
Weeks’ Noticeを提出した。シンスケにはなるべく早く伝えておきたかったんだ。」
Two Weeks’ Notice(二週間前通知)とは、会社を辞める日の二週間前に人事に提出する書類のこと。つまりディックは、辞職の決意をしたわけですね。
去年十月の組織改編以来、次から次へと苦難に襲われ、渡米以来最悪の精神状態になっていた私にとって、今や「親友」とも呼べる同僚のこの告白は衝撃的でした。
実は時を同じくして私も、会社を去ることを真剣に考え始めていたのです。秋の組織改変で我々プロジェクトコントロール・チームは組織図の隅に追いやられ、低賃金の海外チームに仕事を回すようプレッシャーをかけられています。長期展望など微塵も感じられず、今を生き延びるためのコストカットを敢行し続ける上層部。度重なる無慈悲なレイオフで職場の士気がダダ下がりの中、アリーシャ、ティファニー、デボラ、カンチー、カサンドラ、ジゼルが続々とチームを離れて行きました。その穴を埋めるべく新規採用を図っても、「駄目だ。フィリピンかルーマニアの社員を教育して使え。」と撥ね付けられる。こっちはPM達と、毎日トップスピードで二人三脚を走ってるんだ。その間地球の裏側でスヤスヤ寝ている人たちに、どうやってこの仕事が務まるって言うんだよ?第一、これほど極端なオーバーワーク状態の中、我々の仕事を奪おうとしている連中をトレーニングするためにわざわざ時間を割けと本気で言ってるのか?
新組織のリーダー層は、過去にも、そしてこれからも直接の対面は無いであろう面々です。その多くは東海岸にいて、西海岸の事業運営やカルチャーに疎い。「プロジェクトコントロールなんてものがどうして必要なんだ?」とハッキリ言われたことさえあります。チームの存続が危ぶまれる中、何とか残留組を護るために引き受けた新たな任務は、出来るだけ各プロジェクトから利益を搾り取るよう画策するというもの。これまで一貫してPM達の守護役を務め、コンサバなコスト予測を勧めて来たというのに、「アグレッシブに予測コストを削って1ドルでも多くプロフィットを計上せよ。」とプレッシャーをかけなければならない。民衆の保護者と圧制者の手先という真逆の役割を演じ続けるうち、ジワジワと神経が参って来ました。
コロラドにいる息子からある日電話がかかってきて、
「パパ、仕事大変なんだって?」
と気遣ってくれました。どうやら母親から、私の近況を伝え聞いた模様。
「うん、一日の仕事を終えるたびにズタボロだよ。身動きするのも嫌になるくらいね。」
と私。すると息子は、ヘビーな視聴者だけに通じる「進撃の巨人」ジョークを持ち出します。
「黒焦げになったアルミンみたいに?」
「いや、どっちかっていうと憔悴し切ったライナーだな。」
と、すかさず返す私。
「アハハ、それいいね!」
そんな感じで一日ずつギリギリ凌いでいた時、ディックの辞職を知らされたわけです。
「何度も自問自答したんだよ。Am
I just naïve?(単に俺がナイーブなだけなのか?)ってね。」
時々声を詰まらせながら、苦渋の決断について語ってくれたディック。
「いやいや、まともな神経の持ち主なら到底やってられないよ。」
と首を振る私。転職先には、うちの会社のブラックぶりに嫌気がさして移って行った仲間が大勢いて、彼の決断を手放しで喜んでくれているとのこと。それは良かったじゃないか…。
「あっちで落ち着いたら、シンスケに合ったポジションが無いか探してみるよ。」
「それは有難う。」
二月初旬のオンライン送別会で彼の旅立ちを祝った後、私の精神状態は降下の一途を続けました。三月のある週末、このままじゃ再起不能になっちまう、と危機感に襲われた私は、ふと思い立って副社長のパットに電話をかけます。
「会社を辞めようかって、本気で考え始めてるんだ。」
十分くらいかけて、思いの丈をぶちまけた私。彼女から一体どんな慰めを期待していたのかは思い出せませんが、返ってきたのはこんな言葉でした。
「愚痴を言ってるだけじゃ何も生まれないわよ。現場はともかく、会社の上層部はあなた一人辞めたところで何とも思わないでしょ。労せずして一人分コストカット出来たぞって喜ばれてお終いよ。あなたはリーダーなのよ。こういう時こそさっさと泥沼から脱け出して、問題解決者の視点に立つべきじゃない。何かが上手く行っていないというのなら問題の構造を解析して、どこをどう変えれば良くなるかを考え抜くの。あなたやあなたのチームにとっての問題じゃなく、経営者にとっての問題を解決する具体策を企画書にして売り込むのよ。それが受け入れられなければ、その時辞めればいいじゃない。」
側頭部に後ろ回し蹴りが綺麗にキマったような、文句のつけようがない完全KO。爽快感さえ覚えるほどでした。そうだ、パットの言う通りじゃないか。彼女と話して本当に良かった…。
この電話を境に、私のメンタルは改善へと向かい始めました。さっそく翌週、アウトソーシングに係る問題を分析し、解決策とともにマトリクスにまとめて上層部に投げます。不思議なことに、この行動に出た途端、怒りや不安が激減したのです。問題の只中で悶絶するのを止め、コンサルタントの視点で問題解決に取り組むことは、精神衛生上大いに有効なのだ、という素晴らしい教訓になったのでした。
さて、木曜日の四時半。処理速度を遥かに超えみるみる積み上がって行く仕事を横目に見つつ、電話会議に参加しました。これはFirst
Thursday Seriesと呼ばれる月一回のプレゼン・ミーティング。毎回、自薦他薦のプレゼンターが業務に関係無い話をする、お楽しみ会ですね。コロナでリモートワークが始まってからというもの、オンラインでの開催が続いています。今回はGIS(地理情報システム)チームのダンが、南カリフォルニアの砂漠地帯(パームスプリングスやジョシュア・ツリー)に散在するオススメ訪問スポットを紹介する、という企画でした。グーグルアースの航空写真上に各種の情報を重ね合わせ、ズームイン、ズームアウトを繰り返しつつ優雅に飛び回り、美しい写真を披露します。まるでドローンに乗って広大な土地を高速移動しながら、気の向くままに降り立ってあちこち散策している気分。
鳴り物入りで砂漠の真ん中に作られたものの倒産して廃墟となった、落書きまみれの大規模ウォーターパーク。便器などの廃品を積み重ねて作ったオブジェが所狭しと並ぶ野外美術館。まな板状の巨大岩盤に描かれた、「ナスカの地上絵」のような製作者・年不詳の壮大な落書き。ゴツゴツした岩山の中腹に忽然とそびえ立つ、映画「ミスター・インクレディブル」の舞台になりそうな摩訶不思議なデザインの豪邸。そして整然と立ち並び下界を見下ろす、数百を越す風力発電用プロペラ塔群…。
ダンのプレゼンのお陰で暫しの間、殺伐とした日常を離脱し、バーチャルな空中遊泳を愉しむことが出来たのでした。
「僕は砂漠が大好きで、一年に何回も遊びに行ってるんだよね。今回紹介しきれなかったお勧めの場所もまだまだあるんだ。話を聞いてくれた皆にこのファイルをシェアするから、是非行ってみて欲しい。」
何とも言えぬ浮遊感の余韻に浸りながら、ダンにお礼を言います。ふと気づくと、今回の出席者は僅か十人足らず。オフィスで開催していた頃は、毎回三十人を超えていました。たくさんの同僚たちが会社を去ったのに加え、最近は誰もが超多忙だし、オンラインのみの開催ではイマイチ引きが弱い。でもこんな楽しいプレゼンを聞き逃すなんて、勿体ないよなあ。出席出来て本当に良かった…。
「さて皆さん、来月以降、プレゼンしてれるボランティアを募集してます。是非名乗り出て下さい。」
とダンが続けます。彼は、この手のお楽しみ企画をリードする「職場改善委員会」の一員でもあるのです。
「我こそは、という人がいたら、クリスティンかキャサリンに連絡して下さい。僕は今回をもって皆とサヨナラしなきゃいけないんで。」
瞬間、空気が凍りつきます。
「つい先日、Two
Weeks’ Notice(二週間前通知)を提出しました。皆と楽しく話すのも、これで最後になりそうです。今まで本当に有難う。」
オンライン会議が、水を打ったように静まり返りました。誰も反応出来ずに十秒ほど経過した時、なんとダンが笑いながらこう続けたのです。
「というのは、エイプリルフールの冗談です。当分、辞める予定はありません。」
なあんだジョークかよ、とどよめきが起こるまでに、暫く間が空きました。この日が四月一日だったことに気付いた後でさえ、今の告白が本当に嘘だったのかどうかを見定めかねて、皆戸惑っていた様子。
ありゃ悪い冗談だぜ、と後でテキストしたところ、悪びれる様子も無く笑顔のアイコンで返して来たダンでした。