「正直に言うね。これじゃ全然弱いよ。大幅に修正する必要がある。」
先日、部下のテイラーとの電話会議中、たまらず本音を告げた私でした。
「君のやって来たことのインパクトのデカさが、なあ~んも伝わって来ないんだよね。」
議論の対象は、彼女が年度末に書き上げた自己業績評価。会社の年度は十月にスタートするので、先月が2020年度末だったのです。社員はそれぞれ、オンラインシステムに自分の仕事の成果や成長について記載し提出。これを上司が評価して採点する、という仕組みになっているのですが、私は何年も前から自分のチームメンバーと、原稿の段階で議論するようにしています。というのも、彼女たちが自分の業績を過小評価する傾向があることに気づいたから。
「たとえばさ、君はついこないだプロジェクトマネージャーになることを求められただろ。入社三年で。しかもそのプロジェクトをこれまで担当してた人は、かなりのベテランだ。それをまるで普通のことみたいに書いちゃってる。結局PM資格は棚上げになってしまって、それを残念な事件みたいに描写してるけど、何故却下されたかと言えば、ただ単に早すぎたからだろ。これほどの短期間でPMに推された人はかつて存在しなかったし、会社が規定する昇格プロセスを経ていないからというだけの理由で受け入れられなかった。裏を返せば、これは前代未聞の大抜擢だったんだよ。そのことに触れないで淡々と次の段落へ進んじゃってるんだからなあ、もう。もどかしいにも程があるよ。」
「なるほど。本当にそうですね。学生時代に訓練された文章の書き方が染み付いてるみたいで、どうしても淡白になっちゃうんです。書き直します。」
言いたいことは躊躇なく口に出すし、行動は時に過激。自己肯定感が強く、若造でも構わず公の場でガンガン自己アピールする。渡米五年目くらいまで、それが私にとってのアメリカ人のイメージでした。しかしそのうち段々と、そうでもないタイプの知り合いや同僚が現れ、これは考えていたよりちょっと複雑だぞ、と気づき始めます。自分のチームを持つようになり、しかも採用時には注意深く人となりを審査していることも手伝ってか、こちらが戸惑うくらい謙虚な人間に取り巻かれることが増えたのでした。
チームメンバー達が慎ましく腰が低いことには何の不満も無いのだけれど、年一回のこの自己業績評価においては、少しばかり態度をあらためてもらわなければならない、というのが私の主張。公式文書として残るものであり、それが独り歩きした時に微妙なニュアンスは霧消する。この文書が会社の決裁ルートを上って行き、それをベースに彼女たちの報酬を最終決定する人たちは、当人たちと面識すら無いことがほとんど。であれば、この際謙遜はマイナスでしか無い。冷静に過去一年を振り返り、自分の成長や貢献度を出来るだけ正確に描写することが、極めて重要なのです。
更にこのプロセスを通し、彼女たちが自分の仕事の価値を再確認し、自信を高めてくれたらいいな、というのも私の狙いです。たとえ「いや給料もらってますし、これが私の仕事ですから」という日常であっても、過去12ヶ月間を丁寧に振り返ってみると、「あの時かなり悩んだ末に、こんな決断をした。その結果、自分の役割も責任も大きく膨らんでしんどくなったけど、プロジェクトにこういう変化がもたらされた。後から考えれば深刻な損失が出てもおかしくなかった大ピンチを、すんでのところで私のリーダーシップが救った。」そう言えるような転機がいくつかあるものなのです。それをひとつひとつ思い出して記録するうち、まるで赤ん坊がハイハイした、最初の言葉を発した、立ち上がった、というような具体的な成長の記憶が脳に刻まれ、自己肯定感が高まるのですね。
先週は、カマリロ支社にいる部下のケリーと電話。彼女の自己業績評価レビューをしました。
「ただでさえ忙しいさなかに、君は自ら手を上げて新PMツールのスーパーユーザーに立候補したんだぜ。せっせとトレーニングを受けに出張したりしてさ。その努力によって数多くのPM達が助けられた。どうしてそれを書かないかな?」
「あ、そうね。確かに。それを特別な貢献だとは、正直思ってなかったかも。」
「特別なんだよ。毎日決まってやってる仕事以外、全て特別だし、自分の意思でコンフォートゾーンを踏み出した時というのは、まず間違いなく成長してるんだ。それをちゃんと拾い上げてやらなかったら、自分が可哀想じゃないか。」
ここでケリーに、長い間私は、アメリカ人というのはみな押し出しが強く、自分を本物以上に大きく見せる術に長けている人たちというイメージを抱いていたことを告げました。だからこうしてチームメンバー達と喋ると、あまりの慎み深さに拍子抜けする、と。
「アメリカ人のほとんどは謙虚だと思うな。映画や政治ニュースに登場する人達が、むしろ異常なのよ。少なくとも私の周りには、そんな自惚れ屋いないもの。」
人種のるつぼと称されるような国なので、そもそも「アメリカ人は」という括りで語ること自体にあまり意味は無いのかもしれないけど、私にとってこの気付きは、アメリカ映画に夢中だった若い頃の自分に伝えてやりたくなるような驚きなのでした。
さて先週の金曜日、モハビ砂漠の真ん中に建つ刑務所の改築プロジェクトを担当するPMのブレットと電話会議がありました。マイクロソフト・ティームズを使って画面を共有し、エクセルで作ったスタッフプランをレビューします。タスクごとに担当者の計画労働時間を打ち込んで行くと同時に、利益率の変化をチェックします。巨大なスプレッドシートを巧みに操る私に、
「シンスケ、君はホントにすごいなあ。俺はこんな仕事、絶対やりたくないよ。」
と感嘆するブレット。毎日のように摂氏40度を超える現場に出かけている彼の方がよっぽどキツイ仕事をしているのですが、きっとコンピュータ上の操作の方が難度が高いように見えるのでしょう。その時彼が、静かに
“You’ve got the brain. I’ve got the brawn.”
と呟きました。最後の言葉は「ブロン」と聞こえたのですが、意味が分からず思わずエクセルの手を止めます。
「え?今なんて?スペルは?」
微かに笑いながら綴りを教えてくれるブレットに、ブロンというのは初めて聞く単語だよ、と答える私。電話会議の後あらためて調べたところ、Brawnというのは「ブロゥン」と発音し、そもそも豚の頭部の肉(骨と目を抜いた部分)を煮こごりにした食べ物(ヘッド・チーズ)の別称。「たくましい筋肉」とか「腕力」という意味に使われる言葉でもあるとのこと。文字数も意味も、Brain(ブレイン)とかけて洒落るのに絶好の相方。ブレットが言いたかったのは、こういうことでしょう。
“You’ve got the brain. I’ve got the brawn.”
「君には頭脳があり、俺には腕力がある。」
つまり、
「君は頭脳派、俺は肉体派。」
ここまであからさまに謙遜を表現する英語表現があったのか、と感心。あらためてアメリカ人を見直す私でした。